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あふれ出る言葉など何の役にも立たない

06
 何のために?誰のために?
 そんなことを、芳明は考えたことはなかった。
 ただ、好きだった。身体を動かすことも、あのスピード感も、ゲームを組み立てたりすることも。何も考えず、ただゲームのことだけで頭が一杯になるあの時間を、自分は欲っしていたのだとも思う。
「ホウメイって、バスケ上手いんだって?」
 授業中もぼんやりと海田に言われたことを考えていた芳明は、部屋に帰ると珍しくいた右にまでバスケのことを持ち出され、小さくため息をついた。
「べつにうまいわけじゃない」
 にっこりと笑った右の顔から視線を逸らしながら、芳明はそう投げやりに答えた。やはり、右の笑顔は好きになれない。気付かなければ良かったのだが、気付いてしまってからは、芳明は無意識に視線を逸らすようになった。
「でも、海田先輩に呼ばれてただろ?」
 右は先輩に貰ったと言うソファーから振り返って芳明を見ていた。ブレーザーを脱いで、きちんとハンガーにかけている芳明は、確かにスポーツマンらしいきれいな筋肉を持っていた。特に、腕から背中にかけて、がっしりとでも無駄なくついたその筋肉を、右は羨ましそうに見つめた。
 芳明の中学時代のバスケでの活躍を、右は基一から聞いていた。めでたく報道部に入った基一は、早速調べたのだ。でも、基一に話題を振ったのは、右だった。
 ――ふーん。
 話の流れ的にもその話題になっても別におかしくなかったはずなのに、基一ににやりと笑われて、右は思わず何?と聞き返した。
 ――いや、右は何にも興味がないように思ってたんだけど、そうでもないんだなあ、と。
 さりげなく聞いたつもりだったのに、しっかりばれているところに、右は思わず基一から視線を逸らした。
 自分にも、少しだけ自覚があるのだ。なぜか芳明のことになると、気になる。あの部屋を変わると言ったときに、それがいやで、断固として反対した後からのことだ。いや、宝探しのとき既に、気になってはいたのかもしれない。
 それがどうしてなのか、右は考えなかった。辿り着く答えを、知りたくなかった。それでも、芳明が自分を嫌っていることをわかっていても、右は芳明がいることに安堵する。
 安堵。その気持ちさえ、右にはよくわからなかった。
「なんでバスケ部に入らないんだ?」
 芳明が何も言わないのは、答えたくないからだと右はわかっている。わかっているのに聞いてしまうのは、知りたいからだ。
「関係ないだろ」
「そりゃあないけど」
 芳明はあまり自分を見ないな、と右はふと気付いた。この顔に惹かれるように、色々な人間が自分の周りに集まってくるのに、同室で今一番近くにいるはずの芳明は、その顔をみようとしない。そういえば、笑うたびに嫌そうな顔をしているということも、右は思い出した。
 ああだから、自分は芳明といると安堵しているのか、と思う。
「でもさ、嫌いじゃないんだろ?そんなにちゃんと身体作って。もったいない」
「うるさいよ」
「つれないの。まあ、やるかやらないか決めるのはホウメイだけどさ」
 芳明は誰に対してもこんな態度だ。右はそれでも膨れた振りをして、読んでいた雑誌に視線を戻した。あの基一に対しても、こんな態度なんだからすごい。
 知らぬ間に感心されている芳明は、そんなことなど気付きもせず、自分のテリトリーに戻った。別に、右のことは嫌いではない。あれから確かに滅多なことでは人を部屋に入れていないし、一人静かに本を読んでいることのほうが多い。気に入らないのは――ふとそう思って、芳明はそれこそ関係ないじゃないか、と頭を振った。
 それから、先刻言われた言葉を思い出す。
 やるかやらないかは、自分が決めること。
 そうだった、と芳明は妙に納得していた。誰のために、何のために。そんなことは簡単で、木田の家のためでもなければ、祖父のためでもない。自分がやりたいのだ。
 単純なことを気付かせてくれた右に、芳明はこっそり感謝した。
 結局、木田の家との衝突は覚悟の上で、芳明はバスケ部に入ることにした。入部届を持って顧問のところに行き、その放課後には体育館に行くと、海田にえらいえらい、と頭を撫でられた。
 ――おまえの悩みを引き受けてやるのは簡単だが、それじゃあ先に進めないだろ?何より大切なのは、おまえがバスケをしたいかどうか、だからな。それさえしっかりしてれば、俺も海田も、チームメイトも、いくらでも助けてやるさ。
 海田から事情を聞いた、と言う顧問には、そういわれた。
 自分は、木田に遠慮していたのだろうか、と思うが、そうではなく、周りに甘えていたのだろう。プレーをしたい、という自分の気持ちに確信を持ってさえいれば、祖父たちと戦う事だって出来る。自分が揺らがなければ、中学時代のように周りに助けてもらわなくても大丈夫なのだ。
 それだけではどうにもならなくなったら、きっと海田たちが助けてくれるのだろう。
 そう思って、芳明は海田に深々と頭を下げた。


