春の夜を疾走し 07
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春の夜を疾走し

07
 天文部は、OBからの寄付金のお蔭で部の体裁を保ってる、人数的には弱小の部類に入る部活動だ。ただし、道具類は整っているために、熱心な生徒が多い。それに基本的には、大きな動きがない限り、天文部は個々で活動していることが多かった。それが、梅野にはちょうど良かった。
 梅野は小さい頃から星を見るのが好きだった。いつかは新星を発見して、名前を付けられたらいいと密かな野望も持っている。そういう話を楽しく出来たのは、智とだけだった。
 部室に入ると、既に古柴がいた。窓際に坐って、煙草を吸っている。三日の謹慎が解けたばかりだろうに、校内で禁煙とは度胸がある。梅野は一瞬呆れるような思いを抱いた。だが、振り返った目が、梅野を見たとたんに剣呑な光を宿したことで、失敗した、と悟った。すぐに踵を返して廊下を早足で歩く。だが、古柴はその梅野を追いかけてきた。
「すげえ腹立ってんだけど。やらせろよ」
 古柴は低い声で凄みながら、梅野の腕を掴んで引っ張った。梅野は思わずその手を振り払う。だが、古柴は今度は両腕を掴んで、どんっと壁に押さえつけた。
「何言ってんだよっ。離せ……っ」
「俺と高居の喧嘩、聞いただろ? 誰の所為だと思ってるんだ?」
 梅野は古柴から目を逸らした。高居は大したことはないと淡々と事実だけ言ったが、つまりは梅野が原因であるには間違いない。
「そもそも、俺とあいつが同室ってのがおかしいんだよ。散々邪魔した後、これだ。くじ運が悪いって高居は言ってたけど、怪しいもんだ。噂と違って、あいつも随分世話焼きだよな。それとも、おまえが誑し込んだか」
 掴まれた腕が痛い。古柴は加減を忘れたように、力いっぱい腕を握っていた。
「馬鹿なこと、言うなよ。古柴、離せ」
「もう随分やってないし、そろそろ疼く頃じゃないか? それとも、高居にやってもらってたか……」
 耳元で囁く古柴の声には、悪意が満ちていた。梅野はきっとその歪んだ顔を睨んだ。
「高居はそう言う奴じゃない。大体、おまえここのところずっとおかしいだろ」
 誰かの話し声が聞こえてきた。この辺りは、文化部の部室が多い。それに気を取られた古柴の腕が緩んだ隙に、梅野はその手から逃げ出した。
 四階分の階段を一気に走り下り、下駄箱で一息をつく。体育以外に運動などしない梅野は、しばらく荒い息を繰り返していた。
 古柴の歪んだ顔や、悪意に満ちた声が蘇る。最初は、あんな顔はしなかった。少し怒ったような表情をすることはあったが、もっと無表情で、淡々としていた。
 どうして、と並ぶ下駄箱に寄りかかりながら梅野は思った。どうして、古柴はあんな顔をするようになってしまったのだろう。
 もう、逃げてはいけないのかもしれない。
 ただ傷つけ合うだけのこの関係を、止めるべきなのだ。


