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ソクラテスとソフィストの優しい関係について

06
 雅道がほとんど拉致のような形で稜に連れ去られてから、智はどこか居心地が悪くなって、荷物の整理などをしていた。不思議だった。雅道といるほうが落ち着かない気がするのに、圭と二人きり、というのもまた、緊張を強いられるのが。
 雅道とは、あれ以来きちんと話をしていない。話し掛ければ変わらず答えてくれるが、無闇に構うこともなくなったし、何より視線が合わなかった。ふいっと顔を上げると合う視線に、以前は困っていたのに、今はそれが哀しかった。
 どうしてこういうことになってしまったのだろう、と智は考えてみるが、はっきりしなかった自分が悪いのだと、それしかわからなかった。
 ふうっと思わずため息を吐くと、くすりと笑う声が聞こえた。振り返ると、圭がにっこりと笑う。
「やっぱり雅道がいないとつまらない?」
「え?なんで」
「なんでって……雅道も可哀相に」
 くすくすと笑う圭に、智はやはり居心地の悪い思いをする。どこか、いつもの圭と違う気がした。
「可哀相って……」
「同じグループで、寝泊り一緒で、でもお友達。辛いよなあ」
 くすくすと笑う圭の声には悪意が含まれている。でも、それと同時に自嘲と言うか、切なさも含まれている気がして、智は目を眇めた。
「なに?」
「雅道のこと、嫌いなの?」
 圭は智の不機嫌さを気にもせずに、そんなことを聞いてくる。智はそれに、律儀にも首を振った。
「じゃあ、好きなんだ?」
 そう言われても、智にはその「好き」が、どの「好き」なのかわからない。考えると混乱してしまって、結局雅道の言った「答え」がやはり正しいのだろうか、と思うのだ。
「好きだけど……わからない」
 そう答えると、ずるいね、と低い声が聞こえた。
「え?」
「智は、ずるいね」
 ふいと見た圭の顔は真剣で、智は思わずまた視線を外した。ひどく、責められていると思った。
「嫌いじゃない、好き、でもわからない。そんなの、ずるいよ」
「だって、わからないんだ」
「そうやって、雅道を中途半端に縛り付けるんだ?」
 圭の声には、はっきりと悪意があって、今度こそ智は顔を上げた。いつも確かに辛辣だが、こんな悪意を感じたことはなかった。
「圭……?」
「それとも、怖い?智はお子ちゃまだからなあ」
 くすくすと笑っているのに、その目は真剣で怖かった。智は思わず後さずりをして、ベッドにすとんと坐ってしまう。圭はそれを追うように、智の前に立った。ずるり、と後ろに下がると、圭がベッドに片膝を立てて、その智の顔を覗き込むように見る。
「な……に?」
「怖がらなくても平気だよ。マサは上手いよ」
「圭……?何言ってるの?」
 智だって別に初心な子供ではない。圭の言っていることの想像はつくが、それが圭の口から出てきて、智は混乱していた。
「試してみる?俺、マサみたいに抱けるよ。よく知ってるから」
 くつくつと笑う圭は楽しそうだ。それに智はぞっとする。
「知ってるって……」
「うん。だって、俺、マサに抱かれてたから」
 圭はそう笑ったが、それがあまりに辛そうで、智はその圭をじっと見詰めた。
「付き合ってたの?」
「違うよ。ただのセックスフレンド」
 また、圭がにっこりと笑う。智は何故か自分の瞳が濡れてきたのがわかった。その頬に、圭がすっと指を滑らせた。
「だから、マサみたいに抱けるよ?試してみようよ」
 わかっているのだろうか、と智は思った。自分がどんな顔をして、そんなことを言っているのか、圭はわかっているのだろうか、と。
 そのときになってようやく、智は圭の気持ちを知った。きっとずっとだったのだろう、と今更自分の鈍感さを思い知る。
「いつから……?」
「え?」
「いつから、雅道と?」
 近づいてくる圭の顔を凝視しながら、智が呟く。
「中学二年のときから。でも、高校入ってすぐにやめた」
 逃げないの?と圭が聞く。智はそれには答えなかった。
 唇に生暖かいものが触れても、智は瞳も閉じずにいた。どうしたらいいのか、わからなかった。どうしたら、圭を悲しませないですむのか、わからなかった。
