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壊レカケノ月 七

 柏木がときどき遠くを見ることを、景一はずいぶん前に気付いていた。何を考えているかわからないそんな目は、景一をひどく不安にさせていた。ただでさえ、自分の価値を七尾静の弟ということにしかないと思っていた景一は、そうやって自分の気持ちをかき乱す柏木を、多少ならずとも恨んでいた。知らなければ良かったのに、と思う。
 学校が終わって、家の縁台に座っていると、柏木が歩いているのが見えた。景一は、足をぶらぶらと揺らしながら、その柏木が近づいてくるのを視線で追う。柏木は、まだやっと彼とわかるほどの距離にいた。すらりとした長身で、大股でかなり速い速度で歩くのに、雑というより、ゆらりゆらりと歩いているような印象を受ける。その歩き方と身長で、景一はそれを柏木と判断したようなものだ。それなのに、顔も見えないのに、景一は柏木のあの手を想像できる。微笑む顔を、思い浮かべてしまう。触れてくる指の温もりを、感じてしまう。
 だから、実際に柏木が門を開けた頃には、景一は視線をずらして、知らない振りをした。すぐ近くで咲く、紫陽花の花を熱心に数えてみたりする。もう終わりに近く、花数はそれほど多くなかった。
「学生服、初めてかもしれないな」
 柏木はそう言いながら、薄く微笑んだ。隣に来て座ろうという気はないらしく、敷石のあたりで立ち止まっている。そこでは、互いの表情はあまり良く見られない。だから安心したのか、景一は顔を上げた。
「そうでした?」
「あぁ、たぶん。……一人か」
「はい」
 今日も、母は隣町の妹のところだ。
「兄ですか?」
 柏木が何も言わずに立っているので、景一は不審に思ってたずねた。兄なら、今日は来ていない。柏木は、いや、と言いながら、景一を見ていた。たぶん、互いに見つめていたのだろうと思う。でも、それが確信できない程度の距離から、柏木は動こうとしない。
「静には、怒られてね」
 柏木はそう言いながら、笑ったようだった。俯いたので、景一には表情はほとんどわからない。ポケットに手を入れて、じっとつま先あたりを見つめている。
「兄に?どうしてですか」
 景一は、片足を縁台に上げて、膝を抱える。じっと柏木を見つめるが、柏木は顔を上げなかった。
「君で遊ぶのはやめろと言われたよ」
 そう言いながら笑った柏木を、景一はじっと見つめた。視線を、ずらせなかったのだ。動くことを忘れたように。
「兄馬鹿だな」
 景一は、やっとそれだけ言う。声が震えて、自分で眉をひそめた。わかっていたはずだから、何に傷ついているのか、自分を理解できなかった。
「だから、言っただろう。君を大事にしているって。……あれは、本当に怖いからな」
 景一は、柏木の手をじっと見ていた。長い、指。大きな、手のひら。ポケットから出されたその手は、ぎゅっと握られていた。
「しばらく、来られなくなると思う。勉強、最後まで見てやれなくて悪かったな。試験がんばれよ。――今まで、からかって悪かった」
 柏木はそう言うと、きびすを返して歩き出した。景一は、思わず立ち上がって柏木の名を呼んだ。柏木は振り向くが、立ち止まっただけで、歩み寄ろうとはしなかった。
 見えない。
 柏木の顔が見えない。
 見えないその距離のまま別れて良いのか、景一にはわからなくて、歩み寄ろうと足を踏み出した、そのとき。
 柏木は、くるりと背を向けて、再び歩き出した。景一は、それ以上はどうにも出来ずに、またゆらゆらしているように歩く柏木を、見送っていた。

 景一は、しばらくぼんやりと過ごしていたが、前から口数も少ない景一のその変化を、両親は気付かなかった。その頃、家族中は――日本中と言って良いかもしれない――疲れていて、そこまで気が回らなかったのかもしれない。
 その夜は珍しく、静が食卓についていた。それで少しは明るい食卓のようではあったが、その静でさえも、空元気のようなところがあるのだった。景一は、それに気付いて、食事中、兄をじっと見つめていた。
 食事が済むとすぐ、景一は自分の部屋に行ってしまうのが普通だった。その日も変わらず、自分の分の食器をさっさと片付けると、二階の部屋へと上がっていった。一人でいると、色々と思い出すものもあるが、人に合わせているのも辛い。でも本を読んでいると、本当に一人きりになれるから、景一はそれを好むようになっていた。
「景」
 すぐに帰るかと思っていた兄が、しばらくして部屋に来て、景一は思わず顔を上げた。少し、顔が赤い。そう言えば、今日は父親とずいぶん飲んでいた。お酒は、静が持ってきていた。
「酔ってるの?」
珍しいね、と景一が言うと、静がくつくつと笑った。景一はその笑いに眉をひそめる。それほど、飲んでいただろうか。
 ひとしきり笑って、それからふと真顔になって、静は景一を見つめた。戸口に右肩で寄り掛かって、腕組みをする。景一は居心地が悪くなって、「どうしたの」と聞いた。静は、視線を逸らすと、片手で顔を撫でた。
「柏木は、最初からお前を好いていたよ」
「何?兄さん」
「全部、お前の気を引くためにしたんだ」
 景一は、兄が何故突然そんなことを言うのか理解できずに、瞬いた。
「お前が、支えになると言っていたよ。なんとしても、生きてやると思えるって」
「……兄さん……?」
「口止めされた。負担になりたくないんだとね。そのために、嘘もついたんだろう」
 静は、酔いの覚めたような口調でそう言った。
「何を……言っているの」
 立ち上がった景一が、静の腕を掴む。弟が、それほど強い力を持っていることを、静は知らなかった。そう気付いて、視線を逸らす。白く、細い指は、縋りつくように、でも真実を逃さないように、食い込んでいた。静は、唇を噛んで、目を閉じた。
「……兄さんっ」
 逸らされた視線に、景一は悲鳴に近い声を上げた。
「父さんと母さんには、上手く言っておいてやる。だから、帰ったら上手い酒を飲もうと伝えてくれ。――……柏木は、明日出征だ」
 呟かれた言葉に、景一は無言で掴んでいた腕を離して、階段を駆け下りた。
 いつのまにか、雨が降っていた。室内にいたら気がつかないほど、細かい雨だった。

 ぼんやりと、煙るような霧の中を、ゆっくりと歩いてくる影を見て、静はもう何本吸ったかわからない煙草に火をつけた。もうすぐ、一日が、白く始まろうとしていた。
「行ったのか」
 玄関前に座っていた静が、目の前に立った景一に、呟く。景一は足の先で、落ちている煙草の吸殻をざっとかき回した。
「うん。始発で」
 答えて、また吸殻を払う。
「お酒、一級品にしてくれって。楽しみに、してた」
 景一の言葉に、静はやっと顔を上げる。上げた先の景一の顔は、穏やかに微笑んでいた。その表情に、あぁ遠くに行ってしまったな、と静は少し寂しくなる。もう、自分の手には届かないところへ。
 静は突然、いつも繋がれていた手が離された、幼い日のことを思い出した。鬱陶しいくらいに自分の手を握っていた小さな手が、自分の意志で、振り払われたときのことを。
「ありがとう、兄さん」
 立ち上がった静に、ぽつりと景一が呟く。静は、その頭をぽんっと叩いて、家に入ろう、とその背を促した。
 その手が温かくて、景一は思わず、目を閉じた。


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