蜜と毒 |
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5 その噂を聞いたのは、偶然だった。いや、それすらわからない。坂城京梧に関することは、偶然と故意の区別が判断しづらい。 裕貴がそこを通ったのは偶然としても、噂を耳にしたのは故意かもしれなかった。 三年の、中河明里(なかがわ・あかり)は妊娠している。 その父親は、坂城京梧だ。 ひそひそと、揶揄するではないその生徒の声色は、裕貴にその噂が真実と思わせた。 でも、たった一つのことが嘘だと直感させる。 坂城京梧は、そんな噂に上るような失敗はしない。あの男は、そう言う男だ。 一体、何のための噂なのか。 ここ数日、裕貴はそればかり考えていた。 もうすぐ卒業なのに。 裕貴がその噂を耳にした数日後、職員室でもその話が聞かれるようになった。たった一人の生徒、坂城京梧が関わっていると言うだけで、職員室でも噂止まりなのだ。それでもしばらく後には、二人は事の真相を聞くために呼び出されるだろう。 どう、答えるつもりなのだろうか。 授業で見る中河明里は落ち着いていて、体型も変わっていないから、妊娠の噂の真偽はわからない。確かに大人びた生徒で、京梧とは逆の意味で生徒や教員からも頼りにされていた。 裕貴はため息をつきながら、本から顔を上げた。ひんやりとした風が、窓から入ってくる。もう、ずいぶん風が冷たくて、煮詰まったような頭を駈け抜けて行く。でもそれは、決して問題をすっきりと解決してくれるわけではない。 からりと乾いた音がして、資料室のドアが開いた。他の職員は滅多に入ってこないから、裕貴は京梧が来たのかと思わずドアを注視した。 「残念。坂城じゃないんだ。悪いね、先生」 そう言って後ろ手にドアを閉めたのは、京梧といつもつるんでいる、萩尚登(はぎ・ひさと)だった。 「珍しいな、お前がここにくるのは」 尚登は京梧と裕貴の仲を知っている節がある。はっきりとは言わないが、それをネタに京梧をからかっているようなのだ。もう完全に分かっているのか、冗談交じりで言っているのか、京梧も区別がつかないようだった。 京梧が唯一、恐れ、嫌がる生徒だ。 ただ、尚登自身は京梧の敵にまわる気は無いらしく、京梧を手伝って楽しんでいる。 京梧がいやに恐れられる後ろには、尚登がいるからだと言っても良い。 京梧が嫌がりながらも頼っていることを、裕貴は知っていた。 「噂、職員室にも届きました?」 「……何の噂だ」 「京梧と中河の噂ですよ。先生の耳にはもうとっくに入っているでしょう?」 尚登がにやりと笑う。裕貴は、この笑いが嫌いだった。鋭く、射るような目をしながら、楽しそうに笑う、その顔が。 「あぁ……その話か。聞いてるよ」 読みかけの本から顔を上げて、裕貴は何でもないことのように答えた。 尚登はすすめられもしないのに、近くのあまり大きくないソファーに、どさりと腰をおろした。 「もうちょっと違う反応が見られるかと思ったのに。つまらない」 くすくすとそう笑うと、背もたれに体重をかけながら、裕貴の方へと顔を向けた。冷たく、笑っている。 「そんなことを言いに、わざわざここまで来たのか?」 「京梧、かわいそうになぁ……」 「何が」 「少しくらい妬いてあげたらいいのに」 そう言った尚登の言葉に、裕貴は大きなため息をついた。 「噂を、信じてないんですか?」 「信じてないさ」 「どうして」 「坂城が、あんなへまをするわけないだろう」 裕貴がそう小さく笑ったのに、尚登はなるほど……と呟いた。それから、机の上の煙草に、手を伸ばす。 「先生、火は?」 裕貴は尚登の前にいくと、その煙草を取り上げた。 「坂城も、吸ってるでしょう?」 「知らないな」 「……ふーん」 嫌な、相槌だった。尚登と話をすると、裕貴は落ち着かない。何もかも見透かされているようで、何も話さないことが、一番良い気がして来るのだ。言葉を交わし、その視線を受ける度に、疲れる。 「萩、何しに来たんだ?」 裕貴は取り上げた煙草を口に加えて、軽く噛んだ。ライターを点けたり消したりしているが、煙草には火を点けなかった。 「先生の顔を見に来ただけですよ。そんなこと言ったら、京梧に怒られそうですけど」 尚登は、京梧とはまた違う整った顔を綻ばせた。人間味の余りない、整いすぎて冷たい印象のある顔だった。何を考えているか、わからない。 「どうしてあんな噂を流した」 「やだなぁ……俺が企んでるみたいじゃないですか」 「違うのか?」 尚登は、答えずに笑った。 明里と京梧は、数日後に呼び出された。 噂を否定することは、なかったと言う。 中河明里の妊娠は、確実になった。 京梧は、裕貴と何もなかったように関係を続けていた。もとより、恋愛と言う言葉のなかった関係は、壊れることはなかった。それどころか、かえってその関係をはっきりさせていた。 「なぁ、さっき目が合ったな」 「――いつ?」 「さっきだよ。廊下で、俺が後輩のヤツと話してるとき」 「それでここに来たのか?」 「目、合ったよな」 裕貴は、笑った。 「合ったかもな」 「妬いた?」 「一年坊主にか?」 裕貴は、心底楽しそうな顔で笑って、京梧の頬を撫でた。それから、ゆっくりと口付ける。 「妬く理由が、ないだろう……?」 「そうだな……」 口付けが、深くなる。 二人は、快楽だけを、求めた |
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