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サイレント・ノイズ 第二話
――偽リノ夜――

04

 自分も諦めが悪いと、つくづく思う。
 ラルフは、もう一度だけ、あのバーに行ってみようと思った。そこで会えなければ、きれいさっぱり忘れてしまおうと。
「誰を思い出してるの?」
 一昨日の晩、スカイにそうあまやかに笑われた。それも、最中に、だ。
「思い出す?誰を?」
 ラルフが緩慢な腰の動きを止めると、スカイは不満そうに眉根を寄せる。
「それは俺の質問」
「何だよ」
「だから、誰を思い出して俺を抱いてるの?」
 心外だ、とラルフは思った。例え相手が商売人だとしても、他人のことを考えて抱いたりなんかしたことはない。そう言うと、スカイはまた、艶やかに笑った。薄く白いような金髪が、さらりとその額に落ちる。
「あのねぇ、分かるんだよ。抱き方で、わかる」
 スカイはそう言う。
 ラルフも、心当たりがないわけではない。思い出すと言うより、ずっ自分の中のどこかに居座っているような人物がいるのは確かだ。それが誰なのか、知ることもできない。知ってはいけない。そんな、人が。それでも、その表情も抱いた感触も、声も、忘れることができずにいる。
「別に責めてるんじゃないよ?」
「わかってる」
「むしろ、喜んでいるんだから」
 スカイがそう言いながら、自ら足を絡めてくる。ラルフの腰をしっかりとその足で掴むと、ゆっくりと腰を使った。そうやって喘ぎながら、スカイは楽しそうに笑った。
 自分も、同じだろう。
 ラルフは眼下で妖艶に笑うスカイを見ながら、そう思う。特定の相手を作らずに、この商売から足を洗う気もない、スカイ。年に不似合いなほどの厭世観を漂わせているのは、仕方がないことなのか。
 幼少の頃からずっと身体を売ってきたスカイに、この先の未来が明るいなどと軽々しくは言えない。生きていくための手段であって、でも、生きる目的さえどうやって見つけたらいいのかわからない。そんな生活をしてきたのだ。
 誰かが、救えればいいと思う。それが自分ではないことをラルフは良く知っているから、はやくそんな相手ができたらと思うのだ。
 互いに、抱き合いながらそんなことを思っている。奇妙な関係だと思う。
 恋は遊び。
 それが、ラルフの持論だった。だから今回も――
 その声が、繰り返されるのは楽しみからだ。その感触が、姿態が浮かび上がるのは、ゲームを楽しんでいるからだ。
 そう何度自分に言い聞かせても、どこかに何かが残っている。ラルフはそれを、はやく捨てなければならないと思っていた。

 西区のそのバーは、地上にはあるが、場末のバーと言う感じのところだった。決して、高級なところではない。ラルフは、ときどきそこを使っていた。地上に来て飲みたいときに、そこに行くことが多かったのだ。
 今夜そこに行こうと思った理由はもう一つ。雨を降らすと、公示されていたのだ。今日の雨は、霧雨だという。それが、ラルフを感傷的にさせた。
 地下にいれば、雨など降らない。まるで水槽の中のように、一定の気温と、一定の明かりが供給されるのだ。だからときどき、ラルフは雨が恋しくなる。
 バーに向かって歩いているときには、もう雨が降り始めていた。やっと目に見えるほどの、細かい雨だ。これくらいならば大丈夫だろうと傘も差さずにいたら、バーにつく頃には全身がしっとりと濡れていた。黒いシャツが、肌に張り付く。暖かな春の気温も、さすがに肌寒く感じた。
 目の前の相手の顔がやっと見えるほどに明かりの落とされた店内に入ると、ラルフの視線は自然と泳いだ。探している人物の顔など見えなくても、雰囲気でわかる。ラルフは目の片隅にその人物を認めると、すっと視線を外してカウンターに腰掛けた。連れなのか、わりとがっちりとした体型の男と一緒にいるのが見えた。
「ウイスキーをロックで」
 そう注文すると、バーテンダーが軽く頷いてコップとウイスキーを取り出した。ラルフはそれを、ぼんやりと眺める。
 こんな風にもう一度会ったら、きっとまた手を出さずにいられない。そうと分かっていながら、探す自分がおかしかった。
 出てきたウイスキーを、何人かに誘われたのを軽く断りながら、ゆっくりと飲んだ。琥珀色の輝きを楽しみ、氷の溶ける音を聞く。その間、ラルフはたった一度の夜を、思い出していた。
 なぜ、スカイではいけない?
 性欲は、それで充分満足しているはずだった。スカイとの身体の相性は抜群で、さんざん抱き合うのだから。
 でも――
 思い出すのは、あの黒い髪だ。冷たくて鋭いのに、淵が赤く染まった目だ。ねだるように、命令するように囁かれる、あの声だ。
 似ているのかもしれなかった。どこか、同じ匂いを感じるのかもしれなかった。
 大切なものを失って、孤独を好むようになった。でも、そっと寄り添い合える誰かを探している。傷が癒されなくてもいい。その傷ごと、包んでくれるのなら。
 触れたい、と思った。無性に、抱きたい。抱かれたい。
 ラルフは残ったウイスキーを煽ると、ゆっくりと立ち上がった。それから、出口へと向かいながら、そっと男の耳元で囁いた。
「いつものところで、待ってるよ」
 相手の男の顔がこわばったのが見える。囁かれた本人さえ、一瞬固まるのがわかった。その全てを分からない振りをして、ラルフは振り返りもせずにドアを開ける。
 雨はまだ、密やかに降り続いていた。


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