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ユーゴが意識を取り戻したとき、最初に目に入ってきたのは白い天井だった。一瞬自分の部屋にいるのかと思ったが、眠っているベッドは自分のものではない。ああ、病室なのだ、とユーゴは少しの間再び目を閉じた。web electroには総合病院が一つある。その白くて清潔そうな、でも木綿のカーテンやその隙間に見える木々が無機質さを和らげている病室には、見覚えがあった。以前、シギが亡くなって二三ヵ月後に、やはり菓子作りばかりして倒れたユーゴは、ここに入院をしたのだ。
あの時は、じわりじわりと寂しさが染み込んできて、どうしようもなくなった。そして、その寂しさに付け込まれるように、客の一人に抱かれた。
当時は自分も正常とは遠かったから、相手ばかりを責められない。でも、最初はとても優しい言葉を吐いたその客は、それから何度も、ユーゴを乱暴に抱いた。
愛されていたわけではない。当時も、そんなことはわかっていた。それでも、ユーゴは寂しかったのだ。とても。
結局、倒れてしまったユーゴは、カウンセリングを受け、その客とは縁を切った。
もう恋をしない。誰かを好きになったりはしない。そうはっきり決めたのは、そのときだった。もう、誰も求めたりはしない。
ふわりと風にカーテンが揺れて、ユーゴはその先にあるはずの緑を探した。でもそこにあったのは緑の葉ではなく、紅葉した美しい葉だった。
ああ、もうそんな季節だったのだ。
料理人は季節にも敏感でなくてはならない。それなのに、すっかりそんなことを忘れていた。
「あ、起きた?」
ふいに声がして、ユーゴは驚いてきょろきょろと辺りを見た。視界には誰もいなくて、起き上がろうとしたが、「わわ、横になっててよ。先生呼ぶから」と慌てて止められた。
「タチバナ……?」
そっと肩を押したのは銀色の髪の雑誌担当だった。ユーゴは思わず首を傾げた。なぜ、ここにいるのだろう。
「あ、ユーゴ目が覚めましたー」
そのタチバナは、ナースコールを押して元気な声を出した。すぐ行きます、と答えたナースの声が、少し笑っていた。
「えっと、どうして?」
「いや、色々あってね。それより、大丈夫?気分悪くない?頭痛かったりしない?」
ひどく心配そうな目をされて、ユーゴはかえって申し訳ない気持ちになる。
「おまえ煩さいよ。それじゃあ治るもんも治らないだろう。そう言う質問は、俺が聞くから少しおまえは黙ってろ」
ユーゴが大丈夫、と言う前に、白衣の男がタチバナの背後から現れて、その銀色の頭を軽く小突いた。タチバナは肩を竦めて、はーい、と大人しくユーゴの足元のスツール椅子に坐った。
「さて、ユーゴくん。倒れたのは、覚えてる?」
「はい……えっと、トイレ行って、呼び出しがあってブースに向かう途中で、太陽が眩しくて……」
うん、と聞きながら、医者はユーゴの額を触ったりしている。
「そのトイレには、何しに?」
「え……?」
言われて、ユーゴは目を逸らしてしまった。この医師は、以前もユーゴを診てくれたことがある。
「……食事したあとだったよね?」
「はい」
「もどしちゃった?」
今更嘘を言っても仕方がない。ユーゴは正直に、こくりと頷いた。
「いつから?」
「いつだったかな……」
「じゃあ、お菓子を作り始めたのは?」
「たぶん、一週間……二週間前かな」
最近の記憶は曖昧で、はっきりしない。この病気が出てくると、大概そうだった。日にちの区別が、つかなくなる。
病気――そう、確か以前に、そう言われた。これは、心の病だよ、と。
「今回の原因、何か思い当たるものはある?」
思い当たるものと言われたら、一つしかない。自分の弱さだ。ユーゴがそう言うと、医師はにっこり笑って、「そう思ったのはどうして?」と聞いてきた。
「どうしてって……」
ユーゴが言い淀むと、「はいはい。俺知ってる」と足元から声が上がった。
「タチバナ……口を開くなと言っただろう」
「そう言っても。俺も使命を帯びてるわけだし」
「使命ね……。で、ご主人はなんと?」
医師は少々不機嫌そうな顔をしながらも、そう言った。
「様子の報告と、もし大丈夫なら、連れて来いって」
「ふーん。感心しないな。倒れたのを知っていてそう言うのか」
「だから、大丈夫なら、って話。出来れば直接話たいんだってさ」
厳しーんだから、カナエ先生は。タチバナがそう肩を竦める。ユーゴは、二人が何を話しているのか、さっぱりわからなかった。だが、ふいにタチバナが立ち上がって、ユーゴに話し掛けていた。
「もうね、もの凄く心配してるんだよ。出てこられないってどう言うことだって、怖かったあ……」
え?とユーゴが眉根を寄せながら首を傾げると、タチバナがぱちぱちと瞬きをした。
「あれ?ユーゴ、客コード見なかった?」
言われて、そう言えば「出ます」と返事していたのだと気付いた。
「あ、どうしよう。出るって俺……」
「ああ、それはとりあえず大丈夫。って、やっぱり見なかったんだ」
タチバナはふんふん、と一人頷いている。
