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サイレント・ノイズ 第六話
――錯綜スル夢――

01

 忘れない、と誓った。
 でも、それらの日々は本当にあったのだろか。
 今では、それするら判らなくなっている。そこに、彼はいたのか。自分は――いたのか。一体時は、刻まれたのか――

 最地下に潜ったのは、初めてだった。いつもレベル10どまりで、それでも候補生の中では地下に潜っている方だった。ひどい生徒は、レベル0――つまり地上しか知らないものもいた。
 少しでもそうやって地下を知っていて良かったと、葵は朦朧とした意識の中で思った。地上のあの贅沢で豪奢な生活しか知らなかったら、地下に潜って一ヶ月もしないうちにおかしくなっていただろう。とくに、候補生として設備の整いすぎるほど整った、あの寮での生活をしていたら。
 住居区域としては最地下になるレベル30区域は、廃墟だった。少なくとも、地上で18年間そのほとんどを暮らしてきた、葵にとっては。それほど、色のない、荒れ果てた住居が多かった。そっけない、四角いだけの家々の壁は、大概どこかに落書きがしてあり、角やところどころが欠けている。地下独特の汚水にまみれたような匂いも、一際強いような気がした。
 まだ、日は暮れていない。白々しく冷たい明かりが、その荒れた家々を照らしているが、それはあまりに人工的過ぎる光で、葵はどこか巨大な室内にいる錯覚をする。いや、実際カバーフィールドに囲まれたこの島自体、もう屋外ともいえないのかもしれなかった。
 ずるずると引きずるように足を動かし、葵は彷徨うように歩いていた。でも、目的地はあるのだ。もう痺れて感覚がなくなったと思ったのに、お世辞にも綺麗にとはいえない、整備されていない道に、傷つけられた足は痛みでもって、時折その存在を主張する。
 よく、振り切れたものだと葵は思った。一介の候補生相手に、Aクラスのついた警官を派遣しているのは、一ヶ月以上経っても捕まえられない焦りなのか、情報流出への恐れなのか。
 ――信用していたわけじゃない。
 葵は、ふっとため息をついて、壁に背をつけると、ずるりと座り込んだ。目的の場所についたと言うのに、辺りは静かで、人の気配がしない。座り込んだまま、扉をがんっと殴ってみるが、誰も気づいた様子はなかった。葵はぐったりとそのまま、壁に凭れて白い空を見上げる。
 空、というのだろうか。この、天井も。
 眠いのか、気を失いかけているのか、葵にはわからなかった。ただ、身体がだるく、瞼も重い。眠りたい、と思った。
 果たされない約束だと、葵はきっとわかっていた。プログラムを変えることはできない。それがいくら、蘇芳でも。でもせめて、蘇芳が何も言わずにいてくれたら――そうは思ってみたが、お互い様だ。蘇芳を信用しなかった自分を、信用してくれとは言えない。
 あの日、無事に候補生養成学校を卒業して、幹部育成学校への入学を果たした葵に、蘇芳はスクリーン上で、「おめでとう」と、言った。これからまた、新しい生活が始まるね、と。
 あれは、蘇芳の精一杯のメッセージだったのだろうか。その夜、新しく割り当てられた寮の部屋で行われる、秘められたオペレーションによって、記憶を失うはずだった自分への。
 わからなかった。それでも、自分はそれを察知して、逃げ出したのだ。
 ずっと覚えていると、誓った。
 忘れないと、決めた。
「紫苑……」
 葵はそう呟くと、ずるりとそこに倒れこんだ。


