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ソクラテスとソフィストの優しい関係について

07
 後ろを振り返りもせずに歩く智に追いつくと、圭はその腕を掴んだ。
「智、ちょっと」
 待てって、と言って、足を止める。智はぐっとそのまま引っ張られて、仕方なく歩くのをやめた。
「どうしたんだよ。ご飯、食べられなくなる」
「智こそどうしたんだよ?マサ、青くなってたぞ」
 圭がそう言うと、智の方こそわからない、と言う顔をした。
「なんで圭が雅道を心配するんだよ?あんな奴」
 むっとした智に、圭が唖然とする。それから、はーっと大きくため息を吐いた。
「智……誤解してる。確かにまあ、あいつも酷い奴だけど、最初に嵌めたの俺だから」
「だからって、雅道があんな奴だとは思わなかった」
 智は床を睨みながら吐き捨てるように言った。
 自分でも、本当はよくわからない、ぐちゃぐちゃした気持ちだった。圭に聞いたときはびっくりして、でもその圭があまりに辛そうで、可哀相だった。だからあまり考えなかったのだろうが、雅道の顔を見た途端、苛立ちが起こった。
 そして、悔しい、と思った。
 何が悔しいのか、智はわからない。でも、ただ悔しかったのだ。
「智ー。俺、こんな風にするためにあんな話したんじゃないって」
 確かに、ちょっと智を苛めてみたかった。わからないなんて言って、中途半端な智に苛立ってもいた。でも、圭の気持ちの大部分は、もうはやくくっついてくれ、というものだった。
 どうして圭の気持ちには気付いたくせに、自分の気持ちがわからないのだろう、と圭は思う。智がこんな風に怒るのは、どうしてなのか。どうしてわからないのか。
「ほら、早く行こう」
 智がそう言って手を引っ張ってくる。それに、圭はただただため息をついた。
 稜に言われたことを思い出す。感情に説明なんかつけるのが間違いなんだと。わからない、と言った智に、雅道は回答を与えたのだという。それが馬鹿なんだ、と稜は言っていた。忍耐強く、待つべきなのだと。
 でも、これでは雅道も、待ちくたびれてしまうだろう。だからと言って、自分が智に答えを与えるべきでもない。そう思って、圭はため息をついたのだった。


