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蜜と毒


6
「処分、決まったのか?」
「まだ。予定は夏だから、そのまま卒業させちまおうかって、思ってるらしいけど」
「明里じゃなくて、おまえの処分だよ」
手に持っていた缶コーヒーを尚登は投げて、視線をおとした。
「サンキュー……あっちっ」
「退学にでもして欲しいのか?」
「いや、ならないだろう」
京梧は制服の袖を伸ばして、缶を持った。
「どんな余裕だよ……」
尚登が呟いた。
進学率を誇るこの学校に、京梧を退学にする気は無いだろう。それが、京梧の余裕だった。学校側から、有名大学の受験を頼まれてもいる。
噂の統率さえ取れれば、学校側はそれでいいはずだった。そしてそれは、京梧には容易い事だった。
尚登は、今回の噂で京梧が何を企んでいるのか知らない。明里の相手は、確かに裕貴の言う通り、京梧ではない。それは知っていたが、本当の父親のことは何も知らなかった。
だから、裕貴のところに行ったのだ。裕貴の反応を見てみたかったのも本当だ。でも、裕貴なら何か知っているかもしれないとも思ったのだ。
「明里の相手、お前と一緒か」
「え?」
尚登は、明里の相手は教員と踏んでいた。明里はバカな子ではない。綺麗な顔をしているし、性格も良い。それなのに、今まで、誰とも噂になった事などなかった。
「それで、同情でもしたか?」
「……そんなんじゃない」
京梧は、裕貴のことになると歯切れが悪い。人を駒のように扱う京梧が、途端に考え込むように、何処か遠くを見る。
裕貴が見ている坂城京梧は、尚登が見ている京梧と違う。他の誰が見ている京梧とも、違うはずだ。
裕貴が自分を苦手だと思っていることを、尚登は気付いていた。先生のなかでは京梧の方が性質が悪いと言われているのに、裕貴に限っては、京梧より尚登と居るほうが落ち着きが無かった。
それが、二人の時間を物語るようで、尚登は我慢がならなかった。
恋愛感情ではない。
でも、一人気高く、鋭い牙を持つ京梧と一緒にいるのは自分だと、尚登はずっと思っていた。その牙に噛まれることなく、笑い合えるのは。
確かに、京梧は自分に牙を向けることはない。心底笑い合うこともある。
それでも。
京梧にとっての居場所は、自分ではない。どうしてかそれが、気に入らなかった。
「……羨ましかったのかもな」
そう呟いた京梧の声は、小さすぎて尚登には届かない。自分でも分からない、今の気持ち。
裕貴は、何も言ってこない。
そのことに、自分が振り回される。
妬く理由が無いと、言った。
それは、抱けばそれで良いということなのだろうか。
それだけで、――良いということなのだろうか。

