半夏生
07
朝から降り出した雨は、夜になっても降り続いた。本格的な梅雨が始まって、鴇田も傘を持ちたくないなどと言えない季節になった。
問題は、鴇田はすぐに傘の存在を忘れてしまうことだ。暗い空を見ながら、鴇田はフロアに忘れてきた傘を取りに戻るべきかどうか、考えていた。
「どうしたんですか」
いつもの、あまり抑揚のない、だがはっきりとした声がした。鴇田が振り返ると、夏目がじっとこちらを見ていた。その視線が手元を見て、再び鴇田の顔に戻る。
「傘、ないんですか?朝はどうしたんですか」
「差してきた。でも、フロアに忘れてきた」
夏目が、仕方がない人だ、とでも言うような目をして微かに笑った。
「一緒に入って行きますか?」
「冗談だろう」
鴇田は首を振って、フロアに戻ることにした。こうしていても、雨は止まない。
「美味しいラーメン屋を見つけたんです。食べに行きませんか」
その背中を、夏目の声が追った。鴇田は手を挙げて、了解の印を示した。
あれから、鴇田と夏目の関係は変わっていない。直属でもないくせに、一緒に食事をして飲みに行く、上司と部下。鴇田には、夏目が何をしたいのか、少しもわからなかった。
――あなたが、いたから。
だからこの会社に来たのだと、夏目はいった。その意味は、わかったと鴇田は思う。父親を自殺に追いやった会社と、その元担当者。恨みがあってもおかしくはない。
だがだからこそ、夏目の行動はわからなかった。他の誘いは断るのに、鴇田を誘って食事をする。それも、夏目は鴇田を待っている節がある。最初は考えもしなかったが、いろいろとわかった上で考えれば、すぐに思いついた。毎日同じ時間に帰るわけではない鴇田と夏目が、こうも偶然に一緒の時間になるはずがない。
ぽつりと置かれた傘立ての中のビニール傘を持って、鴇田は再びエレベータに乗った。
わからなくてもいい。夏目が、望むままのことをすればいい。
鴇田はそう決めていた。
ばしゃばしゃと顔を洗うと、捲り上げきれなかったシャツの手首の裾が濡れた。タオルを取ってごしごしと顔を拭くと、手首からつうっと水が伝った。
顔色が悪い。
鈍感な自分が思うほどだから、他人などすぐにわかるだろう。実際、歯を磨いているところに来た寺井は、鴇田の顔を見るとすぐに顔をしかめた。
「また帰らなかったのか」
鴇田は答えずに、口をすすいだ。息が酒くさい気がした。昨日は眠れずに、かなりの深酒をした。
寺井が大げさなほどのため息を吐いた。
「サハラからは、終電前に帰ってるみたいだが」
鴇田は寺井を見つめた。その視線に、寺井は気まずそうに目を逸らした。
「そんなことをしてるから、他の客から揶揄されるんだ」
「なんだ?」
「おまえと百合絵ママ。怪しいって言われてた」
一時期、鴇田も疑ったほどだ。それについて、思うところは何もなかったのだが。
「馬鹿なこと……」
「そうか?端から見たら十分怪しい。奥さん泣かさないように気をつけろよ」
気分が悪い。胸の底がざらざらしていた。
「おまえ、本気でそんなこと思ってるのか」
「客観的な意見だ」
鴇田はネクタイを首にかけた。目を閉じても結べるほど、鴇田はずっと、自分でネクタイを締めてきた。
「百合絵ママの気持ちはどうなる」
「どんな気持ちだ」
寺井がはっと息を飲んだ。
「まさか焚き付けてるとか言わないでくれよ。俺にその気はない」
「焚き付けたりなんかしていない。最初に紹介したときは、少し考えないでもなかったがな」
鴇田はネクタイを結び終えると、髪に指を通して整えた。それをじっと見ながら、寺井は続けた。
「結婚とかじゃなくても良いと思った。とにかく、おまえは一人でいるべきじゃないと思った。百合絵ママなら、もしかしたらと思った」
鴇田は鏡の中から、どうして、と問いかけた。
「……似ていると思ったんだ」
誰と、と鴇田は聞かなかった。聞かなくても、わかっていた。鴇田はタオルと歯ブラシを持って、ドアに向かった。
「鴇田」
「少し考えろ。それから二度というな。百合絵ママに失礼だろう」
