home モドル 01 02 03 04 05 06 07 * 09
ユーフォリア――euphoria――
08
七緒が、自分は哲史を藤吾の代わりにしている、と気づくには、そう時間は掛からなかった。いや、認めるには、と言うべきなのかもしれない。そんなことは、最初からわかっていたことなのだ。
情けない、と七緒は思う。そうやって、ずっと哲史を薬の深みに落としていたとは。
哲史は子供だ。不安定で、脆く、頼りない。でも、それだけではなくて、強さも持っているはずだ。そんなことはわかっていたはずなのに、弱さばかりに目をやって、自分の価値を確かめようとしていた。
弱いのは自分なのだ。頼っていたのは哲史ではない。
――突き放す。
それが恐ろしいのは、自分の立つところを失うようで、不安だからだ。でも、このままでは、哲史は確実に破滅に向かう。それを、自分は救えないのだと認めて、哲史の強さを信じるしかない。そうして、手を離さなければならない。
そう決心をした七緒は、だから、署の机の上で携帯が震えたときに、一瞬目を閉じて、決心が揺るがないように自分を鼓舞した。いつものように廊下に出る七緒を、朝井がじっと見つめていた。
『はい七緒』
いつもと同じ答え。でも、これが最後だ。
哲史はいつも、そこに七緒がいるのか確かめるように、しばらく何も言わない。そしてそういうときは、薬はやっていないことが多い。
『……この間はごめん』
『ああ、ひどかったな』
七緒のため息混じりの答えは、いつものことだ。薬を使ったことを、約束を破ってごめんと謝る哲史に、七緒はいつも怒る。そうやって怒る七緒に、哲史がほっとしているのがわかる。少し考えれば、わかったことだった。でも、そんな哲史の様子に、七緒は気づかない振りをしていたのだ。自分の、ために。
『もう、しない』
たぶん、辛いのは哲史も同じなのだ。この言葉を言うたびに、そして、それを裏切るたびに。
『何度目だろうな』
『え?』
『何度おまえはそう言って、何度俺はそれを信じただろうな』
『七、緒?』
哲史が、怯えたのがわかる。見捨てられるのを恐れた、哀れな子犬のように。そうじゃない、と言えたらいい。でも、もう言わないと決めたのだ。哲史の、ために。
『そしてそれを、おまえは何度裏切った?』
冷たい、七緒の声だった。
『七緒……?もう、しない。もう、しないから』
『この間、テーブルの上の紙見ただろ?その番号教えてやるから』
『やだよっ』
哲史は七緒の言葉を遮ってそう叫んだ。
『本当に、本当にもうやめるから。だからっ』
『哲史。俺にはもう、おまえを助けられない。もう、終わりにしよう。もう……うんざりなんだ』
七緒はそういうと、哲史が叫ぶのも無視して、電話を切った。それから大きく息を吐いて、天井を仰いだ。
それから、何度も掛かってくる哲史からの電話を、七緒はことごとく無視しつづけた。その上、途中からは電源を切って、再び入れることはなかった。
胸が痛まないわけがない。今でも、気になって仕方ないのだ。最後の叫び声が涙声で、泣かせたと思うと、辛い。
ひどく疲れて部屋に帰ると、玄関の前に蹲る人影を見つけて、七緒はぐっと唇をかみ締めた。予想してなかったわけではない。連れてくるときは薬で酔っていたとしても、朝は自分で帰っていったのだ。部屋を覚えていてもおかしくなかった。
哲史は足音に顔を上げた。やつれたような顔に、少し腫れた目が痛々しい。もうすっかり気温は低くなっていると言うのにシャツ一枚の哲史は、ひどく寒そうだった。
哲史は七緒を見ると何か言いかけて、口を閉じた。七緒がちらりと自分を見ただけで、すぐに目を逸らしたからだ。まるで知らない人を見るようなその顔に、哲史は今にも泣きたくなる。
がちゃがちゃと鍵を回してドアを開ける間も、七緒は哲史を無視していた。だから、ドアが開くと哲史は思わず立ち上がって、その腕を掴んだ。
「完全無視かよっ」
「言っただろ。もう終わりにしようって」
「だから、俺は薬をやめる。売りもやめる。今度こそ」
哲史の叫びは、七緒の大きなため息に遮られた。
「玄関口で騒ぐ内容じゃないな。入れよ」
迷惑だ、と明らかに示した七緒に、哲史は俯いて部屋に入った。だから、七緒の顔がひどく辛そうなことに、気づかなかった。
何も言わずに哲史が立っていると、七緒は薄手のコートを脱いでから、冷蔵庫に張ってあった紙を哲史に渡した。それで用は済んだとでも言うように、今度は冷蔵庫からビールの缶を取り出して、飲み始めた。
「いつまでも突っ立てないで帰れよ」
立ち尽くす哲史に、ソファーに座った七緒は冷たくそう言い放つ。哲史は胸の奥が抉れるようで、手を握り締めた。渡された紙が、くしゃりと音を立てる。その感触が、七緒に携帯の番号を貰ったときのことを思い出させて、哲史の顔を歪ませる。
七緒は先刻からずっと、哲史の顔を見ることさえしない。
「もう、信じてくれないんだな」
哲史の言葉に、七緒は何も答えない。硬い横顔が、今更どう信じろと言うのだ、と言っているようで、哲史はぎゅっと唇を噛んで俯いた。
甘えたのは自分だ。何度裏切っても、何度も怒ってくれた七緒に、甘えたのは、自分だ。七緒だけは、自分を見捨てない。そう、勝手に思って。
そうやって甘えつづけて、とうとう呆れられてしまった。とうとう、見捨てられてしまった。
「七緒」
呼びかけても、自分を見ない。その代わり、大きなため息をついて、吐き出すように言う。
ただ、傍にいたかった。
ただ、傍にいて欲しかった。
それなのに、七緒は言う。
「いいかげんにしろ。言っただろ。もう、うんざりなんだ」
がんがんと、頭が痛かった。それで哲史は、その七緒の声が震えていたことに、気がつかなかった。
ぱたりと音がして、ドアが閉まった。七緒はぐいっと残りのビールを流し込むと、その空き缶を思い切り、壁に叩きつけた。
「くそっ」
ソファーを掴む手が、震えている。ひどく冷たい部屋の中で、壁に叩きつけられた空き缶が、からからと床の上で音を立てていた。
home モドル 01 02 03 04 05 06 07 * 09