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ユーフォリア――euphoria―― 第二話


08
 いらっしゃい、と顔を上げた哲史の顔が驚きながらもゆっくりと綻んで、雪絵はああこの人が、と思わず自分も微笑んだ。哲史のこんな華やかな顔を見たのは、初めてだった。
「七緒さん、かしら?」
 雪絵がそう言うと、相手は驚いたようにひょいっと眉を上げて頷いた。がっしりとした身体は無駄がなく、精悍な顔立ちは仕事の所為か少しばかり厳しいが、良い男じゃないの、と雪絵は心の中で哲史をからかう。生憎カウンターが埋まっていて、雪絵が馴染みの客に移ってもらおうかと思案していると、空いているところでいいですよ、と七緒が言った。
「どうせ、あいつも落ち着かないだろうし」
 すでに喜びながらも困惑している感のある哲史に笑いながら、七緒は店の奥の椅子に座った。急に非番になって、ふらりと来てしまったのだ。ふらり、と来られる距離でもないのだが、一度来て見たいと思っていたし、いつも哲史からのアクションばかりだとふと思ったときには、切符を買っていた。ただ、会いたかっただけなのかもしれない。
「どうしたの?」
 雪絵に言われ、カウンターから出てきた哲史は、明らかに困惑していた。これは唐突過ぎたか、と七緒が苦笑する。
「明日非番でね。ふらっと」
 そう言うと、哲史ははにかむように笑った。それから、連絡くらいしろよ、とちょっとむくれてみせる。
「いや、思い立ったときは、もうおまえが店にいる時間だったからな。それに、一度飲みに来たかっただけだ」
「新幹線に乗って?」
「そう」
 哲史が、全く、と笑う。七緒も、自分の行動に少しばかり驚いていた。
「まさか帰るとか言わないよな?」
「帰れない、が正解だ。新幹線の最終にはもう間に合わないし、それ以外の電車で帰っても途中までしか帰れない」
 もちろん、帰るつもりもない。そう付け加えると、哲史は満足したように微笑んだ。
「ゆっくり飲んで。終わったら一緒に帰ろう」
 哲史はそう言って、注文を聞くとカウンターに戻っていった。
「お噂はかねがね」
 頼んだロックを手に、代わりにやってきたのは雪絵だった。にっこりと笑って向かいに腰掛ける。七緒も、哲史から話だけは聞いている、年齢不詳の美人ママ、とやらにようやく会えて、こちらも、と笑った。
「思ったより良い男でびっくり」
「それはどうも。こちらは聞きしに勝る美人ママでお会いできて光栄、と言ったところですね」
 七緒のその言葉に、雪絵はあらあら、と笑う。
「哲史に怒られません?そう言うこと言って」
「言ってるのは哲史も一緒ですからね」
 妬いているんです?と雪絵が言うと、さあ、と七緒は片眉を上げて見せた。
「それにしても」
 雪絵がそこまで言って、くすくすと笑い出す。七緒はさすがに話の展開が読めず、眉根を寄せた。
「いえ、ごめんなさい。哲史のあんな可愛い表情見たの、初めてで」
 雪絵は堪えきれない、というように小さく笑いつづけている。七緒はまだ訳がわからず、とりあえずとグラスに口をつけた。
「あの子があんなに子供らしい顔できるなんて、って思ったら嬉しくて。いつもは、それはもう年齢不相応な落ち着いた、大人っぽい顔しかしないんですもの」
 それに、ときどき切なくなるような顔。それが、先刻七緒と話していた哲史は、まるで別人のようにくるくると表情を変えていた。
「そうなんですか」
 そう言いながら、七緒はちらりと哲史を見た。目の前の客相手に、確かにひどく大人っぽい顔をしている。女の子を相手に、手馴れたようにあしらっているのがわかった。やれやれ、と七緒はため息を吐いた。自分は嫉妬しに来たわけではないのだが。
「でも、そうね。七緒さんのお話をするときだけは、とても穏やかな顔をしてたわね」
 雪絵が、ふっと呟くように言った。高校を出たばかりで、たった一人で知らない街にやって来た哲史が、どれほど必死で生きてきたのか、七緒はその言葉に哲史の強さを思った。
 支えられているのは、自分なのかもしれない、と七緒は思う。何度も、そう思った。そしてそれは、きっと間違いないのだろう。
「私がこんなこと言うのも変だけれど」
 雪絵はそう前置きして、ふいっと哲史を見た。すっと真っ直ぐに立った哲史は、はじめの頃、孤独に慣れようと必死で、そしてその孤独以外のものを受け入れようとしていなかった。それが、ようやくとても自然な形で立てるようになって、孤独と言う形ではなく、自立と言う形で一人になったのだと雪絵は思った。そして、並んで歩く人間を手に入れたのだと。
「哲史を、よろしくお願いします」
 すっと下げられた頭に、七緒は自分も頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました。哲史が出会ったのがあなたで、よかった」
 夜のスナックで、それはとても妙な光景だったに違いない。それでも二人はとても真摯な気持ちでいたのだった。


