微かな旋律 07 |
|
「え?」 言いづらそうにその言葉を口にした和音に、伊織の心底がっくりとした声が返ってくる。病院から伊織の部屋に帰ってきて、二人で解決祝いのビールを飲んでいた。日はまだ薄っすらと、街をオレンジ色に照らしていた。もうすぐ、夜になる。 「僕だって伸ばしたいけど、もともとぎりぎりの日程でとってるから、無理なんだ」 やっと、二人だけになったのに? 伊織が泣きそうなほどの情けない顔をしていて、和音は苦笑した。飛行機が出るまで、あと二日しかない。つまり、明後日の午後の便で和音はパリに戻るのだ。 ―――すっかり、忘れていた。 日本にいるのは一ヶ月だと、確かに和音は言っていたのだ。それを伊織は、事件にかまけてすっかり忘れていた。休暇で来ているのはわかっていたし、すぐに欧州公演があるのも知っている。 ―――だけど。 大きなため息は、隠し切れなかった。 「明日は駄目だけど、今日は空いてるから、ね」 今日といっても、もう数時間。それをわかっていながら、まるで子供をあやすように、和音は言う。 「なんで明日だめ?」 「志筑と、瞳香さんと、要くんと、あと親しい人たちを呼んでミニ・コンサート開くことになって……あ、伊織も来られる?」 「行ける、というより行く」 即答に、和音がふんわりと微笑んだ。伊織はその和音の笑みに、妙に気分がむしゃくしゃして、和音を抱きしめた。 むしゃくしゃするのは、自分に、だ。せっかく休暇で帰ってきた和音の相手を出来なかったばかりか、それを、無駄に過ごさせた、その自分に。 「伊織?」 「……ごめん」 この一ヶ月、何度言ったか分からない言葉を、呟く。 「なにが?」 「休暇だったのにな」 伊織が抱きしめたまま、小さな声でそう言うと、和音が伊織の肩をぐっと押して、正面に向き合う。少し困ったような、哀しそうな、表情だった。 「僕は、嬉しかったのに」 「え?」 「僕はね、伊織の部屋に来ることができて、ちょっとでも伊織の役に立てたなら、それで嬉しいのに」 和音はそう言うと、ゆっくりと伊織の首に腕を絡ませながら、口付けた。それはそのまま、深い口付けとなり、気付いたら和音は、ソファーに押し倒されていた。 「寝室に行こうよ」 和音がそう抗議すると、伊織は後でね、と言って耳に、首筋に、唇を降らせるのを止めない。手はするすると薄手のセーターを捲り上げて、既に久しぶりの和音の素肌の感触を楽しんでいた。 「後って……」 「もちろん、寝室でも、な」 そう言うことではないのだが、和音自身、切実なのは変わらない。一刻も早く、触れて欲しかったのだ。まぁ、伊織の性急さが嬉しくないわけではないのだ。 「んっ……」 狭くて、逃げ場のないソファーの上で、あまりに久しぶりに触れられた和音は、ひどく敏感になっていた。伊織は自分でも信じられないくらい焦るように、その和音に触れる。 仕事が忙しくて疲れきって、何週間も女を抱かないと言うことは以前にもあったのに、こんな風に切実にはならなかった。 瞳香が、どこかで笑っている気がする。 ―――変わったわねぇ。 そう、嬉しそうに。 暗くなってきた部屋に、二人の荒い息遣いだけが響く。言葉を発するのももどかしくて、ただただ、求め合っていた。 「伊……織……」 和音が呼びかけるように名を呼ぶから、伊織も顔を上げる。それから、動きを止めて破顔した。 「初めてだ」 「な、に?」 荒い息の下、和音が少し放心したような顔で問い返す。部屋はすっかり闇に包まれていたが、二人の顔が見えないほど暗くはない。 「やってる最中に、呼び捨てられたの」 伊織のその答えに、今度は和音が笑う。 「もう……何かと思えば」 もう、何度も呼んでいるのに。それでも、伊織のときどき見せるそう言う子供っぽさが、和音は愛しくて堪らない。普段が普段だけに、ほっと安心する。 彼の居場所が、ここにあるのだと。 ―――つないだ手を、離さないでくださいね。 伊織がいないときに、瞳香に言われたことを思い出した。捕まえていて、くださいね。そう、優しく笑っていた。 今は互いに握っているかもしれない手も、いつか離れてしまうかもしれない。それが、自然と離れていくのならば、仕方がないと諦めるだろう。でも、そうではないのなら。 伊織が、今回のように、和音のためを思って離すのなら。 許さない、と和音は思う。そんなことは、許しはしない。 「どうした?」 今は、こんなに近い。 「もう、いいよ」 「え?」 「だから、もう、いいから……」 和音が暗闇に一層赤く染まるのが分かって、伊織はにっこりと笑った。 「うん……」 そう言って、ゆっくりと身を沈める。久しぶりの和音の中はきつくて、やはりまだ少し早かったかもしれないと思いながら、それでも、もう後には引けなかった。 獣のように、貪りあう。 それは、本能に近いのだろうか。 決して、子孫を残そうとする行為ではないのに、これほど無心に抱き合えるのは。 切ない、本能なのだろうか。 二人でほぼ同時に果てた後、顔を見合わせて二人は大笑いをした。ただただすることに夢中だった自分たちを。 「でも、やり足んねー」 伊織がくすくす笑いながらそう言う。和音は仕方ない、と言う風に笑っているだけだ。 「ねぇ、知ってる?伊織は僕の音楽に多大なる影響を与えてるって」 まだ笑いを含む声で和音が言うと、伊織が少し苦しそうなその声の調子に、和音の上から身体を起こした。 「多大かどうかは知らないが、前に志筑さんにそう言われたな」 「多大、なんだよ。だから僕も、伊織の役に立ちたい。それができるなら」 互いの仕事に干渉しないのもいい。でも、要の事件のように、伊織の生活にも仕事は入り込んでいるのだ。それを無視することはできない。 「言っただろ。十分、役に立ってるって。今回、甘えたのは俺だから」 それが、嬉しかったのだ。助けを求めれば、必ず助ける自分がいることを、知っていて欲しい。和音がそう言うと、伊織はひどく切なげな顔で、ゆっくりと笑った。 「守る前に放棄するんじゃなくて、守ってから後悔される方がいい」 和音のその言葉に、伊織はやっぱり敵わない、と思う。 自分が欲しくて堪らない強さを、この人は、持っている。 二人で歩むことを決めたなら、今のままでは上手く行かないことを、伊織も、そして和音もわかっていたのだ。 だから、謝らないで。和音がそう伊織を抱きしめると、伊織はまるで子供のように、頷くことしか出来なかった。 温かくて。 抱かれた腕が、温かくて。 一人ではないと、伊織ははじめて、思った。 |
|