サイレント・ノイズ 第七話
――月ノナイ夜――
01
――雨か……
壁に寄りかかったまま横目に見た街は、ほのかに明るかった。ラルフは手に持っていたグラスを口元に寄せて、ごくりとその中身を飲んだ。安っぽい、薬くさい酒だ。色だけは立派に琥珀色をしているのが、おかしかった。
久しぶりの雨だった。情緒のためだけの雨なのだから、人間もわけのわからないことをしている。多分、誰かの余興なのだろう。あるところには、金はあるものだ。
ラルフは外から目を逸らすと、そのまま壁に背中を預けて、ずるりと座り込んだ。明かりをつけていないために、きっと外より暗い部屋の中を、ぼんやりと見つめる。
何もなかった。かろうじて、眠るためのベッドがあるだけで、他には何もない。入ったことはないが、まるで監獄だ、とラルフは思った。廃屋に勝手に住んでいる身としては、文句も言えないが。
いつまで逃げていられるだろう、と思う。
地上のこの廃屋に来て、既に一週間が経つ。同じところにいるのは危険だとわかっているが、動き出すのが億劫だった。誰も住んでいない部屋を見つけては移動する生活を、もう一ヶ月近く送っている。なるべく人目につかないように、そして、自分の痕跡を残さないように。
――俺も意外にあがくな。
裏切りの報いだ。殺されてもおかしくなかった。それでも逃げ出したのは、どうしてなんだろう。
立てた膝に乗せた腕の先、琥珀色の液体がゆらりと揺れた。暗くて、本当は色などわかりはしない。
逃げろと言われた、その真摯な瞳にほだされたのかも知れなかった。五年前になくした、大切な瞳と同じように、澄んだ目だった。
――お願いです。今ならまだ、疑っているだけだ。今のうちに、逃げてください。
ひたむきな瞳だった。恐ろしいほど。名も知らない、少年。自分に憧れたのだと言っていた。だから、どうして裏切るような行為をするのかわからない。それでも、生きていて欲しいから、と泣いていた。
――生きて、ね……
それがどんな意味があるのか、わからなくなっていた。憎しみが悲しみに変わった、あの日から。どうして、自分が生きているのか、わからなかった。
自分が殺したのに。
大切な、たった一人の肉親だった弟を、自分が殺したのに。
「久しぶりだね」
落ち着いた、小さな喫茶店のカウンターに肘をついて、カイはにっこりと笑った。そのカイの前に、白くぼってりとしたカップに注がれたコーヒーが置かれて、今日はサービスです、と店主が言った。
「顔色悪いと思うのは気のせい?」
じっと緑の瞳に見つめられて、店主は苦笑した。相変わらず、鋭い勘をしている。
「気のせいですよ」
とても、個人的なことなんですけどね。
脈絡のない言葉は、この店主のいつもの癖だ。カイに仕事を頼むときは、こんな風にいつも、なんでもない会話に混ぜて仕事の話をする。
「うん、美味しい」
「ああ、ブレンドの配合を少しばかり変えたんです。人探しなんですけど」
そう言って、カイの目を覗き込んだ。カイは了解とばかりに携帯端末を取り出して、画像を受信する。それをさらに、コンタクト型の端末に送ると、ふいっと視線を宙に浮かせた。カイだけに、画像が見えているのだ。
「詳しいことは書いてある通り。見つけたら、これを渡してください」
アルフォンスはそう言って、いつものコーヒー豆を入れる袋を渡した。
「アル……この人」
「やはり、知ってますか」
店主、アルフォンスが、磨いたグラス越しにカイを見た。歪むグラス越し、お互いの表情が読めない。
知っているのもなにも、とカイは思いながら袋を覗いた。今裏で一番の賞金が掛かっている首だ。賞金稼ぎではないが、裏社会に半分足を突っ込んでいるカイが知らないはずがない。
袋の中には、コーヒー豆と一緒に、ビニールに入ったチップが見えた。
「……友人、なんです。向こうはどう思っているのか知りませんが」
「同じ、だろ?」
「こんな事態に頼ってくれなくても?」
こんな事態だからだろう、とカイは思う。友達だったら、この穏やかな店主を巻き込みたいとは決して思わない。少し哀しげに笑うアルフォンスは、血生臭い世間には、遠い。それでも、裏社会と通じていて、ときどきカイに仕事を持ってきていた。
「それじゃあ、こっちは淋しいばかりですね。通行パスを手に入れる暇もなかったはずだから、この街にいるのはわかっているんです。でも、八方手を尽くしたのに、みつからない。こんなときだからこそ、なのに、少しも手がかりがない」
水臭いじゃないですか。
