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ユーフォリア――euphoria――
09
哲史は数日後、一人で自助グループに行った。未成年で、ひどく薬に依存していた哲史の両親に、その自助グループから連絡が入った。哲史はそれを最後まで嫌がっている様子だったが、連絡するというスタッフに、良いとも悪いとも言わず、ただ唇をかみ締めて黙っていた。覚悟を、していたのかもしれない。
手が掛かったのは、哲史よりその両親だった。まず、哲史の今の状況を一切認めようとせず、やっとわかったと思ったら、親の顔に泥を塗りおって、と吐き捨てた。哲史がなぜ今のような薬に依存するような状況になったのか、その本当の原因を理解してもらうには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
それらのことを、七緒は自助グループを良く知っていると言う伏見に聞いた。どうやら定期的に、哲史の様子を見に行ってくれている様だった。
「あの子なら大丈夫よ」
そう、伏見は言う。七緒も、そう思う。
信じてくれないんだな、と哲史は言った。でも、本当は違う。信じているのだ。だから、突き放した。それを、哲史がわからなくてもいい。
自分を大切にしない子供は、親から当たり前の愛情をもらえていないことが多いと言う。自分が、自分らしくあること。そのありのままの自分を愛されない子供たちは、自分をどうでもいいもののように思う。
そういう子達は、自分が大きな力を持ち、今までの自分を変えてくれると言う薬に、惹かれやすいのだ、と伏見は悲しそうに言った。
哲史の両親が、自分たちの過ちを認めるまでには、長い時間がかかるだろう。でも、哲史には両親がいるのだ。そして、まだまだ長い時間がある。
その長い時間の中、傍にいられないことを、七緒は少し、さびしく思う。
「あら。彼が依存から抜け出したら、また出会えばいいのよ」
もちろん、あなたも成長しないとねえ、と伏見は笑った。
「これ以上大きくなってもなあ……」
言われていることをわかっていながら、七緒はちゃかした。でもそれは、伏見との会話の条件反射のようで、今回のことは伏見にも感謝していた。
もちろん、朝井や、自分のことを逐一報告していたらしい来生、何も言わずに見守ってくれていた刑事課の連中、そして、哲史にも。
もう一度、会えたらいい。
そうして、自分も、哲史も、もう一度最初から始められたら。
窓の外で、軒から落ちる雨のしずくが落ち葉にあたって、規則正しい音を立てていた。しっとりと降る雨は、哲史の心をひどく穏やかにしてくれる。
いや、ここしばらくずっと、気持ちが落ち着いている。少しずつ、いろいろな話をグループのスタッフにして、少しずつ、自分を見つめるようになった。
自分が役目と言っていたものが、本当は何なのか。
なぜ、薬に走ってしまったのか――
「見るたびにいい男になるわねえ」
ロビーに座っていた哲史はその声に、ゆっくりと立ち上がって、苦笑しつつ頭を下げた。初めて会ったときから――捕まったときから――伏見はこんな感じだった。
「どうも」
そう答えると、伏見は、おや、と言う風に眉を上げた。
ずいぶん穏やかな顔になった、と伏見は思う。虚ろだった目も、今ははにかむように笑っている。
「やあね。どこかの誰かさんに似てきたみたい」
伏見の呟きに、哲史が小さく笑う。でもその顔はひどく切なそうで、伏見を後悔させた。
七緒がどうしてあれほど冷たく突き放したのか、その本当の理由を誰も哲史には教えていない。
身も心もボロボロで連絡してきた哲史のことを、伏見は知っている。このグループには何人かの子供たちを送ってきていて、定期的に連絡をとっているのだ。
そんな風にしてしか哲史を突き放せなかった七緒を、不器用な男だ、と伏見は思うが、それと同時に、とても七緒らしいとも思う。
不器用で、優しすぎる、七緒らしいと。
「元気ですか、七緒」
思い出すだけで切なそうなのに、哲史は七緒のことを聞いてくる。そして、それを本当に嬉しそうに聞くのだ。
「そりゃもう、憎たらしいくらい」
だから、最初は伏見も、親代わりのような、兄代わりのような存在だった七緒を失って、哲史も辛いだろうと思っていた。でもここ最近になって、どうやらそれだけの存在ではないのかも知れない、と思うようになっていた。そのことを、哲史に確かめようとは思っていない。一度に抱えすぎると、気持ちの整理がつかなくなるだろう。
でもその哲史は、少しずつ自分を見つめていく中で、自分にとっての七緒が何なのか、考えていた。
七緒に突き放されて、どうしてあれほどショックだったのか。
なぜ、そのぬくもりを求めるのか。
それを、知りたかった。たとえもう、遅くとも。だから、七緒のことを聞きたかった。それがひどく、とても深い切なさを誘うとしても。
雨はしっとりと、降り続いている。それが少しだけ、七緒のことを考えると漣立つ哲史の心を、静めてくれる。
「どうして」
「え?」
「どうして、七緒は俺のことなんかを相手にしてたんだろう」
それは独り言に近い呟きで、伏見は答えるべきなのか迷った。答えたとしても、誤魔化すしかないと思っていた。でも、そう言ってふと自分を見た哲史は、とても真摯で、澄んだ瞳をしていた。それに、嘘をつくことを戸惑った伏見は、一瞬言葉に詰まった。それを、哲史は見逃さなかった。
「大丈夫です。今なら多分、俺は傷つかない……いや、傷ついても、立ち直れます」
そう笑った哲史を、やっぱりこの子は強い子なんだわ、と伏見は感心したように見た。一人でここに来た、強さ。人は弱いのはあたりまえで、それに流されても、立ち直る強さがあればきっと大丈夫。そう、思う。
伏見は、これが全てではないけれど、と前置きしてから、七緒の弟の話をした。あの、忌まわしい信仰の末の、集団自殺の話を。
哲史もその事件はよく覚えていた。自分と年の近い高校生の事件で、当時、学校でも世間でも、その話題で持ちきりだったのだ。
「あの……中に?」
「そう、七緒の弟がいたの」
伏見はそこまで話すと、ゆっくりと立ち上がって、窓辺に近寄った。秋の景色が、雨に濡れている。
「あの信仰、死だけを望んだ、あの信仰を、私も七緒も理解できなかった。――あなたには、わかるのかしら」
伏見のその問いに、哲史は答えなかった。でも、彼らの気持ちが少しだけ、わかる気がした。たぶん、あまりかわらないのだ。自分など、どうでもいいと思っていた哲史と。そして、そんな自分から、逃げたかった哲史と。
「七緒はずっと、その答えを探していた。なぜ、弟は死んだのか。なぜ、自分は止められなかったか。なぜ――」
放っておいたのか。まるで逃げるように、あの家から遠ざかった自分。遠ざかりたかったのは、弟も同じはずなのに。親戚と言えども、他人の家は他人の家だ。そこで息苦しく感じていたのは、自分だけのはずがないのに――
「七緒はずっとずっと、その答えを探していた。自分を責めつづけていた。何も言わなくとも、ね。そこに、あなたが現れた」
最後まで言わなかったのは、伏見の優しさだ。伏見が振り返ると、哲史は、ただ、どこかを見つめていた。
ふいに、知る。
きりきりと痛む胸を抱えて、哲史は知る。
自分は、七緒を好きなのだ。
七緒の、特別になりたかった。
誰かの、代わりではなく。
大きな手。哲史をよぶときの、「てっし」と聞こえる七緒の声。煙草を吸うとき、細める目。何もかもを、好きなのだ。
ようやく、気づいた。
失恋を先にしてしまった、この恋に。
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