「なーに話してたんだよ」
 今日は片付けはいいわよ、と香夏子や雪絵に言われて、哲史は恐縮しつつも店を出た。七緒は酔いを醒ますから、と先に外に出て月を眺めていた。ぽっかりと浮かんだ月は、少し満月には早い。
「何が?」
「雪絵さんとっ」
 こんっと哲史が蹴った石が、ころころと道を転がった。秋も深くなって、深夜にはやはり冷えるな、と七緒は思った。
「内緒」
「似合わない言葉吐くなよ」
 むっと膨れた哲史に、七緒は苦笑した。アパートは店のすぐ裏とかで、くるりと道を回ったらすぐだった。
「連絡もくれないから掃除もしてない」
 機嫌悪く言う哲史に、部屋に入った途端七緒が後ろから抱きついた。ひゅっと息を呑む音がする。
「寒いな」
 ぼそりと、そんなことを呟く。哲史は急に今の状況が飲み込めて、心臓が全速力で走り出すのがわかった。でも、それがどこか気恥ずかしく、ぶっきらぼうな口調で誤魔化す。
「湯たんぽか俺は」
「ん?ああ、今晩は代わりになってくれるんだろ?」
 まったくこの人は、と哲史がもがいて振り向くと、困ったような顔をした七緒がいた。
「なんだよ、変な顔して」
「いや、俺も嫉妬深いもんだなあと」
「なんで?雪絵さんとあんなに親しく話しちゃって。七緒ってそう言えば誑しっぽいよね」
「おいおい」
「伏見さんに聞いてるんだから。結構女をとっかえひっかえしてたって」
 あいつ、と七緒がため息を吐いたところで、哲史がぎゅっと抱きついた。
「よく我慢してるって、呆れてたよ」
「俺もそう思う」
 七緒はそう言って、しがみついている哲史の顔を上げさせた。それから、ゆっくりその唇を重ねる。味わうように、何度も角度を変えて口付けていると、ずるり、と哲史の身体から力が抜けた。はあっ、と吐息が零れる。
「風呂……」
「おまえね」
 今更それはないだろう、と七緒が眉根を寄せたのはわかったが、哲史はするりとその腕を抜け出した。
「だってさ、色々ありすぎて、結局今になって、なんかすごく大切なことな気がしてきちゃったんだよ」
 小さな浴室に向かいながら、哲史がぶっきらぼうに言った。確かに、あの花丸マークのついた日から、随分と時が経ってしまった。
 浴槽に湯を張る音がして、七緒は小さく吐息をつくと部屋の中央にある小さなテーブルの前に坐った。入ってすぐにミニキッチンがあり、それを抜いても六畳ほどの小さな部屋だった。ほとんど身一つで飛び出した哲史は、あまり物を持っていない。遊びに行ったりしなかった分、生活にそれほど困ることはなかったと言っていたが、質素な暮らしをしていたのはわかる。本だけが色々積み重なっていて、あとはテレビもない。
 ここに、一人で帰ってくるのだ、哲史は。
 そう思うと、七緒は言いようのない寂しさに襲われた。先のことも見えず、帰るところもなかった哲史の寂しさと不安が、押し寄せるようだった。
「七緒も入る?なんだ、コーヒーでも飲んでればよかったのに」
 パジャマに着替えた哲史が湯上りにうっすら赤くなりながら、微笑んで、それから奇妙な顔をした。
「どうかした?」
 七緒がおいで、と言うように指で呼ぶと、素直に近寄った。そのままぐいっと手を引いて抱き締めると、哲史がやはり少し奇妙な顔をしてその七緒を見上げた。
「布団出さないと」
「ああ」
「七緒?どうした?」
 縋るようだな、と哲史は思っていた。抱き締められるというより、もう離さないとでもいうように縋るような。ああ、と哲史は思う。
「どこにもいかないよ、もう」
 そう言うと、七緒が苦笑した。
「ああ、そうしてくれ」
 ぎゅっと抱く腕は緩まず、哲史は仕方がないなあ、とそれにもう身を任せていた。失う怖さを、七緒は知っている。それなのに、何も言わずに自分は飛び出したのだ。
「……辛かったな」
 ふと呟かれて、哲史はえっ?と顔を上げた。七緒の、優しい目とぶつかる。穏やかで、いつでも自分を肯定してくれる目だった。
 見ているうちに、涙が出てきた。泣くものか、とずっと思っていて、後悔もしないと決めた。それなのに、視界が霞んだ。
 ずっと、寂しかった。
 たった一人で立つことは大変で、とても怖かった。
 振り返ったら、七緒がいてくれる。そう思っていたのに、誰ももういないのだと思うと。
「ばかだな、ベッド以外で俺を泣かすなよ」
 強がりの声は震えて、それでも七緒はくすりと笑ってくれた。離れられる、と思った自分が信じられなかった。こんなに、安心できる場所から。
「じゃあ、ご期待に沿って、存分に泣いてもらうかな」
 その声に、哲史もくすくすと笑って、布団を出そうと立ち上がった。七緒がテーブルを端に寄せて、ああそうだ、とコートのポケットから紙袋を取り出した。
「何?」
「俺も中は怖くて見てないんだ」
 哲史はなんで?と言う顔をしてみせながら布団を敷いた。掛け布団はすぐにはいらないよなあ、などと思いながらとりあえずいつものようにする。
「だってこれ、誰から貰ったと思う?伏見だよ、伏見。おまえのところに行くなんて言わなかったのに、帰りがけに哲史にって、ぽいって渡して」
「それは……中身が想像できると言うか」
 ぽいっと投げられて、七緒がコートを脱いだりしているうちに哲史が中をこわごわ覗くと、やはりというか、コンドームと潤滑油らしきものが入っていて、哲史は苦笑した。
「期待されてるねえ、俺たち」
 中身を取り出して見せながらそう言うと、七緒が大きなため息を吐き出した。





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