微かな旋律 06 |
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「今夜でしばらくお別れだね」 数日前から和音の部屋で寝起きをしていた要に、和音がそう語りかける。いつもながら反応がないが、それでも和音は要に話しかけることにしている。 「君はこの小さい体に何を背負っているんだろうね」 すっかり慣れたように着替えさせて、和音が呟いた。本当は、慣れてなどいない。今でも、見るに堪えないのだ。 さわさわと、雨が木々の葉の上に落ちる音が微かにしている。要はまるでその音を聞いているかのように、窓の外を見つめていた。その瞳に、その闇は映っているのか。それとも、自らが抱える闇のほうが暗くて、完全ではないその闇に、憧れてさえいるのか。 「レオナルド」 「え?」 「レオ……ナル……ド……」 小さな、雨の音に紛れそうな、小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた、要の声。 「要くん?」 要は手探りでウサギのぬいぐるみを探し当てると、ほっとしたように眠ってしまった。 「レオナルド?」 ウサギのぬいぐるみの名前だろうか。和音はしばらくじっと、すやすやと眠る要を見つめた。こんな風に、自分から布団に入って眠ってしまうと言うのは、珍しかった。それに、あの声。 ずっと、話すことをやめていた要の、小さな小さな声。 聞き間違えだろうか。一瞬そんなことを思うが、音は確かに聞こえていたのだ。 眠る要は、いつも以上に安らかに見える。そっと頭を撫でても、起きない、いつもより、深い眠り。 和音は伊織の部屋に行くと、軽くドアを叩いた。中から、どうぞ、と声がする。 「夜這い?」 ベッドの上で本を読んでいた伊織がそう笑う。目が艶かしく光って、和音をどきりとさせた。夜に見る伊織は、少し危ない。 「そんなんだったら、ノックなんてしないよ」 和音は伊織から視線を逸らしながら、自分の気持ちを悟られないように、わざと軽口を叩く。せつないなぁ、と思う。いつになっても、切ない。 それに伊織は笑って、こっちにおいで、と手をひらひらさせた。 「要、寝たの?」 「うん……」 和音は少し思案顔で、ベッドに座りながら頷く。伊織がそれに、怪訝な顔をする。 「どうした」 「それがね、要くん、しゃべったんだ」 「え?」 「しゃべったんだよ」 信じられないのはわかるから、和音はもう一度、ゆっくりとその言葉を発音する。伊織は横になっていた身体を起こして、もう一度、確認するようにその言葉を言った。 「しゃべった?」 「うん。レオナルドって」 「は?」 「レオナルド」 和音はそう言って、思わずくすくすと笑う。言ってる自分も、なんだか可笑しくなってしまう。ずっとしゃべらなかった要が、最初に言った言葉がそれだなんて、自分でも信じられない。 「レオナルド……」 「あのね、言っておくけど本当。要くん、そう言ってすやすやと眠っちゃったんだ」 伊織も笑うと思ったのに、思いのほか真剣な顔をしている。間近でそんな顔を見て、和音はまた、どきりとする。 触れたい。 触れられたい。 「ぬいぐるみの名前かなぁ……と思ったんだけど」 誤魔化すようにそう言うが、伊織はじっと何か考えているようで、下を睨むように見ている。 「伊織?」 「ん?あぁ……ごめん」 「何の役にも立たないだろうけど」 早く、解決するといいね。和音は、そう言って立ち上がった。切実に、そう思う。要のためにも、自分たちのためにも。 「いや。今は思い当たる節がないけど、そのうち役に立つかもしれないし。ありがと」 伊織がそう柔らかく笑うから、和音は居たたまれなくなって、小さく頷くと、そそくさと部屋を後にした。 自分から言い出したのに。 扉が閉まったあとに、互いにため息をついたことは、二人は知らない。 伊織から和音に連絡が入ったのは、それから数日後のことだった。和音の、パリへの帰国日が近づいていた。 「……終わったの?」 『あぁ。一応』 「一応って?」 電話越しの、見えない伊織の歯切れの悪さが、和音の首を傾げさせる。