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サイレント・ノイズ 第六話
――錯綜スル夢――

05

 カイに、リュウは何も役に立てないと言っていた、と聞いて、葵は唇をかみ締めて、じっと床を見つめるしかなかった。簡単に、教えてもらえることではないとわかっていた。だから、直接話をしたかったのだ。それが、治療したいから、という理由で会えるようになるとは思っていなかった。
 痛み止めにと飲まされた薬のせいなのか、車に乗ってすぐ眠ってしまって、気づいたときには暖かい部屋の中にいた。地下特有の機械的な質素な部屋だったが、不思議と冷たい感じはしなかった。
「起きましたか」
 ゆったりと落ち着いた声がして、起き上がろうとした葵を、柔らかく手が押さえた。
「ひどい怪我です。どうかそのまま」
「リュウ先生、ですか」
 痛み止めのおかげか、痛みは全くなかった。それで、やはり上半身だけでも起こそうとすると、リュウは今度は止めずに、手を貸してくれた。
「葵くんですね」
 やさしい顔をしていた。写真で見た、厳しい印象はなかった。
「少し、話をしたいのですが」
 言外に、身体は大丈夫かと聞かれて、葵は頷いた。それに微笑むと、リュウは紅茶を用意した。
「カイが持ってきたデータは見ました。と言うより、メッセージでしたね」
 リュウは優雅なしぐさで、紅茶のカップを葵に渡した。葵は礼を言いながら、それを受け取ると、その温かさに少し緊張を解いた。
 確かに葵がカイにたくしたのは、ただのメッセージだった。ウォルター教授について話したい、と。どうしても、その詳しい内容を書くことは出来なかった。
「あの時は、こちらの都合であれしか言えなくて……申し訳ありませんでした」
 リュウがそう言うので、葵がその意味を探るようにその目を見つめたが、リュウはそれ以上説明する気はないようだった。
「あなたが、どなたなのかと言うことから、聞いていいでしょうか」
 葵は少し悩んでから、差し当たりのない自己紹介をした。
「幹部候補生ですか……」
 リュウはそう言ってから、しばらく何か考えていたようだった。
「それで、なぜそのあなたがウォルター教授のことを?」
「彼が亡くなっているのは知っています。でも、生前あなたと交流があったようなので、聞きたいことがあって……」
「聞きたいこと?」
「はい」
 葵ははっきりと頷いてなお、少し躊躇してから探るようにリュウを見た。そして、決心したように口を開いた。
「どうしたら、記憶を消されずにすむのか」


 葵の望みはただ一つだった。紫苑との、記憶をなくさないこと。あの日々を、なかったことにしないこと。
 どうしても、納得できなかった。紫苑の、そして自分の記憶を――そしてそこにあった気持ちまで――誰かに消されるなんて。そんな権利は、誰にもないはずだった。


「――あなたの、記憶ですか?」
 リュウの呟きのような問いかけに、葵はこくりと頷いた。リュウは疲れたようにため息をつくと、座っていたソファーにその背を預けた。
「なんて馬鹿なことを……」
 その意味がわからず、葵はリュウを見つめた。自分が非難されているのかと思ったが、そんな風ではない。どこか哀しそうな目で、葵を見ていた。それにどこか落ち着かずに、葵は目を逸らした。
「プログラム500は、行われているんですね」
 絞り出すような声に、葵ははっとしたようにリュウを見た。
「知って……」
 思わず呟いた言葉に、リュウがゆっくりと頷いた。
 なんてことだろう、とリュウは悔しさに唇を噛んだ。ウォルターの努力は――死は――無駄だったと言うのだろうか。
 ウォルターが研究所を逃げ出したのは、人体実験に耐えられなかったこともある。そして、その自分の研究がどんなことに使われるのか、知った所為でもあった。
 記憶操作研究が、いくらでも悪意のもとで使えることはわかっていた。でも、自分は記憶と言うものに、人の脳と言う不思議なものに魅入られたのだ、とウォルターは言っていた。本当は、ひっそりと、ただ研究をできればよかったのだ、と。
 だから、逃げるときに、全てを持ち去ったはずだった。これ以上、自分の研究が悪用されないように。それだと言うのに――
「僕の友人が、というより、幹部候補生は少なからずみんな、記憶操作をされています。優秀な、人材になるためだけに生まれてきた生徒もいる……」
「あなたの友人?」
「……はい。彼は、僕との記憶を全て消されました。そして、僕も」
「消されるはずだった」
 リュウの言葉に、葵が目を伏せた。まだ蘇る、紫苑の顔。それに安堵しながら、儚すぎるその残像に、胸の奥が締め付けられる。記憶など、消される前に擦り切れていくのじゃないかと思う。何度も、何度も、確かめるように思い出していたら。
 しばらく沈黙が流れた後、リュウがゆっくりと口を開いた。少し、申し訳なさそうに。
「私はウォルター教授に、確かに何度かお会いしたことがあります。というより、私が彼に逃亡を唆せた、と言ってもいいでしょう。私はどうしても、エリカを取り戻したかった。それで、教授の良心に漬け込んで、危険なことをさせました」
 それは違う、とウォルターは言うだろう。逃げ出したくて堪らなかったのは、自分も同じなのだと。そして、彼の逃亡の、最大の理由――。
 リュウがエリカをその手に入れたかったのと同じように、ウォルターもまた、自分の息子を手に入れたかった。死んだと思っていた、自分の形見。
「でも、それだけです。彼の研究内容については、私も詳しくは知らないのです。それに彼は、逃亡してすぐ、そのデータを全て処分すると言っていました。彼は、言って行わない人ではありません」
 だから、お役に立てそうにありません、と目を伏せた。とても、申し訳なくて。
 葵は、そうですか、と言ったまま、カップを持つ自分の手をじっと見つめていた。
「ただ、一つだけ。記憶は消せるものではありません。塗り替えられただけで、決して消えるものではないそうですよ」
 気休めだと思っても、リュウは言いたくて堪らなかった。この細く頼りなげな少年が、必死に守るもののために。
「お友達の名前は?」
 自分も、胸にしまっておこうと思う。思いを、共有できなくても。二人の、証人として。
「――紫苑」
 葵の呟きに、リュウは顔を歪めた。なぜ、そんな名を持ってしまったのか。
「花の名前ですね。とても綺麗だ」
「花の?」
「ええ。紫色の、可愛らしい花です」
 可愛らしい、という言葉が紫苑に似合わなくて、葵は少し笑った。はかなげなその笑顔に、リュウはその残酷な名前をつけた人物を呪った。
 紫苑。
 エリカの大切な本の中に、その花を描いた本があった。そこに添えられた花言葉を、リュウは覚えている。