寺井は途方にくれたように、立っていた。
「飲みすぎじゃないですか」
鴇田の食事の量にも、酒の量にも、夏目は滅多に口を出さない。それが鴇田にとって、楽なことでもあった。だが、その夏目も眉を顰めるほど、今日の鴇田は酒ばかり飲んでいる。居酒屋でビールを二杯、酒を二杯。サハラに移動してからも、もう五杯目の水割りを飲んでいた。鴇田を良く知るバーテンも、困ったような顔をしている。
「うるせえよ。小姑は一人で充分だ」
ごくごくとグラスを煽って、おかわり、とそれを差し出す。呂律が怪しいわけでもなければ、顔もしっかりしている。だが、目が、緩やかに濁っていた。
「鴇田課長」
責めるでもない、声。だが、鴇田は苦虫を潰したような気分になった。今朝寺井と話をしてから、ずっと胸のざらざらした感触は消えなかった。課員は今日、ほとんど鴇田に近づいてこなかった。あの、田上も。
そう言う自分に、苛々する。
「帰りましょう」
夏目が立ち上がった。鴇田は首を振って、帰りたきゃ一人で帰れ、といった。
「帰りましょう」
もう一度、夏目がいった。百合絵も、バーテンダーも、じっと二人を見ていた。鴇田は急に居心地が悪くなって、立ち上がった。がたんっと音がして、椅子がひっくり返った。夏目はそれを何でもないように直し、会計をした。鴇田はふらふらと、扉を出て行った。
「鴇田課長」
呼び止める声がする。だが、鴇田は止まる気はなかった。
いつだって、止まる気はなかった。ただ前を見て、歩いた。過去を引き摺っていると端で喚かれても、進んでるじゃねえか、と思っていた。それが、生きていくと言うことだと思っていた。
ぐいっと腕を捕まれて、鴇田は傍らを見上げた。夏目の静かな目があった。
「酔ってますね」
「いつもな」
小さなため息が聞こえた。鴇田は腕を振り上げて、掴まれた手を外した。
「帰りたいんだろう。帰れ」
「真っ直ぐに歩けない人が、何を」
「真っ直ぐになんか、歩いたことはない」
夏目の声を遮って、鴇田は吐き出すようにいった。もう閉まった、レストランの壁に身体を預けた。
「真っ直ぐになんか、歩いてこなかった」
もう一度、鴇田が絞りだすように言うと、夏目がじっと見つめてきた。いつも静かな、責めるわけではない目。黒々としたその目が、鴇田を真っ直ぐに見る。それは、少年の頃のそれと変わっていないような気がした。実際は、その顔をそれほど良く覚えているわけではない。
いっそ、責めてくれたらいい。
「帰りましょう」
腕を捕まれる。鴇田は肩を揺らして、それを拒絶した。
「放っておけ」
鴇田課長、と珍しく困惑を滲ませた夏目の声がした。鴇田はのろりと顔を上げた。
「夏目、おまえは何がしたい?」
時おり通り過ぎる車が、夏目の背の高い影を照らした。鴇田は眩しさに目を細めた。
影が、重なった。
「夏……」
何を、と呟いた声が掠れた。
「あんたが聞いたから。何がしたいのか」
すぐ目の前の夏目は苦しそうにそれだけ言って、ふいっと身体を起こした。鴇田は自分の両隣から離れていく腕を、ぼんやりと見た。
夏目が、タクシーを捕まえているのが見えた。鴇田はそれに、されるがままに押し込まれた。夏目が行き先を告げ、運転手にお札を渡した。
おやすみなさい。呟かれた声にも、鴇田は顔を上げなかった。
梅雨はまだ明けない。ビルの窓を激しく叩く雨を、鴇田はぼんやりと眺めた。煙草を深く吸い込んだら、頬の傷が疼いた。
大した傷ではない。血がたらりと流れたが、跡も残らないだろう。いや、この年だからそんなことは問題ではない。
ため息に乗せて、煙を吐き出した。震えて青くなった市河の顔が思い出された。
市河の移動が承認されたのは、今朝のことだった。昼休みが終わってから、人のいない会議室に呼び出して、そのことを告げた。営業と聞いて市河の顔は一瞬輝いたが、三課と聞いて、かっと顔を赤くした。営業三課は一番規模が小さく、使えない人間が集まっている――事実と関係なく、会社内ではそう言われているところだった。
