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たった一つ欠けたパズルの破片を持っているのは君だろう?



06
 広たちのバスケ部はちょうど朝練を終えたところで、着替えて教室に向かうという時だった。広はまだネクタイをしていなくて、シャツの前をはだけたままにしていた。もう春だと言っても、朝の外はまだ寒い。
 広は俺を見つけると、起きられた?と笑った。俺の寝起きの悪さを知っているからだろう。でも俺はその寝起きの悪さそのままのような顔で、その広をじっと見て、目でついて来るように促した。広は微かに眉根を寄せたが、周りに断って、大人しくついてきた。
 俺は広が出てきたばかりのはずの体育館に入っていった。思った通り、バレー部も朝練を終えて、誰もいない。がらんとした、朝の光に光っている床を見ながら、俺は近場の壁に寄りかかった。広は大人しくその前に立っている。
「ああそうだ。これ、お前を助けた奴らの名前とクラス」
 広はふいに思い出したようにそう言って、俺に紙切れを渡した。二年ばかり五人の名前が書いてあった。
「ありがとう。ついでに、俺を襲った奴らの名前を教えてくれないか。それとも……」
 俺はそう言いながら、首筋の絆創膏に手を伸ばして、それをびりっと剥がした。
「これはお前か?」
 俺の言葉に、広がちょっと笑った。それに、かっとする。
「おまえっ」
「嫌だった?」
 広は笑ったまま、そう言った。俺は訳がわからなくて、悔しくて、哀しくて、目頭が熱くなったのがわかる。笑ってんじゃねえ、と心の中で悪態をつく。冗談ですませられることじゃないんだ。少なくとも、俺には。
「嫌かって?てめえ、何考えてやがる」
 唸るように言った俺のその首筋に、広の手がふいっと伸びてきた。大きくて、長い指を持つその手に、俺はびくりと身体を震わせた。その指が、するりと鬱血の跡を撫でる。
「最初につけたのは俺じゃない。あいつらの誰かだ。それがあんまり腹立たしいんで、俺が付け直した」
 なん、だって?
「俺が大事に、大事にしてきたっていうのに、横から掻っ攫われるなんてな。冗談じゃない」
 そう言う広の顔を、俺はただただじっと見詰めた。息が苦しいほどで、俺は何度も荒い呼吸を繰り返していた。広は触っている俺の首筋をじっと睨むように見ていた。
「どういう……」
「意味かって?」
 広はようやく俺の首筋から手を離すと、俺の方を見て、艶やかに笑った。俺は、こういう顔もできるんだ、とそれに一瞬見惚れた。広はそれから、ふいに耳元に顔を近づけて、囁いた。
 ―――ずっと好きだったって意味だよ。
「嘘だっ」
 俺は思わず、そう叫んでいた。叫びながら、広の身体を突き飛ばした。
 ずっとなんて嘘だ。俺の事なんか見てなかったくせに。
「嘘ってなんだよ」
 広の憮然とした声が返ってくるが、俺は怒りに震える唇を止められなかった。目が熱くて熱くて、今にも泣きそうだった。
「ずっとなんて、嘘だ。お前が、好きなの、は、摂先輩だろ?」
 切れ切れにそう言う俺の前で、広はその精悍な顔を歪めた。
「何言ってるんだ?」
「誤魔化すなよ。お前が好きなのは、春姫なんだ。摂先輩がそうだったから、俺が春姫になるって言ったから、だからっ」
 俺はそこで我慢が出来なくて、ぐっと唇を噛み締めた。今にも涙がこぼれそうで、それでもきっと広を睨んだ。
 代わりになんて、なりたくなかった。
 俺にとって広は広でしかなくて、たった一人しかいないのと同じように、広にとっての俺も一人であって欲しかった。広が部長と呼ばれ、統括と言われ、白虎なんて言われようが、俺には広でしかないのと同じように。
 たぶん、顔を真っ赤にして怒っているだろう俺に、広は困ったような顔をして、顎を撫でていた。何かを考えているときの癖だ。
 言い訳なんて聞きたくない、と俺がそこから走り出そうとしたとき、広が口を開いた。
「なあ、どうしてそう思ったんだ?」
 にやりと、堪えきれないように笑う。俺は悔しくて、睨んだまま、見てりゃわかる、と吐き捨てた。
「おまえが誰を見てたかなんて、見てりゃわかるんだよっ」
 そう叫ぶと、広はふーん、とまた笑った。
「そうやって、お前も俺を見てたってこと?」
 その言葉に、俺は別の意味で赤くなった。ばれた、と思ったときはもう遅い。
「そ、そうじゃなくてもっ。わかったんだよ」
 そう必死に言うのに、広はにやにやと笑うのをやめようとしない。俺は恥ずかしさとまだ残っている怒りとに、混乱していた。だから、伸びてきた手を避けられなかった。
「あーもう。そんな顔するなよ。こんなんだったら、昨日やっとくんだったな」
 抱きしめられて、呟かれた言葉に、俺は何を、とは聞かなかった。と言うより、パニックになっていて、聞けなかった。
「見てりゃわかるなんて、言ってくれるよな。俺の気持ちなんてこれっぽっちも気付かなかった奴が」
「なんだよ、どう言う意味だよ」
 俺はうっすらと汗の匂いの混じる広の身体から逃れようと身を捩ったが、さすがに力では敵わない。しっかり抱きしめられて、頭は肩に押し付けられて、俺はくぐもった声しか出せなかった。
「なんで俺がわざわざ私立の中学に行ったと思う?」
 突然の話題変換に俺はついていけずに、何も答えられなかった。それを気にすることもなく、広は耳元で話を続けた。
「お前にとって俺はさ、いつまでも隣のおちびの広くんで、それなのに千速は男なのにどんどん綺麗になっていって……。耐えられなかったんだよ。ただの隣の広くんでいるのが。それで、俺は逃げたんだ」
 あのときは子供だったからなあ、と広が笑う。子供なりに、切羽詰っていたんだ、と。
「三年離れて、もう大丈夫かと思った。お前がこの高校に入ることは実は俺がここに決めた後に知ってさ。俺、すごく動揺して。全然大丈夫じゃないじゃん、って思った」
 広、と呼んだ声が掠れた。今度こそ、泣いてしまうと思った。広はそっと俺の頭を撫でて、もうちょい聞いて、と言った。
「大丈夫どころか、小中学生のときに抱えていたのが紛れもなく初恋なんだって自覚して、俺は正直どうしようかと思ったんだ。高校で会ってもお前は俺を幼馴染としてしか見ないし」
 違う、と言った俺に、広が笑ったのがわかった。
「違わねーの。少なくとも、最近まではそうだっただろ?」
 確かに俺が広を好きだと自覚したのは、半年ほど前だ。でも、そのとき広は摂先輩を見てたじゃないか。拗ねたようにそう言うと、広は今度は苦笑した。
「あの頃は俺もちょっとぎりぎりになってて。ちょうどお前が次期春姫って呼ばれだしただろ?それで、俺はそのとき春姫と呼ばれてた摂先輩を見てたんだ」
 どうにか、自分の気持ちが誤魔化せないかと思って。そう言った広の声に、俺が思わず顔を上げると、広の照れたような顔が見えた。
「摂先輩が春姫だったから、今の春姫のお前を好きなんじゃない。お前が次期春姫だって言うから、俺は摂先輩を見てたんだ」
 俺に摂先輩を見たんじゃなくて、摂先輩に俺を見ていたってこと?
「なんて呼び名をつけられようが、千速は千速でしかない。わかってたのに、いや、わかってたから余計、どうにもならない俺は二度目の逃亡を図ったわけだ」
 広は苦笑しているけど、とても切なそうな顔をしていた。俺はとても今の状況が信じがたくて、思わずその広の顔をぺたぺたと触った。
「おい、千速」
 困った顔の広は、確かに目の前にいる。
「なあ、俺はお前の答えを聞いていないんだぞ」
 少しだけ弱気な広を、俺は一瞬惚けたように見つめた。それから、思い切り笑顔を浮かべた。
 嬉しくて。とてもとても嬉しくて。
 昨日食べたドーナツの甘さなんか目じゃないくらい、甘い幸福に包まれていて。
 笑わずにいられなかった。
「好きだよ、広。なんで友情じゃなくて愛情じゃなきゃ駄目なんだろうって、すごく悩むくらい」
 俺がそう言ったら、広がにやりと笑った。
 ―――それは、友情じゃこんなこと出来ないからだろ?
 そう言った広の顔が、俺に近づいてきて、そのとても男らしくて精悍な顔を俺は見つめていたかったけれど、触れた唇の柔らかさと温かさに、思わず目を閉じた。