 梅野は部屋に帰って携帯電話を掴んだ。幸い、重藤はいないようだった。
 古柴との関係を終わらせる前に、智との関係をはっきりさせて置く必要があった。そして、言わなければならない。あなたの弟と、寝ました、と。
 携帯には、メールが一通届いていた。古柴からだ。部屋に来るように、簡潔に書いてあった。
 梅野はそのメールを無視して、アドレス帳の一番上に登録されている智の番号に電話を掛けた。もう、ずいぶん久しぶりのことだった。
 出てくれないかもしれない――そう思ったところで、呼び出し音が途切れた。「梅野?」と懐かしい声が自分を呼んだ。
「先輩――俺」
 挨拶もないまま、梅野はそう言って絶句した。寮に戻ってくる道で色々考えたのに、一言も出てこなかった。
「久しぶりだな。ああ、進級おめでとう」
 三年だなー、と言われて、出会ったときのこの人と同じ学年になったのだ、とふと気付いた。とても大人だと思っていた、三年生。
「ありがとうございます。先輩、俺」
 智は声を詰まらせた梅野の言葉を待ってくれた。出会ったときから、そうだった。決して、急かさない。
「今更かもしれないけど、あの、別れましょう」
 変な言葉だ、と思った。これを言うべきなのは、本当は智なのではないか。そう思った。でも同時に、自分の中で智のことは、完全に吹っ切れたのだと思った。もう、智の言葉は待たない。智の電話もメールも、待たない。
「梅野――」
「先輩が、もう俺のこと好きじゃないとか、わかってます。でも、ちゃんとしておきたかったんです。別れるなら、ちゃんと別れたかった」
 智はしばらく沈黙した。それから、小さな吐息が受話器越しに聞こえた。
「そうか。悪かったな」
 その一言で、梅野はなんとなく、智が考えていたことがわかった。智もわかっていたのだ。梅野が、恋人である智だけではなく、先輩であり、友人である彼も、失いたくなかったことを。一度に何もかも失うことを、怖れていたことを。
「先輩――」
「梅野、最後まで俺を名前で呼んでくれなかったな」
 ふいに苦笑が聞こえて、梅野は口を閉じた。
「名前呼んでも、『先輩』って絶対後につけるし。梅野の中で、恋人である俺の割合は、ちっとも増えなかったな」
「恋人である割合……?」
「淋しそうで、でもすっと独りで立っていて。そういう梅野を真綿で包むように抱いてやれたらって思った。だから精一杯優しくして、だんだん懐くお前が可愛くて――。でも、失敗したと気付いたのは卒業したときだった」
 梅野はベッドに坐ったまま、智の話を聞いていた。
「我侭言わないのも、嫉妬しないのも最初からだったけど、コンパの話を聞いても、電話に出なかったり、メールを返信しなくても、梅野は何も言ってこなかった。俺の勝手な言い分だけど、なんか心の広い友達みたいだなって思った。実際、会ってるのに抱き合わなくても、梅野はどうでも良かったみたいだし。お前にとって、俺との最適の距離は、友人何じゃないか――そう、思った」
 違う、と言いたかった。でも、自分の行動はそう取られても仕方がなかったと梅野は今になって気付いた。
 色々遠慮して、我慢して――馬鹿だったと言うことだ。
「俺が付き合おうって言わなかったら、俺たち、付き合っていなかっただろうなって思ったんだ。たぶん、仲の良い先輩後輩で、卒業してからも仲の良い友人で――そうやっていたんじゃないか。そう思った」
 梅野は反論できない自分に気付いた。付き合ったのは、あくまでも関係の延長上のことだった。今はわかる。高居を思う気持ちを考えれば、好きだということは、もっと自分勝手で制御の利かないものなのだ。
 智のことも好きだった。でも、恋と呼ぶには、穏やか過ぎる気持ちだったのかもしれない。
「もう、友人にもなれませんか」
 梅野問いに、智は苦笑をしたようだった。それから、もちろんなれるに決まってる、と言った。
 智は優しい。それが何より好きだった。だが、友人になるにしても、梅野は智に言っておかなければならないことがあった。優しいからこそ、後に彼が自分自身を責めないためにも。


「先輩、一つだけ、聞いて欲しいことがあるんです」
 携帯を握る手が、じんわりと湿った。どうしたら上手く言えるのか――わからなかった。智は軽く「ん?」と優しい声を返した。
 梅野は目を閉じて、一度深呼吸をした。それから顔を上げて、声が震えないように気を付けて口を開いた。
「色々あって、俺、先輩の弟と寝ました」
 電話の向こうが沈黙した。周りの空気も、一気に冷えたような気がした。
「誤解、しないで欲しいんです。俺も同意でしたことだから」
「どう言う意味だ? 付き合っているのか?」
 そうだと言えたら、一番良かったのではないかと梅野は思う。傷つけることには変わりないが、一番、小さな傷で済んだのではないか、と。
「違います。でも、もうそれもないと思います」
「違うって……一体どういうことだ? 梅野?」
 古柴兄弟がどう言った関係を築いているのか、梅野は知らない。だからただ、事実を告げることしか出来なかった。ただし、智の代わりだったということと、古柴のやりすぎと思える行動については、言うつもりはなかった。
「先輩には関係ないことなんです。それだけ、わかって欲しくて」
 今の古柴の様子では、何をするかわからない。何度か拒否したときなどに、画像を送るなどと言っていたが、本当にやりかねなかった。
「関係ないって、納得すると思うか?」
「でも、本当です。古柴がたまたま先輩の弟だった。それだけなんです」
 なるべく穏やかに、でもはっきりとそう言うと、智も何も言えないようだった。しばらくの逡巡の後、わかった、とため息混じりの声がした。
「でも、もし慧のことで困ったことがあったら、必ず連絡しろ」
 いいな、と命令口調で言われて、梅野は懐かしいな、と思った。「わかりました」と答えた声で微笑んだ気配が伝わったのか、なんだ? と智が尋ねてきた。
「いえ。やっぱり先輩だなって思って」
 笑いを含んだ声に、智も安心したようだった。柔らかい口調で、「梅野の先輩で友人なのは、変わらないから」と言った。
「ありがとうございます。先輩、俺、先輩に会えて、良かった」
 耐え切れなくなったように、声が震えた。智はそれには気付かない振りをして、俺もだよ、と明るく返事をしてくれた。
 馬鹿だったな。梅野はそう思った。全部を失うなんて、どうしてそんなことを思っていたのだろう。
 それじゃあまた。
 そう言って電話を切った後、梅野は初めて、淋しさを感じなかった。