アルフォンスの呟きに、カイはぐいっとコーヒーを飲んで、わかった、と言った。
「OK、引き受けた。代金はいつもの通り。今回はこれで」
と、コーヒー豆の入った袋を揺らす。先刻のアルフォンスの話からすれば、偽造通行パスでも入っているのだろう。
「いえ、今回は……」
「アル、そう言うのも、水臭いって言うんだよ」
俺も友人の一人に数えといて、とカイがウインクすると、アルフォンスは苦笑していた。
連合軍の若手指揮官、ラルフの話はカイも知っていた。品のある、精悍な顔立ちをしている上に、頭の回転も速い。そして、何よりカリスマ性があるからと、若手獲得に苦労していた連合軍に重宝されていたはずだ。と言っても、賞金首になるまで、カイですらその顔を見たことはなかった。実行部隊に近かったラルフの顔は、徹底的に隠されていたのだ。
それが、どうして賞金首になったのか、カイにも詳しいことはわからなかった。ただ、連合軍を逃げ出した、ということしか。幹部だったのだから、それだけでも十分な理由かも知れないが、それであんな賞金になるだろうかと思う。
安宿と売春宿で賑わう道を、カイは足早に歩いていた。ここだけは、いつになっても昼にならない。天井高くに点されるはずの昼間の明かりは、夜を演出するために点されない。ネオンに彩られたこの街は、いつまでも夜が続くのだ。
ラルフを見つけたら、聞いてみたいことがあった。
アルフォンスは知らないが、カイはずっとラルフと接触してみたかった。だから今回賞金首になったラルフを、こっそりと探してみたりもした。ただ、恐れと迷いで、それはとても中途半端な探索だった。
五年前のテロ事件の首謀者の一人が、ラルフだと言われている。
そのことを、カイは確かめたかった。祖父を巻き込んだ、あのテロ事件。でも、それを聞いてどうするのか、カイにはわからなかった。
誰もが生きていくのに精一杯なのだ、とカイは思っている。特権階級だと言われている日本人でさえ、その特権ゆえに生命の危険があるのだ。そして、その特権階級に反駁する連合軍もまた、必要なものだとカイは思っている。闇で憎悪が増殖して、一時にそれが爆発するより、小さな争いの末に大きな流れが起こった方が、対処の仕様もあるというものだ。
煌々とした明かりの中で、埋もれて見えないのではないかと思うほど控えめな明かりが点る宿の看板を見つけたカイは、その入り口にするりと身を滑らせた。この街の中では高級な部類の宿だが、三階は全て女達が客をとれるようになっている。ただし、普段のカイのような格好では怪しまれる程度には高級なため、カイは珍しくスーツなどを着込んでいた。
フロントで女の名を言うと、鍵を渡された。それを手の中で弄びながら、堂々と歩くカイは十代には見えない。それでも、給料取りと言うよりは遊び人風なのがカイらしい。
「久しぶりじゃない?」
部屋に入ると、オルガはそう言ってにっこり笑った。見るたびに艶やかに、美しくなっていくのは、さすがにこの辺りで一番の高級コールガールだ。客筋には、0地区の住人もいると言うのも誇張ではない。それなのにこの宿を指定するのは、ときどき懐かしくなるからだ、と以前オルガが言っていた。
「そうだね。半年ぶり?はい、いつものケーキ。今日は「花兎(はなう)」なんだ」
カイがそう言いながら持ってきた箱を差し出すと、オルガはぱっと嬉しそうに顔を綻ばせた。それから、お茶淹れなくちゃ、と言って奥からティーセットを取ってきた。自分より五つは上のはずなのに、とても幼く見えて、カイは思わず苦笑する。
「わあ。苺じゃないの。こっちは桃ね。美味しそうっ」
一つ一つをなにやら大事な宝石のように取り出して、オルガはうっとりとそのケーキを眺めた。ねだればいくらでも買ってくれる人がいそうなのに、オルガはいつも美味しいケーキを買ってきて、と言う。代金はそれだけだ。もちろん、カイは情報屋の名に恥じないよう、その時々の最新の情報で持って、美味しいケーキを探し出す。
「それで?今日はどうしたの?」
カイはオルガを抱いたことはない。初めて会ったときも、仕事の情報を得ようとして近づいたのだから目的が違ったにせよ、普通は客として知り合っていくものだ。でも、たまたま初めてのときにオルガがひどく疲れていて、カイは抱かずに情報提供をお願いしたのだ。疲れている様子を、オルガは見せた覚えはない。でも、カイは一目見て、なんか美味しいものでも食べようよ、と言ったのだ。白状すると、抱きに来たわけじゃないんだ、と付け足して。もちろん、かなりもったいないけどさ、とオルガのプライドを傷つけない心遣いも、忘れなかった。そのときに、ちょっと待って、と言ってカイがケーキを買ってきたのが、始まりだった。
