サイレント・ノイズ 第五話
――盗マレタ声――
01
レベル30区域の下には、闇しかない。32区域目の工事中、度重なって起こった事故によって、31区域目も居住不可地域に指定された。今では、廃墟になったその二区域は、ごみ捨て場になったとの噂もある。
――崩れ落ちたら、一環の終わりだね。地上の、人間だって。
人々は、そんな絶え間ない、でも、あまりに日常になってしまって忘れられた不安の元で、暮らしている。
その最地下の移住区域、30区域はそれこそ、崩れたら最後、何も残らないだろう。そのせいなのか、そこに住む人々は少し、人生を儚く、刹那的に生きているように見えた。暗く、荒廃した30区域を、それでも人々は求めてやってくるのだと、カイは知っている。
居心地がいい、と言ったら変だろうか。
カイにとっては、きれいに整えられた地上より、闇に妖しくネオンが光る夜の花街や、荒れ果てた街のほうが、安心できる場所だった。
ときどき蘇る、冷たい感触の記憶。その感触が、そうした混沌とした街の中で蘇る。それが何なのか、カイは知らない。それでもその凍るような冷たさに、懐かしささえ感じるのだ。
その感覚を、カイは知っている。あの、気の狂った、自分をサラと呼んだ男を見たときの感覚だ。あの時と同じ、頭ではない、皮膚感覚での生々しさ。
その違和感を、カイは以前から感じていた。ただ、あの男との接触が、それをひどく触発したことは事実だろう。それなのに、その男と、写真を見たはずの少女の顔をあまり思い出せない。もともと、カイは情報屋を始めてから、無用な情報は排除するようにしていた。無用か有用かの判断は難しいが、今回のこの男と少女の顔は、自分自身にとって無用であるはずがなかった。それなのに、もうぼんやりとしか思い出せないのだ。ここのところ大きな仕事を立て続けにしたせいかもしれない、とカイは自分に思い込ませた。
脳の中がきちんと整理されない、と言うことは、情報屋をしているカイにとっては、とても恐ろしいことだった。情報はそれ一つでも十分商品価値があるものもあるが、組み合わせることによって、または相手を選ぶことによって、それがゼロにも何百万にもなる。それを売りに出す時期もある。全ての情報を端末に潜ませておくことはできるが、それを活用するためには、能力が必要だ。何がいつ、どこからきてどう収まっているか、それを把握していなければいい仕事はできない。それは、祖父から散々に教わったことだった。
少し疲れたのだ、とカイは自分に言い聞かせ、栄養剤でも貰おうとリュウのもとへと向かった。今日は、コーヒーに加えてエリカへのチョコレートの土産もあるのだ。カカオ0.1パーセントの、質が良いとは決して言えない代物だが、天然カカオが入っているだけましだろう。
「リュウ?エリカー?」
診療所の扉は開いていたと言うのに、二人の姿は見えなかった。カイは嫌な予感がして、慎重に診療所の中を探る。人一倍警戒心の強いリュウが、こんな風にここを開けることはない。そっと中に入っていくと、キッチンには飲みかけのコーヒーが置いてあり、やはり二人の姿はなかった。そのまま書斎に向かう。ここは、リュウのプライベートルームで、リュウの許可なしに立ち入ることは普段は許されない。それなのに、そこさえも、ドアが開け放されていた。
「ひどいな……」
部屋の中は、ぐちゃぐちゃに荒らされていた。これは、エリカのいい暇つぶしが出来たな、などと場違いなことを思う。
それにしても――
一体、どうしたと言うのだろう?
「すいません。取り逃がしました」
ジェイクのその言葉に、メイはあまり驚きもせずに、煙草の煙を吐き出した。なかば、分かっていたことだ。そう簡単に、捕まえられるはずがない。
「いいわよ。どこの人間かは分かってるし。データは取られてないんでしょう?」
「えぇ。それは大丈夫です。ただ」
「ただ?」
細く長い指の先に煙草を挟んで、メイはじっと宙を見つめている。言わなくても、きっと分かっているだろう、とジェイクは思いながら、それでも口を開いた。
「リュウ先生とエリカの行方がわかりません。たぶん、同じ組織だろうと」
ジェイクが苦々しげにそう言うと、メイはさらりと長い豊かな髪を掻き揚げて、ため息のように煙を吐き出した。
「やっかいなことになったわね。データを渡すことはリュウが許さないでしょうし。どうやって助けようかしらねぇ」
「とにかく、探りを入れます」
「急いでね。時間がないから。リミットはそうね……三日かしら」
「時間がない、とは?」
「二人とも三日以内に助け出さないと、最悪エリカが危ないわ」
ジェイクがその意味を聞こうとしたが、それより早く、メイが口を開く。
「結果は逐一報告してちょうだい」
「はい」
ジェイクが諦めて立ち去ろうとすると、メイが何か思い出したようにそのジェイクを呼び止めた。
「それから……彼らが行方不明ってことは、カイもそのうち気付いて動くかもしれないわね。そうなったら、それも報告してちょうだい」
「わかりました」
ジェイクはそう言ったが、メイの真意は、わからなかった。ただそれは、タブーに近い疑問だと知っているジェイクは、何も聞くことは出来なかった。
エリカの秘密を、カイはあまり知らない。彼女がなんらかの理由で、六歳で成長を止めた、と言うことしか。
『不老不死?』
『いや。不老ではあるかもしれないが、不死ではないよ』
幸運なことにね、とリュウは言った。その上、いつかきっと、細胞は耐え切れなくなって急激に老い始めるだろう、と付け加えて。
その原因を、カイは知らなかった。リュウはそれ以上のことを語ろうとしないし、カイは聞こうとしなかった。どこかで、聞いてはいけないと、思っていたのだ。
謎が多いと言うのなら、リュウ自身も同じだった。ふらりと突然やってきて、隣の区画に診療所をひらいたのだ。それほど経たないうちに評判が聞こえ出し、カイも通うようになった。曰く、腕よし、顔よし、愛想良し、という評判だった。加えて、警察沙汰になりそうな傷も黙って直してくれることで、カイは重宝した。
リュウが、何か隠していることも、何かから逃げていることも、分かっていた。でも、それを探らないことは、暗黙の了解だったのだ。
書斎に散乱しているのは、本がほとんどだった。リュウは紙媒体での読書を好んでいるのだ。なくなっているのは、データ類。机の上のコンピュータを操作してみたが、何も入っていなかった。すっかり、何も。あとは、わからない。カイがこの部屋に入ったのは、もう一ヶ月前のことだから、あまり覚えていないのだ。
さて、と考える。
二人は、どこにいったのだろう。何に、巻き込まれたのだろう。
よく見ると、部屋は効率よく荒らされている。その部屋を眺めながら少しだけ考えて、カイは診療所を後にした。