 夕食から帰って来て早々に、圭は稜たちのところに逃げ込んだ。ドアの前に、一穂宛に、中に入らず稜たちの部屋に来るようにメモも張る。
 とにかく話をしろ、と圭に言われて残された二人は、互いに視線を合わせないままじっとしていた。こういう沈黙は今までになかったな、と智は思った。
 本を読んでいる雅道の隣で、ただぼんやりとするのが好きだった。それも静かな沈黙に満たされた時間だったが、とても安らぐものだった。
 悔しい、とまた思う。裏切られたかのような、やり切れなさだ。
 雅道は、動かない智にふっと息を吐いて、バスルームに行った。タオルを水で濡らして、智に差し出す。
「明日腫れるぞ」
 それだけ言うと、智が小さく礼を言った。そういうところが、智らしい、と雅道は思わず顔を綻ばせた。それから、応接セットの椅子を少し動かして、窓際に坐った。ぼんやりと、外を見る。智の泣き濡れたような目と、冷たい声が、頭から離れなかった。
 出て行く間際、圭が言った言葉を反芻する。ひどくそっけなく、「話したから」と言われた。それが何を指すのか、一瞬わからなかった。でも、今は大体の見当がついている。
 もう、どうでも良いような気がしていた。友達としてだけでも、と思っていたのに、それさえ上手く出来ない自分がいた。離れたら離れただけ、目が智を追う。それに半分自分で呆れていた。
「軽蔑するなら、すればいい」
 そんなことを考えていたら、ふと、呟いていた。智がゆっくり顔を上げる。
「嫌って、突き放せばいい。もう二度と話さないというなら、それでいい」
「雅道……?」
「でも、おまえから突き放せ。俺には無理だ」
 雅道の静かな声に、智は唇を噛み締めた。心臓が、痛かった。
「圭の気持ち、知ってたの?」
 搾り出すように出した声は、震えていた。その視界の隅で、雅道が小さく頷いたのがわかった。
「雅道は?好きじゃなかったの?」
「圭に、恋愛感情は持ったことはないよ。ただ、稜の言葉を借りれば、俺は嫌になるくらいガキだったってことだ」
 そう、どうしたらいいのか、わからなかった。あれ以上、圭を傷つけないために、どうしたらいいのか。
 ひどく傷ついたような雅道の表情を、智はじっと見ていた。先刻の圭と同じくらい、雅道は傷ついている。
 馬鹿だな、と智は思った。二人とも、自分を傷つけることで他人を守ろうとしたのだ。
「ガキだった、だって。今だってガキじゃん俺たち」
 そう言う事を言える強さが、智にも稜にもあるのだ、ということはきっと本人達はわかっていない。雅道はふいっと外を見た。さっきは近かったネオンが遠い。あんな知らない世界のようなところで、一人ぽつりと立っているような感じだった。きっと、圭も同じなのだと雅道は思う。だから、二人は手を取り合ったのだ。でもそれでは、そこから抜け出すことは出来ない。
「圭と俺は似てたんだ。だから傷を舐めあうように一緒になった。でも、それじゃあ足りないものは埋められない」
「足りないものを埋めることが、好きってことなの?」
「さあな」
 初めて雅道がはっきりした答えを言わなかった。でも、そんなものなのかもしれない、と智は思った。圭だって、あれほど頭が切れるのに、どうしていいかわからなかくて、さっきみたいなことをしたのだ。自分を自分で傷つけるみたいな、馬鹿なことを。
 雅道がゆっくりと智の方を見た。その真っ直ぐな視線に、智はどきりとする。
「掻き回すだけ掻き回して、きちんと決着もつけられないとはな。確かにガキだよ。ごめんな、智」
 なんで雅道が謝るのだろう、と智は思った。柔らかく微笑むその顔が切なそうで、謝るべきなのは自分なのではないか、と。
「ずるいって」
「え?」
「俺はずるいって言われた」
 智の突然の言葉に、雅道が眉根を寄せた。
「雅道のことは嫌いじゃない。好きだよ。でも、それがどんな好きなのかわからなくて……それが、ずるいって。俺もそう思う」
 そう思う、と言っても、言っている本人がわからないと言うのだから仕方ないだろう、と雅道は思った。
「だからさ。それはこの間俺が言っただろ?」
 雅道がため息交じりに言うと、ふるふると智が首を振った。
「雅道の言ったことも、違う気がするんだ。だからずっと考えてた」
 まだ泣いた後の残る目で、智が雅道をじっと見る。それに耐えられず、雅道はふいっと視線を外した。
 智はそれに、ぐっと心臓が縮んだのがわかる。
「雅道……なんで俺を見ないの?」
 ずっと、あの時からずっと、雅道は智を見ない。あれほど困惑するような甘い視線でさえ懐かしくて、智は反対に雅道を見つめる日々が増えていた。
「聞くなよ、そんなこと」
「だって、あれからずっと雅道は俺と目を合わせないじゃないか。話し掛けても来ないし」
「だからさ、俺もガキなんだって。そんなに簡単に気持ちは切り替えられなかった」
 雅道が怒鳴るように言って、智はいっそう視線を固定した。雅道は完全に外を見ていたが、綺麗に磨かれた窓にその顔が映っている。
「俺、それが嫌だった」
 ふいっと智が顔を逸らしたのが、ガラスに映って見える。ベッドに坐って、所在なさそうにその上のベッドカバーを撫でていた。
「やっぱり、ずるいよな……」
 雅道は立ち上がって、その智の前にゆっくりと歩いていった。はっとしたように、智が顔を上げる。
「智……キスしていい?」
 雅道の突然の問いかけに、智はびっくりして、それからぼんっと音がするかと思うくらい赤くなった。
「え?雅道……?」
「キス、していい?」
 思わずずるりと後退した智の目の前に、雅道が片膝を載せて、ベッドがぎっと鳴った。先刻の圭と同じ状況だ、とどこかで思いながら、それでも智は心臓がばくばく言っているのがわかった。
「これで本当に諦める。ちゃんと、友達として接する。だから、キスしていい?」
 雅道は半分本気でそう言っていた。半分は、賭けだった。智の様子に、ただ本当に、認識だけの問題なのかもしれない、と思ったのだ。好きなら好きでいい、と言った稜の言葉は正しい。説明など、後から付いてくればいいのかもしれない、と。
「え、ちょっと待って……」
「一回でいい、これで最後だから。気持ち悪かったら突き飛ばしていい」
 ずるずると、雅道が前進してくる。智はそれから逃げるように後ろに下がるが、ふいにがくんっと落ちそうになって、慌てた雅道に両腕を掴まれた。その力強さに、智はさらに心臓がどきどきと異常なほど働いているのがわかった。
「落ちるよ。危ないな」
 ほっと笑われて、血管が切れそうだ、と智は思った。
「腕……離して」
「なあ智、だめ?」
 真っ赤な智に、雅道が久しぶりに甘い笑顔を見せる。それに、智がさらにうろたえるのがわかった。そっと顔を近づけると、ぎゅっと目を閉じて、俯いてしまう。
「そんなに、嫌?」
 そっと引っ張って、腕を外す。途端、その腕が顔の前に組まれてしまう。
 智はなんだかよくわからなかった。圭のときは哀しみが一杯で、それが少しでも和らぐのなら、と思っていた。でも、雅道とは恥ずかしくてできない。それに―――
「智……?」
「やだ」
 やだよ、と智が震えるような声で言って、雅道は小さく吐息を吐いた。賭けの半分は、負けたのだと知る。それからそっとその前から身を起こして、苦笑した。本当なら泣きたいような気分だったが、自嘲を禁じえなかった。
「ごめん。悪かった」
 雅道のその声に、智はようやく顔を上げる。泣きそうに潤んだ目を見ないように、雅道はなるべくさりげなく視線を外した。それから、圭を呼んでくる、と部屋を出て行った。




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