「おいっ、起きろ。しっかりしろっ」
 遠くから声が聞こえて、葵はゆっくりと思考をその声に向けていった。何やら身体中が痛い。ただ足だけは、自分のものではないように、感覚がなかった。
「おい、大丈夫か?わかるか?」
 こじ開けるようにして目を開けると、黒髪に緑色の目という、何とも不思議な色をもった少年が、自分を覗き込んでいた。
「リュウ、先生は……?」
 声を出したはいいが、唇が乾き切っていて痛い。喉がつぶれたようなその声に、相手が言葉を理解したかもわからない。
「今いないよ。怪我してんの、足だけか?」
 問いかけに、ひどいのはね、とやっとのことで答える。実際、ナイフで刺された足の傷は深かったが、他はかすり傷程度のはずだった。ただ、ちょっと貧血気味になってきているのだろう。頭ががんがんするし、視界も定まらない。
「とにかく中に入ろう。立てるか?人目につかないほうが、いいんだろう?」
 葵が頷くと、少年は葵の肩を持って、無理矢理立たせる。痛くて、重くて、それはひどく苦労したが、少年はちょっとの我慢、と言って引きずるようにして葵を部屋に入れると、ベッドに寝かせた。そこは確かに病室で、それだけで葵は、何やら助かったような気がした。
「切り傷ぐらいなら治療できると思うんだけど。リュウみたいに上手くはないにしてもさ。だから、ちょっとぐらい手荒でも文句言うなよ」
 そう言いながら、少年はジョキジョキとハサミで葵のズボンを切っている。取るものも取りあえず、と言う形で逃げてきた葵の、二つしかないズボンの一つだったが、それはもう、血にまみれてべったりと足にくっついていた。
 手荒という言葉に偽りなく、わりと乱暴な感じに葵を扱いはしたが、少年の手際は良い。
「さて、俺の出来るのはこれ位だな。まあ薬は良い物のはずだし、リュウにもあとどうしたらいいか聞いとくから、おとなしく寝てればそのうち治るだろ」
「……ありがとう」
 葵がそう言うと、少年はにっこりと笑った。人懐っこい笑顔だ。自分と、あまり年は変わらないだろうか。
「リュウは当分戻ってこないと思うけど、お前どうする?」
 少年は奥で何やらごそごそと音を立てているかと思えば、両手にコーヒーを持って現れた。葵は礼を言いながら受け取ると、ようやくほっとしたようにそれを一口、口に含む。
「これ……」
「リュウには内緒だな。最近また本物のコーヒーはちょっと手に入りにくいし」
 そう言いながら、少年は美味しそうにそのコーヒーを飲んでいる。葵は、レベル30区域で、こんなものが飲めるとは思っていなかった。
「あの……ああ、まだ名前も言ってませんでしたね。葵です」
「俺はカイ。その堅苦しい言葉遣いはやめようぜ」
 簡潔に言ってから、カイは興味深そうに葵を見た。名前からも外見からも、彼は日本人だとわかる。ときどき、特権階級の日本人を真似するアジア系の詐欺的な少年たちもいるそうだが、カイはまだ会ったことがない。だいたい、最地下のここでは、そんな必要はないはずだ。
「葵、日本人だろ?こんなとこいたら危ないぜ。仕事ならともかく、そんなはずないだろうし。まさか怪我を治してもらいに来た……ってわけじゃないよな」
 カイたちと違って、日本人の少年少女たちには仕事は必要ない。まず学び、ゆっくりと成人し、それから稼げばいいのだ。明日の暮らしに困るようなことはないはずだから。さらに、怪我ならわざわざこんな遠くに来る必要はないだろう。彼らが住んでいるのは、せいぜいレベル5区域までのはずだ。今では散々な格好をしているが、雰囲気から、葵がわりといい教育を受けているのもわかる。
「リュウ先生に、会いに来たんだ」
 印象的な瞳だった。吸い込まれそうに深い、茶色い瞳。日本人の「大人」に会う機会はあっても、自分と同じ年齢の少年を見る機会は、カイにはほとんどなく、思わず見つめてしまう。
「さっきも言ったけど、リュウはしばらくここには帰ってこない。しばらくって言うか、ずっとかもしれないけど」
 コバルト60は、きっと諦めていない。みすみすリュウとエリカを取り戻されて、このまま黙っているはずがなかった。
「会えない……かな?」
 葵は遠慮がちに、呟いた。鎮静剤を打たれたのか、身体の痛みが減って、ずいぶんと楽になっている。
「なんで、って聞いていいか」
 カイは少し考えてから、そう言った。今、リュウをあの梅花の隠れ家から出すわけにはいかないし、この目の前の少年にその居場所を教えることもできない。それに、もちろん、情報屋の好奇心もあった。


 しばらくじっとコーヒーカップの中を見つめていた葵は、それを一口飲むと、ようやく口を開いた。
「本当に会いたいのは、ウォルター教授なんだ」
 呟くように言われたその言葉に、カイは一瞬動きを止めた。それから、それを誤魔化すようにコーヒーを口にする。
 ウォルター。
 その名を、カイはよく知っている。でも、同じ人物であるはずがなかった。カイが知っているその人は、教授などではなかった。
「ウォルター教授って?」
「僕も良く知らない。ただ、記憶研究の権威ある教授ってことだけ」
 葵はじっとコーヒーカップの中の揺れる濃い液体を見つめている。その葵を、カイがじっと見つめていた。ウォルターなんて名前は、そのへんに普通にある名前だ。カイはそう思うのに、気になって仕方がなかった。
「それで、どうしてリュウのところに?」
「そのウォルター教授が生前、ってもう五年前に亡くなってると思うんだけど、親しくしていたらしいのがここのリュウ医師なんだ」
 蘇芳や幹部が目を光らせていることを知りながら、葵はそれでもずっと、記憶研究についての資料を盗み見ていた。第一級極秘資料であるそれは、そう簡単に見ることは出来ない。それでもなんとか辿り着いて、ごく短い時間で見たときに知ったのが、ウォルターについてだった。
 今の紫苑のような子供を作るプロジェクトが組まれたのも、このウォルターの研究に拠るものが多い。
 カイは葵の話を聞きながら、何かが引っかかっているのを感じた。それでも、この葵の言うウォルターは、カイの知っている人ではない、と確信する。
「葵は、リュウに会って何をしたいんだ?」
 カイのその問いに、葵がふと顔を上げてどこか遠くを見る。願いは、たった一つなのだ。
「ウォルター教授の研究について知っていたら、教えて欲しいんだ」
 いつまでも逃げられると、葵は思っていない。この小さな世界で、身を隠しつづけることなど出来るはずがなかった。それでも、葵はこの記憶を失うことだけは阻止したかった。
「リュウ先生には、会えないのか?」
「今はちょっと事情があって、外に出るのは難しいな。良かったら、俺から聞いてみるけど」
 カイはそう言ったが、葵は力なく首を横に振った。直接聞かなければならないことが、たくさんある。人づてに聞ける内容でもない。
「そうか……」
 カイもそう言ったきり、黙り込む。
 ウォルター。
 その名を聞くのは、とても久しぶりだった。


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