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青空でさえ知っている

07

「良かった! 理先輩、ここにいらしたんですね」
 がらがらと、静寂を突き破るような音がした。安里は、はっと我に返るような気分で、開いたドアを見つめた。幸福なひと時は、しゃぼん玉がはじけるように、唐突に消えてしまうものだ。
 入り口に立って興奮気味に話しているのは、同じ飾り班の一年生委員だった。
「あの、終わった飾りの箱は、食堂に置くんですよね? 俺たち、終わったんですけど、食堂に持って行ったら鍵が開いてなくて」
 日尾が「ああ、悪い。忘れてた」と言って立ち上がった。拝むように手を合わせている。一年生は、それに「全然大丈夫ですっ」と笑った。
 安里はなんとなく、その姿を目で追った。しばらく帰ってこないかもしれないな、と思った。誰からも頼られる日尾は、歩いていればすぐ呼び止められる。
 ふいに日尾が何か思い出したように振り向いて、坐っている安里に近づいた。見上げると、その耳に顔を寄せてくる。肩に、手が置かれた。
「ごめん、ちょっと行ってくる。さっきの悪戯、他の奴らには内緒な」
 楽しそうな声色で、そう囁かれる。背中から首筋にかけて、ざわりと微かに鳥肌が立った気がした。安里は吹き込まれた耳を熱くしながら頷く。知らず、頬が緩んでしまう。
 ふと顔を上げると、入り口に立つ生徒と目が合った。いや、正確には、向こうが安里を睨んでいた。思わず、緩んだ頬を引き締める。その目は悪意に満ち溢れていて、安里は戸惑った。だが、すぐに原因に思い当たる。日尾だ。
 その一年生は、日尾を崇拝している一人だ。今も日尾が近づくと、表情を一変させた。剣呑な眼差しはなりを潜め、嬉しさ全開の笑顔になった。頬を紅潮させ、目を輝かせているその姿に、安里はどこか切ない気分になる。純粋に、まっすぐにその憧れを表せることが、羨ましくもあった。