――君を忘れない。


「え?葵を梅花に?」
 薄汚れたバーの片隅で驚いた声をあげたカイの反応を、当然だ、とジェイクは思う。自分も驚いたから。
「何かメイが気に入ったみたいでさ。あいつ、ハッカーの才能があるらしくて、そっちで使おうかって」
 ジェイクの困惑した表情に、カイも眉根を寄せた。
「おまえ、本当に葵が何者か知らないのか?」
「……ジェイクは何を知ってんだよ」
「知らないさ。ただ、葵を連れて行くときに、それはそれはしつこい奴らに追われてね。苦労した」
 ジェイクが巻くのに苦労するなら、かなりの追手だったのだろう。カイが先を待って黙っていると、ジェイクが誰だと思う?と聞いてきた。カイは肩をすくめて、首を横に振った。
「警察。それもAクラスだな」
 ひゅーっとカイが口笛を吹いた。良く逃げたな、と言うカイに、確かに、とジェイクが頷いた。
「二人して、何難しい顔してんの」
 三人分の飲み物を持ってきたのはウォンだ。小首をかしげる様子が可愛らしく、カイがジェイクを盗み見る。ジェイクは気づいているのだろうが無視して、ウォンに椅子に座るよう促した。
「葵君の話?」
 まるで旧知の友人のようにその名を呼ぶので、カイが知ってるの?と聞くと、ちょっと話した、という。
「ウチに入るからって、メイが僕に世話係を押し付けてさ。でも、多分監視役も入ってるかな」
「監視役……」
「リュウ先生経由だろう?様子見たいんじゃないの。でももったいないよなちょっと」
「もったいない?」
「うん。幹部候補生だったらしいよ」
 エリートだよなあ……
 そう呟くウォンの言葉を、カイは半分聞いていない。やはり、葵とリュウには何かあるのだ。そして、リュウとメイ――
「なあ、リュウとメイの取り引きって知ってる?」
「取り引き?あの二人の?」
 そう、とカイが頷くと、ジェイクが真剣な瞳をした。その内容までは知らなくても、存在は知っている。でも、それは梅花のトップシークレットだ。
「カイ、おまえ梅花に入れ。じゃなかったら、潰すぞ」
「……怖いなあ。俺はリュウから聞いたんだよ。内容まで知らないし」
 ジェイクの怖いくらいの顔に、ウォンが息を詰めているのがわかる。でもカイは、笑っていた。
「当たり前だ。俺だって知らない」
 それに、やっぱり、と呟くカイを、ジェイクは一層鋭く睨んだ。カイはにやりと笑った顔を崩さない。
「想像はついてるんだ」
「どんな?」
「……言うと思ってんの」
 カイの崩れない笑顔に、ジェイクはため息をつきながら、ようやく厳しい顔を崩した。
「俺は何も持ってないぜ。それに関しては、俺もこの間知ったばかりだからな」
「俺たちを助けに来てくれたときに?」
 ジェイクはさあね、と肩をすくめたが、たぶん、そう言うことだろう。だから梅花はリュウを助けに来て、リュウを未だに守っている。あのときカイが助けなければ、梅花の誰かが助けたのだろう。
「仕方ないな。可愛いウォンには教えてあげよう」
 カイは少しも仕方なさそうな様子は見せずにそう言う。
「梅花はエリカのデータを持っている。たぶん、リュウたちに何かあったら、それは梅花のものになるんだろう。メイにしてはらしくない取り引きだよね。……なんでだろう」
 カイは最後は独り言のように言うと、立ち上がった。ジェイクはそのカイをじっと見つめていた。


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