「うん、今日は人探しなんだ」
カイも、オルガと会うのは楽しみだった。本当は、仕事以外でもときどき話をしたりしたいが、そんな危険なことは出来ない。情報屋であるカイがオルガの身辺をうろつくことは、オルガのためにもならない。
カイが懐から携帯端末を出してラルフのホログラムを見せると、オルガは持ちかけたフォークを置いて眉根を寄せた。
「カイったら、いつから賞金稼ぎになったの」
「あ。やっぱり知ってる?」
カイはそんなオルガの様子を気にした様子もなく、そろそろかな、と言って紅茶の入ったポットを覗いた。
「そりゃあ、今一番の話題じゃない?」
オルガはそう言って、今度こそフォークを持って、苺に刺した。
「だよね……。ちなみに、俺は賞金に興味があるわけじゃないんだ。探しては、いるけど」
とぽとぽと音をさせながら、カイは紅茶をカップに注いだ。ふわりと漂う香りに、かなりの極上品だとわかる。
「さすがカイね。花兎、腕を上げたわ。今までとスポンジもクリームも違う」
オルガは敢えてカイに答えずに、ケーキに舌鼓を打つ。それから苺ショートを食べ終わるまで、一言もしゃべらずに、無心にケーキを口に運んでいた。
「あんまり、おすすめ出来ないな」
二つ目の桃のムースを手元に寄せたオルガが、ぽつりと呟いて、カイはどうして?と首を傾げて見せた。
「彼、捕まればたぶん殺されるわ。どっちにしろ、よ」
オルガの言う「どっち」とは、政府であり、連合軍であるのだろう。今まで必死に顔を隠してきたのに、それを裏情報としてでも「公表」したのだから、それはわかっていることだった。
「なんであんな賞金掛かったのか知ってる?」
「……彼ね、実行部隊だったでしょう?それなのに、自分達の計画を阻止してたらしい」
オルガの言葉に、カイは、はあ?と思わず間抜けな声を出した。
「ずっと、過激派に反対してたらしいのよ。それで、最近は実行部隊からも抜けていたようだけど、そのかわりと言うか……過激派の情報を手に入れては、邪魔をしていたらしいわ」
「そんな無茶な」
「覚悟、してたんじゃないかしら。わかってても、やめられなかったのね」
オルガの口調はとても同情的で、カイはふっとその顔を見た。オルガもきっと、同じなのだろう。これがあまり長く続けられる職ではなく、だからといってやめては生きていけない、とわかっている。
「あの人たち、表向きは過激派は支流で自分達も困っている、なんて顔してるでしょう?でも、本当は黙認して、それどころか煽ってるところもあるのよ」
それに……と言ってから、オルガははっとしたように口を噤んだ。しゃべりすぎだ、と思ったのだろう。でも、それを見逃すカイではない。
「俺がこの男を捜しているのは、仕事って言うより、頼まれごとだからなんだ。この男の友人を俺も知っていて、捜してくれって頼まれた」
だから、決して命を奪ったりするわけではない。それどころか、助けようとしているのだ、と言外に含む。
「私、この人は直接知らないの。女の人は抱かないって聞いたわ。情が移るからって」
そう言って、オルガはからからと笑った。ちょっと惹かれるわよねえ、と言いながら。
「でも、私の弟みたいな子が知ってるはずよ。スカイって言うんだけど、私からも連絡しておくから」
オルガはそう言って、カイにスカイの居場所を告げた。それからふと、顔を外に向ける。でも、細かい細工の施されたガラスでは、外の景色を見ることは叶わない。
「私、ときどきわからなくなる。誰が正しくて、何が間違っているのか。何が本当で、何が嘘なのか」
呟くような、でもはっきりとした口調で言ったオルガの整った横顔を、カイはじっと見つめた。
「まずはさ、生きてるってだけで、正しくて、本当なんだよ、オルガ」
この、今の世界では。
カイがそう言うと、オルガはふいっとカイに視線を向けて、ふわりと笑った。
「だからカイって好きよ」
そう言ってから、ふっと息を吸って、また口を開いたオルガの言葉に、カイは今度は言葉を失った。
「この人、本当に被害者なんだわ、きっと。そして、私はきっと加害者の一人。ねえカイ、私が彼を狙うどちらとも繋がりを持てたのはどうしてだと思う?その上、どっちもそれを知っているくせにこんなにも野放しにされているのは」
「……オルガ?」
「連合軍だとか、公安だとか。バカバカしいお芝居」
そう呟いてふっと笑ったオルガは、今にも泣きそうだった。