明里と京梧の噂は見事に消え、明里に対する好奇心も、抑えられていた。センセーショナルなその事件は日常に組込まれ、また、同じ日々が過ぎて行った。
「この中に、命があるんだからな……すごいよな」
「ふふっ。私もまだ実感が余りないの。でも、命の音が伝わってる気がする」
裕貴の手が、そっと明里のお腹を撫でた。明里は以前にも増して大人びた顔をし、穏やかに語る。
「すごいよ。こうして10ヶ月位自分の中で生命を育むんだもんな……生まれたら、全然違う「人」になるのに。女って、すごい」
「先生……こんなに自然にこの話題を出す人も、めずらしいよ。みんな見ない振りするのに」
明里が、少し照れたようにそう言った。好奇心は、表面には現われなくても、深いところで本人を襲っているのだろう。明里は少し、疲れたような顔をした。
「中河、」
「はい?」
「この子の父親、ちゃんと父親になってくれるんだろうな」
裕貴の呟きを、明里は最初理解できなかった。わからなくて、じっと、裕貴の手がお腹から離れていくのを、見つめていた。
「萩から言われた通りね。先生、わかってるんだ」
「特定はできてないけど、あいつじゃないってことだけは分かってる」
「ふーん……先生、坂城のことよく知ってるんだね」
「そんなことない。ちょっと考えれば分かるだろ」
明里は廊下の窓を開けながら、そうかな、と呟いた。冷えた空気が入り込んできて、また窓を閉める。
「坂城の相手は、先生?」
「え?」
「坂城、変わったよ。今回のことも、坂城が言ってくれたことなの」
「どう言うことだ?」
「ね、坂城の相手って、紺先生なんでしょ?」
「……何の相手だよ」
「萩がヒントをくれたのよ。坂城の想い人は誰だろうって、ずっと気になってたんだけど……。ユーキって、坂城が呼ぶ人」
「坂城から言ったって、どう言うことだ?」
「私の質問に答えて」
明里は、真っ直ぐで強い瞳を持っている。今回の妊娠騒ぎも、だから乗り切って行けるのだろう。揺れてばかりで、出口の見つからない裕貴に、勝ち目など無かった。
「……遊び相手は、してるよ」
ぎりぎりのところで白状すると、明里の視線が、またきつくなった。
「遊びなんて、坂城は思ってないよ」
「中河、俺の質問に答えてくれ」
裕貴は、投げやりにそう言った。聞いて、どうするかもわからない。ただ、真相を知って、安心したいだけなのかもしれない。
それが、自分を安心させるものかも分からないと言うのに。
「単純なことなの。ただ、この子の本当の父親のことを隠せれば、それで良かったの。そうしたら、俺の子にすればいいって」
「坂城は、相手を知ってるんだろう?」
明里は、小さく頷いた。
「相手、何て言ってるんだ」
「卒業したら、結婚しようって。職を失うことになっても、それで良いって」
明里は相手の男のために、男は明里のために、京梧を頼ったのだ。京梧なら、こうして今の状況を作り出し得た。明里も無事卒業でき、好奇の目も和らぐことが。
なんて、ことだろう。
京梧は、二人に夢を見ている。
裕貴はそれを、ばかばかしいと笑うことが出来なかった。

「さみーな」
その日、裕貴が資料室に行くと、京梧がうたた寝をしていた。
「窓開けて言うセリフじゃないだろ。閉めな。風邪ひくぞ」
資料室には暖房がない。もともとここは倉庫のようなもので、人が長時間大人しく座っているようなところではなかった。それを裕貴が、自分専用のように模様替えをしたのだった。
「あー……忘れてた」
短く鼻をすすって、京梧がそう呟きながら窓を閉めると、部屋の中の空気が止まった。少し、重いような空気だ。
そう思うのは、自分の気持ちの所為かもしれないと、裕貴はため息を吐いた。
「どうしたの?顔色があんまり良くない」
振り返った京梧がそう言うのを、裕貴は視線をずらして答えた。でもそれは、問いに対する答えにはなっていなかった。
「……中河にあったよ」
「……」
「二人の子なら、かわいいだろうなぁ……」
嫌味には、聞こえない口調だった。友人の結婚を心から祝うような口調に、京梧は唇を小さくかんだ。
机一つを隔てた距離は、京梧のその表情を見つめるには、遠かった。
「噂、信じてないんだろう?萩から聞いた」
「……まぁな……」
「それでも、そんなことを言うのか」
心からの、祝辞を。
「坂城……お前は何を望んでいる?」
「……何も」
何も、望んではいないはずだった。そして、望んでも手に入らないものは、嫌いだった。
京梧がゆっくりと近寄ると、裕貴はそこから動きもせずに、その京梧をみつめていた。
手を、伸ばす。
さらりと裕貴の髪を揺らしたその手は、そのまま髪の中で止まった。
「何かを望んでいるのは、ユーキじゃないの?」
「……何を」
「知らない。俺が知るわけがない」
わかったら、もっと楽になれるのに。希望も、絶望も、もっとはっきりするのに。
裕貴が動いて、窓に近寄った。指に絡みつきながら離れる髪が、愛撫のように優しい。
「何も、望むものなんてないよ」
望んだからといって、手に入るものなど、ほとんどないのだから。







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