「え?あの、誰だったの?」
「そりゃあ、お待ちかねの幸野さんだよ」
くらりと頭の中が揺れた気がして、ユーゴは目を閉じた。
なんてことだろう。あれだけ待ち焦がれて――それを逃すなんて。その上。
「怒ってたんだね、幸野さん」
幸野は優しいが、厳しい。担当達のことも、そのプロ意識の高さを評価しているところがあった。だからこそ、Sクラスなのも頷けたのだ。それなのに、自分はその仕事もまともに出来ない。
酷く暗い顔をしたユーゴに、タチバナは慌てたように、違うって、と手を振った。
「怒ってたんじゃなくて、心配してたの。しばらくお待ちください画面のままで、いつまでもユーゴは出てこなくてさ。それで俺が呼び出されたんだけど」
倒れたって言ったらこっちに来るって言い出すし、無理ーって言ったら状況を逐一報告しろって言われてさー。タチバナがぶつぶつ言うのを、ユーゴは信じられない思いで聞いていた。幸野が、そんなに心配してくれるなんて。
「あの……タチバナ、ごめんね?」
それに、タチバナは本来の仕事ではないことを頼まれたことになる。業務規定違反にはならないが、プロ意識の高いことを考えれば、それは申し訳ないことだった。
「んー?ああ、別にいいって。それより、どう?行けそう?」
どこに、とはさすがに言えなかった。でも、ユーゴはここにきて気持ちが挫けていくのがわかった。会いたい。でも、会いたくない。また苦しい思いをするのは、嫌だった。
一時は、拒否コードにしてしまおうかと、悩んだほどに。
黙って俯いてしまったユーゴの頭を、医師がぽんぽんっと、軽く叩いた。顔を上げてみれば、困ったような、優しい瞳が見えた。
「ユーゴくんが行きたいなら、行ったらいい」
「でも……」
迷惑かもしれない。いい加減な仕事をするなと、言いたいのかもしれない。
「ユーゴくん。前に言ったよね?まずするべきなのは、自信を持つ事だって。君は自分をもっと認めてあげるべきだって。難しいのは、わかってる。謙虚さは美徳の一つでもあるからね」
まだ年若いはずの医師は、いつもどこかシギに似た温かさを思わせる。
そう言えば、シギも言っていた。おまえは、自分の腕をもっと信じていいのに、と。
「君の性格から言って難しいのなら、一番いいのは、誰か大切な人を見つけることだ。それも容易いことじゃない。でもだから、恋は恐れちゃいけないって言っただろう?すぐに見つかるなんて考えないで、一つ駄目なら、ああこの人じゃなかったんだって思えば良いって」
カナエ、そんなこと言ってたのか……。そうタチバナが呟いて、医師はその鼻をぐっと摘んだ。「いだい」と鼻が詰まった抗議がされる。
「誰かが君を大切に思っている。それなのに、君自身がそれを認めてあげないのは、かわいそうだって」
ユーゴはのろのろと、柔らかく微笑む医師に視線を移した。
「同じように、君は君が大切だと思う人を作ることも大事。その人は、君の大切な人になるには、力量不足なのかな」
ユーゴは、ふるふると、首を振った。そんなわけがない。それを言うなら、自分の方だ。
「それなら、会っておいで。その人はどうやら、君のことをもの凄く心配しているそうだから。安心させてあげないと、申し訳ないでしょう?」
穏やかな口調に、ユーゴはまるで子供にでもなったかのように、こくりと頷いた。
「でも、会いに行くって……」
こちらからアクションは起こせないのだ。それに、タチバナを呼んだのなら、その後24時間は幸野はサービスを受けられない。
「ああ。大丈夫。俺、まだサービス提供中なんだよ」
え?とユーゴがタチバナを見ると、悪戯をした子供のような目をしていた。
「というわけで、俺ではお客様を満足させられませんので、交代します。ユーゴ、後はよろしく」
web electroは、一日一度しか利用できないが、呼び出した担当では探し物が見つからないとき、他の担当を呼ぶことは禁止されていない。担当自身も、自分より適切な人物がいると思ったときは、交代を要請する。タチバナは、その状態だと言いたいのだ。
「で、でも……」
「もともとユーゴを呼んでたんだから、問題なんてないよ。大丈夫。ほら」
投げられた携帯が、軽やかに鳴り出した。交代要請の合図だ。
ユーゴは少しだけ迷って、でも、携帯を持って立ち上がった。制服のまま横になっていたので、それを整え、ネクタイと上着を掴む。それから、
「はい、行きます」
携帯にそれだけ言うと、病院内にあるブースに向かった。ここの職員達も、ときどきサービス要請されるのだ。
「ユーゴ、大丈夫だから」
背中に、タチバナの叫び声が聞こえた。何が大丈夫なのかわからないまま、それでもユーゴは、少しだけ振り返って微笑んだ。
自信を持てと言われた。
それはすぐには無理な話だけれど。
一つだけ、誇りに思えることはある。
幸野を好きだと言うことだ。あの人を、見つけたということ。
それだけは、自分を誉めてもいいと、ユーゴは思った。
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