サイレント・ノイズ 第二話
――偽リノ夜――
05
「いつものって、どう言うつもりだ」
ぼんやりと外を眺めていると、まだ数度しか聞いていないはずの声が、懐かしく響いた。それから、ドアをかちゃりと閉める音がする。それがためらいがちで、ラルフは相手も同じように迷っているのだと知った。
でももう、答えは出ている。
「別に。なんとなく口から出ただけだ」
駆け引きを楽しむ余裕があろうなどとは、ラルフは思っていなかった。ただ、それを相手が望むなら、答えようと思ったのだ。気のないだろう相手と、見せつけるようなことをしているのならばと。
「まだ二度目だ」
「わかってるよ。希望でも入ったのかな」
電灯をつけていない暗い室内で、互いの顔はよく見えていない。ラルフも電気をつけず、入ってきたシュリも、スイッチに手を伸ばそうとはしなかった。
「希望……ね」
そんなものがあるのかと言う口調で、シュリが呟く。その口から発せられた希望と、絶望は、ひどく似ているとラルフは思った。
沈黙が、外で降る雨のように、二人を侵食していく。口を開いたら、何もかもを壊してしまいそうだった。聞いては、いけないこと。知っては、いけないこと。それが、二人の間には多すぎる。疑惑を確信にすることは、決してしてはいけないことだった。
しゅっと音がして、シュリがネクタイを解いたのが分かる。ラルフはそれでも、外を眺めつづけていた。電灯が一つ、道を照らしていた。あまりに明るいその光は、場違いだ。そこだけ、雨が降っていないかのように。
不自然なのは、人工的に暗くしているのに、その中でまた、人工的な明かりを点していることだ。人はそうやって、ばかばかしいことを考える。失ったものを、取り戻そうと。
「どうして、またあのバーに来た」
ラルフは思い出したように、そう呟いた。自分は常連とまではいかないが、数度あのバーには行っている。でも、シュリは前回が初めてだったはずだ。いつもなら、もっと高級なところへ行っているだろう。
「――雨が、降ったから」
背後から、シュリが窓の外を見ているのがわかった。ラルフはその窓を開け放したまま、そっとシュリに近寄った。そのまま、唇を重ね合わせる。紗のかかったように、はっきりと見えない暗闇の中で、抱き合った。全てをはっきりと、記憶しないように。思い出すたびに、きっとすべては闇の中だ。ほの白く浮かぶ、この四肢さえ。
触れなければ、体温が上がったのがわからない。薄っすらと染まった目元も身体も、暗闇では判別できない。分からないからこそ、執拗に身体中を撫でながら、ラルフはそれでいいと思った。
撫でまわされて声を上げるシュリもまた、ラルフに触れて離そうとしない。何も、知らないままでいれば、こうして抱き合うことができるのだ。
そんな相手と、一番無防備な格好で夜を過ごす自分が、二人とも不思議でならなかった。
シュリ、と思わず呟いたラルフの腕の中で、その身体が一瞬強張るのがわかった。熱い吐息を吐きながら、どうして、と囁くのが聞こえる。
「シュリ……」
もう一度、今度ははっきりとその名を呼ぶ。定まらない瞳が切なげに揺れて、ラルフを包み込むところが、柔らかく伸縮した。
「シュリ」
その、名だけ。知っているのはそれだけだ。そう言うと、甘く喘ぎながら、俺は知らない、とシュリが言う。
「……っん……俺……は、それすら、知ら……ない」
煙が漂う、あの闇の中。二人はきっと、互いを認めていた。でも、それを確認したりしない。してしまったら、最後だとわかっている。だから何も、名前さえ知らないでいた方が、良かったのだ。
でも。
ラルフは、その名を呼びたくて仕方がなかった。腕の中にいる人が、間違いなく存在することを、確かめたかった。
細く白い腕が、ラルフの顔を撫でる。熱に浮かされたような目で、じっと見詰められた。
「ラルフ」
言うと、瞳が閉じられた。それから、何度か緩やかな挿入を繰り返すと、その口から喘ぎが漏れる。
「ラル……フ」
今だけ。今だけなら、その名を甘く呼べるだろう。何も、知らないままに。
名を呼んで、互いの存在を確認しながら、それが幻ならいいと思っている。雨の日だけの、幻であったらと。
こんなにも熱いのに。
こんなにも、触れているのに。
執拗なまでに、シュリはラルフを求めた。ラルフはそれに答えながら、もう会うことはないのかもしれないと思う。同じことを思って、シュリはラルフを求めているのだと。
「何をしたい?壊れたいのか、気絶でもしたいのか」
ラルフがそう囁くと、熱のこもった息で、両方だと答えながら、シュリが足を絡める。もう、腰も支えられないだろうに、瞳だけは艶かしく濡れていた。突き上げれば甘い声を上げ、ラルフを全身で捕らえる。
ラルフは自身も必死に堪えながら、ゆっくりと高みへ導いていく。それでも後少しと言うところで、望むものを与えようとしない。シュリが焦れてねだるような、非難するような声を上げるが、ラルフはなかなか許そうとしなかった。それが、最後だと思うから。
「ラルフ……」
その声を、記憶に刻みたいと思うから。
傷口がぴたりとくっつくように、二人は全身を絡ませる。
この孤独は、こんな風にしか埋められないのだろうか。
ラルフはあらゆる部分でシュリの熱を感じながら、そんなことを思っていた。二人が、惹かれあったその理由。ラルフはいつもそんな風に、自分を納得させてきた。
緩慢な動きを突然激しくすると、シュリが泣いた。構わず叩きつけて高みに達すると、ラルフはその上に身体を重ねた。ぐったりとして、力が出なかったのだ。荒い呼吸を何とか整えると、ゆっくりとシュリから身を離す。真下に見えるそのシュリは、微かな呼吸をしているだけで、意識を飛ばしたようだった。
ラルフはベッドに腰掛けて一服すると、目を閉じて大きな息を吐いた。
今離れなければ、二人はきっと、もっと傷つきあうだろう。
だから。
ラルフはざっと後始末をすると、服を着た。それから、ぐっと唇を噛んだまま、振り向かずに部屋を出た。
二人が、望んだことだ。
今ならまだ、遊びだったと言えるはず。
そう、恋はいつも、遊びだったのだから。