 校舎の中は、薄暗かった。電気をつけているのは食堂だけで、その下からの明かりと、月の光だけを頼りに、安里は廊下を歩いていた。少々不気味ではあるが、外の喧騒が聞こえるから、怖くはない。そもそもこの短冊は、誰にも見つからないように笹につけなくてはならない。
 安里が今手にしている短冊は、二枚目の短冊だ。一枚目は、もう笹につけた。学級委員がつけたかどうかを確認する念の入れようで、短冊は生徒たちの義務だった。願いを見せなければならないわけではないが、「確かに書いた」という証拠は見せなければならない。自然、願い事は当り障りのないものになる。
 そこで、二枚目の短冊が密やかに配られるようになった。希望者のみの配布だが、いつしか「誰にも見られずに二枚目の短冊をつけられたら、その願いは叶う」と言われるようになり、毎年一定量の需要がある。特に、恋愛に関する願い事に効果がある、と言われている。何しろ、七夕なのだ。
 安里は路に、ごく自然に二枚の短冊を渡された。一枚で良いと断ろうとして、ふと書いてみる気になったのは、ひっそりと笹に近付ける場所を思い出したからだった。飾り班の安里は、前日に飾りつけも行っている。寄付された笹は二本あり、食堂のテラスに一本、その反対側の事務室前に一本、立てられている。三階にまで達しそうな勢いの、立派な笹だ。
 事務室の上は科学室で、生徒たちはそこからも短冊を下げているはずだ。だが、その隣の化学室からも、実は笹に手が届くことを、安里は知っていた。と言っても、化学室のベランダにある箒を使わなければならないが。
 安里は前日に、日尾と一緒に飾り付けをした。先に飾りをつけてから笹を立てたのだが、飾りのバランスが悪い、と日尾が納得せず、届くところは手直しをした。そのとき、化学室側の飾りにも手をつけた。
 安里は辺りを見回してから、そっと化学室に入った。七夕祭りも終盤で、もう短冊をつけに来る生徒はほとんどいない。それでも用心を重ねて、静かにドアを閉めた。
 ベランダに出ると、綺麗な月が見えた。食堂の明かりをつけていると言っても、星が見えるようにと極力抑えている。
 箒で笹を上手く手元に寄せると、そこには既に、赤い短冊が一枚、ひらりと下がっていた。少し右肩上がりの、力強い字には、見覚えがあった。
 ――傍にいられますように。
 書かれた文言に、安里は目を見張った。
 どうしよう。ここに、この短冊を、吊り下げるべきか。
 安里が持っているのは、黄色い短冊だった。だがそこには、先客の赤い短冊と、同じ言葉が書いてある。
 一枚目の短冊に、『もっと運動ができるようになりますように』と、ごく当り障りのない、幼稚な願いを書いたあと、安里は二枚目の短冊を前に、しばらく考えた。願い事は、日尾とのこと。それだけは決めていた。だが、自分が一体、日尾とどうなりたいのか、わからなかった。
 いっそうのこと、後輩だったら良かった、と安里は思った。そうしたら、この間の子のように、全身で憧れていると訴えるのに。そしてそのまま、「この気持ちは憧れだ」と、自分を誤魔化しつづけたのに。
 そう思って、安里は自嘲した。この性格が直らない限り、全身で訴えるなんてことはできないだろう。そして、この気持ちが、誤魔化されるわけがない。今だって、これほどはっきりしている。
 ――俺、日尾のこと、好きなんだ。
 すごく、好きなのだ。憧れと言う言葉では括れないほど、好きなのだ。
 安里はまだ何も書かれていなかった黄色い短冊の前で、どこか絶望に似た気持ちで目を閉じたのだった。
 日尾と自分では、あまりに違う。今だって、隣で一緒に作業をして、笑いあっていることが不思議なときがあるのだ。日尾が実行委員に推してくれなかったら、今ごろ挨拶を交わすのがやっとだっただろう。日尾には、例えば路のような人間が似合う。明るく、積極的で、一緒になって無茶をしたり遊ぶ人。たぶん、あの一年も同じタイプだ。
 日尾の隣に立つ自分が、想像できなかった。だから、安里はただ切実に、願った。
 ――傍にいられますように。
 恋人ではなくとも、友人ですらなくても、同じ景色を見たかった。その、傍らで。
 結局、しばらく悩んだ末に、安里は自分の短冊を、日尾の短冊の隣に括りつけた。日尾が願っている相手が誰なのかはわからない。だが、彼の願いが叶ったら、自分の願いは叶わないかもしれない。――誰かが彼の傍にいることに、自分自身が、耐えられないかも知れない。だからせめて、短冊だけでも傍に吊るしたいと願っても、許されるだろう。
 安里がゆっくり手を離すと、笹はさわりと揺れて、元の位置に戻った。赤と黄の短冊が、同じように、ゆらゆらと揺れた。