「智……?抵抗しないなら、本当にやっちゃうよ?」
 圭の声は苦しそうで、智は混乱する。そんなのは嫌だ、とわかっていても、ではどうしたらいいのか、わからない。
「マサとのことは気にするなよ。本当にただの欲望の処理っていうの?それだけだから」
「圭っ」
 智は思わず声を荒げた。どうして、そういうことを平気で言うのか、わからなかった。
 ぽろり、と涙が落ちたのがわかった。ひどく哀しくて、仕方がなかった。
「泣かないでよ。まだ何もしてないよ?」
 あ、でもキスしたか、と圭は笑う。それを見ていると、ぽろぽろと涙が溢れた。
「智、可愛いね。そんな顔見たら、マサなんか一発で落ちる」
 どうして、と智は思う。そんな風に、どうして傷を抉るようなことを言うのだろう。智のではなく、自分の。
 俺を抱いたら、と智は呟いていた。
「俺を抱いたら、圭は雅道を諦められる?そんな苦しい思いから、解放される?雅道の馬鹿に、復讐できる?」
「智……?」
 泣きながら呟くその内容に、圭は唖然とした。
「圭も、馬鹿だ……」
 ぽろぽろと零れる涙の理由を、圭はようやく正しく理解した。理解して、驚いて、かっとなった。思わず噛み付くようにキスをすると、無理やり口を開かせて、その口腔を弄った。でも、智はされるがままだった。圭の腕を掴む手が、小さく震えているというのに。
「同情なんか……」
 ようやく離した口でそう言うと、智がふるふると首を振る。
「圭がそういうのは嫌いだってわかってるから、しない。でも、圭を助けたいし、雅道の馬鹿に復讐できるなら、手伝う」
 共犯だよ、と智が無理やり笑顔を作る。それに、圭はもう一度惚けたように智を見て、それから大きく息を吐きながらその智の上にどさりと倒れこんだ。勢いで、智ごとベッドに横になる。
「圭……?重い」
「馬鹿はどっちだよ」
 圭はぼそりとそう呟くと、よっと身体を起こした。それから、智も抱き起こす。そのままぎゅっと抱き込まれて、智は驚いて身を捩った。
「あーあ。負けたって言うか、やられたっていうか……」
 その智を押さえ込みながら、圭はぶつぶつと呟いた。
「じゃあさ」
 ぎゅっと抱き締めて、耳元で囁く。それにふるっと智の体が震えて、くすりと笑った。
「ときどきこうして抱っこさせて」
「は?」
「俺が淋しくなったら、こうして抱かせて」
 突然何を言い出すのかと智は思ったが、少しだけ縋るような圭の声に、思わず頷いた。そんな圭の声を、初めて聞いたからだ。
「うーん。智、可愛い」
 圭はそんなことを言って、すりすりと智の頭を撫でた。智は急に恥ずかしくなって、慌てて離れようとする。
「淋しいんだってば」
 圭はそう言って、智が困るのを楽しんだ。
 しばらくそんなことをしているうちに、かちゃりと音がして、部屋のドアが開いた。智は今度こそ慌てて圭を突き放す。圭もあっさりと離れて、ベッドから立ち上がった。
「あれ。おまえらまだいたの?夕飯の集合時間だぞ」
 そう言って入ってきたのは稜と雅道だった。暑いから、ジャケットを置きに来たのだという。
「ああ、今行く」
 圭がそう答えて、智もベッドから降りた。その智を見て、雅道が目を眇める。
「智……泣いた?」
 目の淵も、瞳さえまだ赤い。智は何も答えずに、雅道の脇を通り過ぎようとした。その肩を、雅道が掴む。
「どうしたんだ?」
「何でもない」
 智は冷たい声でそう言って、バスルームへと入って行く。それに呆然としたのは、雅道だけではなく、圭もだ。だから、ぐいっと肩を掴まれても、すぐに反応できなかった。
 どうして、智が雅道に対してそんな態度を取るのかわからなかった。
「何をした?智に、何をしたっ」
 激高する雅道は珍しい。珍しいからやばい、と稜が思わず間に入ろうとしたとき、バスルームの扉が開いて、智が出てきた。顔を洗ったのだろうが、それ位で目の赤味が取れるはずがなかった。
「何でもないって言っただろ。圭、行こう」
 智はそう言って、ドアから出て行った。呼ばれた圭は慌ててその後を追う。そしてやはり、雅道はそこに呆然と立っていた。



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