「三課だって言われているほどのんびりしたところじゃない。逆に考えれば自分の実力を見せる絶好の機会に」
「……ってるんでしょう」
市河が唸って、鴇田は口を閉じた。
「いい気味だって、思ってるんでしょう」
「市河……」
ため息が出た。市河は購買に向いていない。それだけの話だった。
「おまえは営業の方が向いている。それだけのことだ」
「それで三課ですか?キャリアになりもしない、購買から飛ばされるのがそこですか」
市河はプライドが高い。そう言えば、世間では一流と言われている大学を出ていたな、と鴇田は思った。
「課長はずっと俺を目の敵にしてた。いなくなって、清々するでしょう。いいですよ。すぐにでも、いなくなります」
「正式の移動は一週間後だ。引継ぎがあるだろう」
市河はぎっと鴇田を睨んだ。それから、ばたんっと音を立てて会議室を出ていった。鴇田はやれやれとその後を追ったが、事態は思ったより緊迫していた。フロアに戻ると、市河が荷物をまとめて出て行くところだった。
「何やってるんだ」
「出て行けって言ったのは課長でしょう」
「言っていない。移動は一週間後だと言った」
他の課員が、何事かと見ている。
出て行こうとする市河の腕を、鴇田が掴んだ。だが、市河はそれを思い切り、振り払った。怒りに任せたそれは大振りになり、市河が手にしていたプラスチックファイルが、鴇田の顔を掠った。
女子社員の悲鳴が上がった。倒れそうになったのを机で支えて、鴇田が手の甲で頬を拭うと、濡れた感触がした。鴇田はちっと舌打ちをした。面倒なことになった。正直、そう思った。
「鴇田課長、血が……」
田上が青い顔をして駆け寄ってきた。鴇田は手をひらひらと振った。
「ああ、大丈夫だ。ただのかすり傷だ」
「でも」
石村が市河に近寄ろうとしたのを、手で止める。鴇田は掌で頬を押さえて、騒ぐな、といった。
「事故だ事故。ほら、仕事に戻れ」
田上も石村も、何とも言えないような顔をしていた。鴇田はそれに笑いかけて、手を振る。それから、真っ青になった市河の肩を叩いた。
びくり、と身体が揺れた。鴇田はそれを無視して、ぽんぽんっともう一度、その肩を叩いた。
「課長、俺……」
市河の手は震えていた。
「これぐらいでびびってんな。ほら、まず落ち着いて、荷物置け」
市河は大人しく鴇田の指示に従った。それからもう一度、会議室に市河を連れて行った。フロアを出る前に、田上が駆け寄ってきて、濡れたタオルと絆創膏を渡してくれた。本当に、よく気のつく娘だ。
会議室で、市河はずっと項垂れていた。これほど気が弱いとは思っていなくて、鴇田は半ば呆れていた。殴ったわけでもなければ、あれは事故だ。
「すみません」
市河は青い顔をしたままだった。鴇田はタオルで頬と手を拭って、適当に絆創膏を貼ってから、コーヒーを買ってきて、市河の前に置いた。
「おまえらの世代はさ、ガキの頃に喧嘩なんてしなかったのか」
のろりと、市河が顔を上げた。鴇田は窓際に寄って、暗い空を見上げた。
「俺がガキの頃なんて、これくらいのかすり傷は毎日のことで、別に気にもせず遊んだぜ?喧嘩なんかになったら、ぼろぼろ」
鴇田は甘いコーヒーを啜った。
「情けねえ面しやがって」
鴇田が笑うと、市河がじっと見つめてきた。怒りか面倒か、それ以外の市河の目を見たのは初めてかもしれないと思った。
「おまえは仕事はできる。だが、購買には向いていないと俺は思う。おまえは営業向きだよ。三課から二課や一課に行くことだってできるんだ」
雨が窓を叩いている。通りを歩く人々の、色とりどりの傘が見えた。
「だけどおまえ、その短気を治さないと営業やってけねえぞ」
市河の膝の上の手がぐっと握られた。それから、ゆっくりと頭が垂れた。
あの後市河は、ずっと引継ぎ資料を作っていた。悄然と落ちた肩は、なかなか元に戻らなかった。
鴇田は再び煙草に火をつけた。今日は吸いすぎているとわかっていたが、止めるつもりはなかった。
深く深く、煙を吸い込む。窓の外の雨は、いまだ降りつづけている。