 梅野はそのまま、古柴の部屋に向かった。部屋に来い、と何度かメールが入っていたから、帰っているのだろう。
 ドアを叩くと、出てきたのは高居だった。そう言えば謹慎中だった、と梅野は思い出して、一瞬、古柴と話し合うことを迷った。
「梅野? どうしたんだ?」
 高居が目を眇める。古柴に自分の部屋に来て貰うか――そう思ったところで、本人が高居の後ろから顔を出して、入って来いと酷く不遜な声色で言った。
 梅野は高居に大丈夫だと微笑んで、中に入った。高居は古柴と自分の関係を知っているのだ。今更話を聞かれたところで大したことはない。梅野はそう言い聞かせた。
 智に電話をした勢いで話さないと、また流されてしまう。少しばかり、焦っていた。
 高居と古柴は、大半の生徒がしているのと同じように、本棚と組み立て式の棚で自分のスペースを区切っていた。お互いが自分のスペースにいれば、相手は見えない。
 古柴はさらに布を暖簾のように垂らして、完全にスペースを閉じていた。広い角部屋にいる梅野からすれば、随分狭く感じる。
 その布を持ち上げて中に入ると、古柴はベッドに寝転がっていた。ちらりと梅野を見て、「脱げよ」とだけ言った。高居がいても、構わないらしい。
「古柴、俺、先輩と別れたから」
 古柴は起き上がって、目を眇めた。
「おまえと寝たことも言った。もう、全部終わりにしようと思って。こんな、お互い傷つけあるような関係は――」
 がしゃんっと音がして、梅野は口を閉じた。床の上に、ばらばらに散らばったペンや鉛筆が転がっていた。
「今更、よくそんなことが言える」
 古柴が立ち上がる。梅野はぐっと唇を噛み締めた。
「さんざん、人を身代わりにして置いてっ」
 古柴が椅子に置いてあった鞄を掴んで、投げつけてきた。梅野は思わず身を竦める。鞄は、隣の本棚に当たって、ばさばさと何冊かの本を落とした。
「古柴っ」
 手当たり次第に物を投げて来るので、梅野は顔を腕で覆った。そこに音を聞いた高居が顔を出して、古柴を止めようとした。
「古柴っ。何して……」
「うるせえよ。おまえは関係ないだろっ」
「落ち着けよ古柴!」
 高居が、古柴の両腕を掴んで押さえる。両者の腕が震えていた。
「離せっ。何でいつもおまえが出てくるんだ。梅野の次の男か? どうせ同室で、おまえも良い思いさせて貰ったんだろっ。それで勘違いしたのか。やめとけよ。こいつはただの淫乱だ。やらせてくれれば誰だっていい――」
 瞬間、高居は古柴のシャツの襟首を掴んで腕を振り上げた。殴られる、と古柴も覚悟したような顔をした。だが、それは宙で止められてしまった。
「梅野っ……離せ」
「駄目だ。駄目だって。これ以上問題起こしたら駄目だ」
 梅野は必死でその腕を掴んでいた。そもそも、高居が怒る必要はない。自分と古柴とのことで、再び高居に迷惑をかけるのは嫌だった。
「関係ない」
 高居が叫んだ。腕が振りほどかれそうになる。だが、梅野の両手に、さすがに片手では対抗できないようだった。
「離せ梅野っ。こいつ、殴らないと気が済まねえっ」
「高居っ。駄目だって。陸上だってあるのにっ」
 いいんだよっ、と高居が怒鳴った。古柴の襟首を掴んだまま、高居は床を睨んでもう一度怒鳴った。
「いいんだよ。どうせ、走れないんだから」


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