伊織にしては、珍しい。 『なぁ、下りて来られる?』 「え?いるの?」 『うん、今着いた』 和音はすぐ行く、と言うと電話を切って、薄手のコートを羽織って部屋を出た。それからエレベーターで玄関口まで降りると、確かに伊織のシルバーの車が止まっていた。 「びっくりした?」 「びっくりした」 車に乗り込むと、伊織はすぐにエンジンをかける。和音が不思議そうにその顔を見ると、伊織が困ったように、笑った。 「要がね、しゃべらないんだよ」 それは、そうそう簡単に治るものではないだろう。でも、確かに一度、和音だけはその声を聞いている。 「きちんと説明するな。一ヶ月ぐらい前かな、要の母親、絢子がアパートで殺されたのを発見された」 伊織は滑らかな運転をしながら、淡々と事件の概要と経過を話した。和音はそれを、真剣に聞いている。 「で、どうやら瀬名と絢子はその会社の脱税記録を手に入れたらしいんだ。それを使って社長たちを脅そうとしたんだが、まぁ、ばれたんだな」 「その記録って言うのが、フロッピーに入っていたんだが、それを瀬名が、そのフロッピーのパスワードを、絢子が持っていたんだ」 伊織がちらりと横を見ると、和音がもっと分かるように説明してくれと、小さく首をかしげた。 「つまり、二人一緒じゃないと、それを見ることは出来なくしたんだよ」 ところがそれを知らない社長たちは、フロッピーを取り返すことだけを考えて、雇ったチンピラに絢子を殺させてしまったのだ。残された瀬名も、フロッピーだけを持っていたのでは意味がない。しかし、結局脱税の全容を知っている瀬名は殺され、フロッピーは社長たちの手に戻ってきた。 「でも、フロッピーは開けられなかった。中身を確認できなかったんだ。それで今度は、要を探し始めた」 「要くんが、パスワードを知っていると?」 といっても、第一要はしゃべらない。 「たぶんな。瀬名も絢子が殺された直後に要を探しているし。もしかしたら絢子が瀬名にそれらしきことを言っていたのかもしれない」 話している間に、車は大きな病院の前に着いた。伊織はそこに車を止めると、和音に降りるように促した。 「警察も押収したフロッピーの中身が確認できないんじゃしょうがないからな。要に聞いてみたんだが……」 相変わらず、視点の合わない目で、宙を見つめているのだ。 「ゆっくり治療していけば、そのうち元に戻るかもしれないけどな。警察はそれも待てないらしい」 病院に入ると、伊織は受付もせずにさっさと歩いていく。その独特のにおいが鼻について、和音は一瞬顔をしかめた。 「ねぇ伊織、もしかして……」 「え?」 そう言ってから、伊織は突然思い出したのか、あっと言う顔をした。それから、二人は顔を見合わせて、同時に呟いた。 「レオナルド」 伊織は、すっかり忘れていたのだ。あまりに突拍子もないことで、関連付けるのを。 「はーい」 病室をノックすると、中から瞳香の声が聞こえてきた。伊織はドアをかちゃりと開けると、その瞳香に向かって、手招きする。 和音はそのまま病室に入ると、ベッドに横たわる要の隣に立った。視線は天井を見つめたまま動かないが、手がぴくりと動いたのがわかる。 「要くん、久しぶりだね」 和音がそう言って頭を撫でると、要は安心したように目を閉じた。 「終わったんだって。もう、見ても、聞いても、話してもいいよ。もう、怖くなんてないから」 和音がそう言うと、要の寝息が聞こえてきた。和音は優しく微笑んで、その頭を撫でつづける。優しい手があることを、教えてあげたかった。優しい言葉が、優しい、顔が。 「あら。寝ちゃったんですね」 瞳香と伊織が入ってきて、和音の手の下ですやすやと眠る要を見て、微笑んだ。 「どうだったの?」 和音が伊織にそう聞くと、伊織が笑って、ビンゴ、と言う。 「これでようやく、本当に終わりだ」 病室には、初秋の柔らかい光が差し込んでいた。その空間は、泣きたくなるほど優しい。 そんな空間があることを、要には、ゆっくりでもいい、知っていって欲しかった。 |
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