 七夕の笹は一週間ほど飾られる。その後は、校庭で焼き払われることになっている。実行委員の七夕における仕事は、それまで終わらない。
「雨、降っちゃったなあ。笹が重くなってないといいんだけど」
 安里は二葉とバケツに水を用意していた。雨が降ったのは昨日と一昨日のことだ。今日は晴れている。
「燃えるかな?」
「少し薪も入れる予定だってさ。とりあえず、今日中にやんないと。梅雨の晴れ間で、明日からまた雨だって言うから」
 二葉が暮れかけた空を見上げる。つられて空を見ると、綺麗なオレンジ色が、遠くに見えた。
 校舎前の水のみ場から、陸上のトラック中央まで、バケツを運ぶ。そこでは、薪を円形に組み上げていた。
「おーい、安里、大丈夫か? 無理に二つ持たなくていいから」
 二葉が、両手にバケツを持ってふらふらしている安里を見て苦笑している。
「いけると思ったんだけどな。やっぱり鍛えないと駄目かなあ」
「えー? いいじゃん、そのままで。まあ、安里はもうちょっと筋肉付いた方がいいかもしれないけど。路みたいなのは勘弁」
「え、綺麗だよ、路の筋肉」
 限界が来て、バケツを一つ置く。二葉が薪を組んでいる一年の一人を呼んでくれた。
「それはなんか、やらしいな」
 どこがー、と安里が抗議の上げる。「純粋に言ったのに」と頬を膨らませると、くくっと笑われる。
 二葉とは、菖蒲の葉を一緒に洗ってから、仲が良くなった。元来彼は人当りが良い。安里のことも、すぐに名前で呼ぶようになったし、スキンシップも激しい。その二葉と路につられてか、綿内ともずい分仲良くなった。彼とは、映画とその原作の話で盛り上がることもしばしばだ。
 二年J組の実行委員の中で、いまだに安里が軽口を叩いたりできないのは、日尾だった。ここのところ、日尾もあまり話し掛けたりしてこない。
 避けられてる――。
 そう考えるのは嫌だったが、たぶんそうなのだと思う。原因などわからなかったけれど、日尾はどことなく自分を持て余している。
 バケツを薪から少し離れたところに置く。二葉が何人か一年を呼んでいたが、後一回は往復しないと駄目だろう。既に痛くなってしまった掌を何度か握りながら、安里は水道に向かった。
 目の前に、日尾が歩いていた。隣にはこの間の一年生がいて、笑っている。何かふざけたことを言ったのか、日尾が長い腕を一年生委員の首に巻きつけた。
「痛い、痛いよ、理先輩!」
「笙、おめーは少し、先輩を敬うってことを知れ」
 敬ってますって、と笑う笙の声が響いた。
 小野寺くん、笙って名前なんだ――。
 安里は知らず立ち止まって、その二人の後姿を見ていた。ふざけながら、二人はどんどん遠ざかっていった。
「安里?」
 ふいに呼ばれて、振り返る。二葉が「どうした?」とでもいうように、首を傾げていた。
「あ、ごめん。まだバケツあったよね」
 安里は慌てて笑いながら、水道へと足を向けた。その笑みがぎこちないことには、気付かなかった。
 ――中ノ瀬。
 日尾の声が頭の中で蘇る。僅かに触れた、肩の上の、頭の上の、掌の感触を思い出す。
 日尾の声が好きだ。その声が、自分の名を呼んでくれる。それだけで、幸せだ。あの掌の、大きさを知っている。温かさを――知っている。それだけで――。  とても、幸福なことだ。
 それ以上、望むべきではないのだ。


 安里は最後のバケツを運んでいた。組まれた薪の周りに四ヶ所、バケツを五つずつ置いておく。火を点ける前には、水道からホースも伸ばしておくことになっている。いくつか消火器も用意してあるはずだ。
 まるでキャンプファイヤーだ。掌に食い込むバケツの取っ手に顔を顰めながら、安里は水を零さないように、慎重に歩いた。遠く、校舎前から大きな声が聞こえてくる。そろそろ笹が運ばれてくるようだ。
 安里が行程のちょうど真ん中辺りまで来たとき、悲鳴が聞こえた。思わず、校舎を振り返る。だが、校庭より少し高い位置に建てられいる上に、木々に阻まれて、何も見えない。
 校庭にいた実行委員たちが、校舎に向かって走っていった。どうした、と叫んだ声に、笹が倒れた、と答えが返ってきた。
 安里は目を見開いた。心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛かった。嫌な予感がする。
 ばたばたと走っている生徒の中に二葉を見つけて、安里は慌てて呼び止めた。バケツを持っていることも忘れて、反対の手でその腕を掴むと、水が零れた。
「二葉、何が……」
「笹が倒れたらしい。下敷きになった奴がいるって」
 はっとして二葉を見る。二葉は、安里と目を合わせなかった。
「理かもしれない」
 するりと安里の手の力が抜けた。バケツが転がり、水が勢いよく撒かれた。すっかり乾いた地面に、吸い込まれていく。そのときには、安里は既に、駆け出していた。


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