 結局、とっくに始まっていた一限をさぼった俺達は、屋上で話をしていた。こんなのんびりとした時間はなんだか久しぶりで、天気の良さに転寝をしつつ、幸せな時間を過ごした。その下で、何やら大変なことが起きていたとは知らずに。
 一限の終了のチャイムに、俺達は仕方なく立ち上がって、伸びをしながら下に降りていった。二階の二年生のL棟横の階段まで出ると、広が誰かに呼び止められた。
「海田統括っ。どこにいたんですか。みんな捜してたんですよ」
 何か焦ったようにそう言った後輩は、運動部だろう。でも、バスケ部じゃない。広をどう呼ぶか、でそれがわかるんだ。バスケ部員は「部長」、運動部員は「統括」、そのほかの生徒は普通「先輩」と呼ぶ。
「なんだ?何かあったのか?」
「呑気なこと言ってないで下さいよー。一触即発の危機なのに」
 そう言う割に、その生徒の口調はのんびりしているが、それがこの子の口調なんだろう。
「なんだよ、何があったんだ」
「東の奴らが、昨日のことで納得できないって言い出して、犯人の引渡しを要求してきたんです」
「でも、昨日のことは瓜生が始末しただろ」
「そうなんですけど……だから、西側としてはそれは受け入れられないって」
 広はその子の言葉に小さくため息をつくと、仕方ないな、と呟いて、とにかく様子を見てこよう、と歩き出した。俺はその後を、もちろんついていった。
 昨日のこと、っていったら、それは俺のことだろう。いくら被害者と言っても、後始末の責任はある。
「あ、千速、おまえは教室戻ってろよ」
 だから、広が不意に振り向いてそう言ったとき、俺は首を横に振って、絶対行く、と譲らなかった。
「でもなあ、お前が行ったら余計煽るかもしれないぞ」
「なんで?俺が被害者なんだしさ、俺は東の人間で、姫だし」
 そう言いながら、そう言えば春姫になることをまだ深山に言っていなかった、と思い出した。早く言って、肩の荷を下ろしてあげなくてはならない。
 こうと決めたら、余程のことがない限り譲らない俺を知っている広は、盛大にため息をつくと、仕方ない、その代わり俺と一緒にいろ、と言ってきた。それに、俺が「喜んで」と答えると、広は一瞬呆れたような顔をして、それから破顔した。




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