 もう一人、やっぱりお礼を言っておきたい奴がいる、と芳明は思いながら、機会だけはいくらでもあるのにそのお礼を言えずにいる相手がいた。
「ホウメイ、このところ帰り遅いと思ったらバスケ部入ったんだって?」
 バスケ部の練習は容赦がなく、とくに週一で行われる運動部合同走り込みの際には、芳明たち一年は本当に疲れていた。負けると先輩方が怖いのだ。それは何か賭けでもしているのではないかと疑うくらいに。
 その疲れたところに、右のにっこりと笑った顔を見せられて、芳明は思わずげんなりとした顔をしてしまった。疲れすぎて、取り繕う暇もない。
 その芳明に、右は表情を凍らせて、泣きそうな顔をした。
 いつもどことなく視線を逸らされているのはわかっていたが、そんな風に嫌悪とも取れる顔をされたのは、初めてだった。たぶん芳明は、右の笑顔が作り物だと気付いているのだろう。それは、わかっていたし、だから気になって仕方がなかった。
 自分の、この笑顔に騙されない男。
 だからといって、そんな顔をしなくても。
「杉本っ」
 芳明がはっとして叫ぶより早く、くるり、と振り返って、右は自分のベッドのほうに走った。右も芳明を真似て、本棚とクローゼットをパーテーション変わりに小さな空間を作っていた。別に二人で話し合ったことはなかったが、そこは本当に個人のスペースで、入るときには必ず、その本棚をノックしていた。
 このときも、芳明は少し躊躇ってから、遠慮がちに本棚を叩いた。ドアがついているわけではないから、ちょっと覗けば右がベッドにうつ伏せになって枕に顔を埋めているのが見えた。
「杉本」
 声を掛けてみたが、右は動かない。芳明は少し考えてから、入るぞ、と言ってベッドに近寄った。普段は笑顔で武装している右がこんな風になるのは珍しく、芳明は困っていた。そして、そんな風にしてしまったのが自分だと言うことが、情けなかった。
 右には、礼を言おうと思っていたのに。
 あの作り物めいた笑顔が武装だと、最近は気付き始めたと言うのに。
「右」
 名前を呼ぶと、枕を抱いていた腕がさらにぎゅっと締まった。芳明は立ったまま、それを見ていた。
「ごめん。俺、すごい疲れてて」
「疲れてなかったらっ」
 がばり、と顔を上げた右は泣いてはいなかったが、今にも泣きそうに、目元が赤くなっていた。
「疲れてなかったら、いつもみたいに誤魔化せたのに?!無意識に視線を逸らせた?!」
「おまえ……」
「知ってたよっ。わかってた。ホウメイが俺のこと嫌ってるの。どれだけ俺が笑っても、絶対見てくれないのは、わかってた」
 でも、それで本当は良かったのだ。気付いてくれたことに、どこか安心していた。だから、芳明にはちゃんと笑おうと思っていた。心からの笑顔を、見せようと思っていた。それなのに、それが出来なくなっている自分に、右は愕然とした。それがどんな笑い方だったのか、忘れてしまっていた。
「自分だって、嫌なんだ。笑ってるのに、それを見てる冷めた自分がいることを、知ってるんだ」
 右はそう言って、また枕に顔を押し付けた。今度こそ泣いているのだろうか、と芳明は思ったが、もしかしたらこいつは泣き方さえ忘れているのではないか、とふと気付いて、ひどく悲しくなった。
 芳明は思わず手を伸ばして、その頭をゆっくりと撫でた。
「ごめんな。俺、本当はおまえには礼を言いたかった。何が大事なのか、ちゃんと気付かせてくれてさ。それなのに、あんな顔して、ごめんな」
 右はされるままで、その髪を柔らかいな、と芳明は思っていた。
「おまえのそれ、武装、なんだよな。俺があんまり周りに愛想よくしないのと同じで、おまえは笑顔で自分を守ってる」
 まだまだ発展途上の自分達には、何かしらそんなものが必要なのだ、と芳明は思っていた。そしてそれを、隠し持っていられるほど大人ではない。
「だからさ、俺はおまえが嫌いなんじゃない。ただ」
 芳明はそこで手を止めて、一向に顔を見せない右を見た。
「ただ、たぶんイライラしてたんだ。自分を見ているようでもあったし、最初に眩しいって思った笑顔が偽物ってことに」
 わかってるから、自分にはそんな顔をしなくてもいい、と芳明は思っていたのだ。だから、今の状況は、どことなく嬉しい。人を傷つけておいてそう言うのは憚れて言わなかったが、右に持っていた刺々しい感情は、なくなっていた。
 所詮ガキだよな、俺も。芳明はここのところ何度思ったか知れないその思いを口にして、照れたように右の頭をぽんぽんっと叩いた。それでようやく、右がむっくりと起き上がる。
「ガキじゃない」
「ん?」
「ホウメイはガキじゃないよ。みんな騙されてるのに、わかってたじゃないか」
「だから、似てるんだって」
 やり方が違うだけであって。そう言う芳明を、右がぼんやりと見上げた。それから、ふいに俯く。
「俺さ、忘れちゃったみたいなんだ。自然に笑うってどうするのか、忘れたみたいでさ」
 ひどくか細い声に、芳明はまた、その頭を撫でた。
 その手は大きくて、とても温かい。顔を上げなかったのは、怒っていたのと、怒鳴って恥ずかしかったのと、その手が、気持ちよかったから。
「そりゃあ、本当に笑いたいと思わないからだよ。大体、笑うのは、泣くのと一緒で、無防備になるだろ。だから、武装中の俺達にはなかなかチャンスがないんだ」
 そのうち、武装解除できるところが見つかるさ。芳明がそう言うと、右は俯いたまま、こくりと頷いた。


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