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la　vision

9
それから何度か、周は夜遅くまで残る穂積を手伝ったり、食事を持って行ったりした。
疲労の色が濃いときほど、穂積は周を求める。
それと、もう一つ。
尋由から電話があったとき。
外に出ないで、オフィスにいることが多くなって、気付いた。週に何度かかかって来る、兄の電話。見ていればすぐにわかる。穂積の顔が、まるで違うから。
周はずっと疑問に思っていたことが、ようやく解けた気がした。
何故、穂積は自分を抱いたのか。
穂積の周りには、魅力的な人物が沢山いる。男も、女も。
それが、何故。
似ているとは言いがたいが、それでも尋由と周は兄弟だ。同じ環境で育ってきたのだから、見つけようとすれば、似たところなんて探し出せる。
血の繋がりだけでも、十分な気がした。
尋由の身代わり。
そう考えると、納得がいった。
―――尋由と穂積はそう言う関係だったのだろうか？
周はふと思いついて、眉をひそめた。聞いたことはない。尋由が、男と関係を持ったことも。あの兄の痴態が突然浮かんできて、周は頭を振った。馬鹿なことを考えている。それならそれでいいじゃないか。
それでもそれは、頭から離れなかった。
周は立ちあがって、コーヒーを淹れにいった。
まさか会社の人間には聞けない。一真にでも、それとなく聞いてみようか…そう思うが、それも却下する。感のいい一真に、それとなくなんて無理な話だ。そこから自分と穂積の関係が知られても困る。
とぽとぽと音を立てて、自分のマグカップにコーヒーを注ぐ。いい香りが漂って、周の頭を多少なりともリフレッシュさせる。
自分が、穂積との関係を整理できないでいる。
求められれば、逆らえない。
逆らえないのは、気持ちなのか、身体なのか。
それすらわからない。
はじめは、酔った。あの快楽と、引きずられる感覚に、酔った。
二度目は、三度目は…
「どうしたの」
突然声をかけられて、周はびくりと身体を揺らした。振り向くと、香奈（かな）が立っていた。
この会社のなかで、周に一番年が近い。何かと気さくに話せる、姉のような存在だった。
「ちょっと疲れたみたいです。息抜」
そう笑うと、香奈も自分のカップにコーヒーを注ぎながら、ため息をついた。
「ここのところきつかったから。でも、周くんが手伝ってくれて、助かったわよ」
そうにっこり笑う。周はあいまいな笑いをして、コーヒーを啜った。
「本当よ。普段の日も来てくれるでしょう？助かってるのよ」
ここのところ、周は時間のある限り、会社に来ていた。マンションからは一駅の距離で、学校が終わってから来ても、十分やることはあったのだ。
「そっち、どうなんですか？」
香奈たちは、周とは違うチームで今はやっている。周は途中で入って来たこともあって、特にどちらのチームとは決まっていなかったが、とりあえず会期の迫っているインスタレーションのチームにいることが多い。
「うーん。このまま順調にいってくれれば、あんまり無理しなくても大丈夫そうだけど」
そう笑う香奈の顔も、少し疲れが見える。まだ仕事に慣れないと言っていたことを思い出す。
「ね、今日暇？こっちが忙しくなる前に、飲みに行かない？」
周の斜め下から、覗き込むように香奈が言った。
「いいですよ」
「６時にあがれる？」
周は机に溜まっている仕事を思い浮かべながら、こくりと頷いた。
今日中にやらなくてはいけない仕事はそれほどない。多分、このままやっていてもはかどらない。
ちょうどいい、息抜に思えた。
「じゃ、そのときに」
香奈はそう言って、カップを洗って仕事に戻って行った。
今日も穂積は忙しそうだ。夕食は…考えない。
それは仕事でも、約束でも、なんでもない。
なんでも、ない。

「じゃぁ、今は尋由さんのところに住んでるんだ」
香奈が何杯目かのビールを飲み干した。もう顔が赤いのに、また注文している。
「香奈さん、飲み過ぎですよ」
そう言ってみても、聞いていない。周はため息をついた。
「な〜に？大丈夫っ。まだまだいける」
据わりかけた目で言われても、頷けない。
「周くんも飲んでるー？」
「飲んでますよ」
そう言っても、最近アルコールに慣れたのか、あまり酔わないらしい。
これでは兄が帰って来たら、怒られるな、とふと思う。
「いいなー。ね、部屋、連れてって」
ぶすりと、から揚げに箸を刺す。そのまま、周を睨む様に見る。
「だめですよ、もう帰らないと。明日仕事でしょう？」
「まだ平気だよー。ね、いいじゃん」
酔いの回った目に、ほんの少しの必死さが見える。
「香奈さん…兄貴のこと好きなんだ？」
そう微笑むと、香奈の動きが一瞬止まって、両手を膝に乗せると、こくりと頷いた。
「付き合ってたわけじゃぁ…」
周のその問いに、香奈は俯いたまま首を横に振る。
「片思い…完全な、片思い」
「打ち明けたの？」
また、首を横に振る。
「なんで？」
「ね、部屋、見せてくれるよね」
周の問いには答えずに、香奈はテーブルに手をついて、周ににじり寄った。

香奈はだいぶ酔っていて、足元もおぼつかなかった。それでも部屋を見たいと言いつづけるから、周はしぶしぶ部屋にあげた。
「兄貴がいた頃と、あんまり変わってないと思うよ。片付けるの面倒だから、あんまり触ってない」
周のその声を聞いているのかいないのか、香奈はふらふらと部屋のソファーに近寄ると、そこに倒れ込んだ。
「香奈さん？」
周が水を持って行くと、香奈はソファーに横になったまま、笑った。
「尋由さんの部屋だー」
ひとりくすくす笑っている香奈に、周はため息をついて、水をテーブルに置く。
「はい。香奈さん、もう帰らないと終電なくなるよ」
揺り起こそうと肩に手を乗せると、香奈が手を伸ばしてきた。そのまま周の首に巻きつけると、口付けた。柔らかい唇が、少し冷たい。
「香奈さん」
手を解こうとする周に、香奈は嫌だと首を振る。
「周くん、私、魅力ない？」
「誰にそんなこと言われたの。兄貴？」
香奈は違うと笑った。
「なんでわかってくれないのかなー」
その言葉は、周に向かって言われた言葉ではない。悲しそうに、笑う。
「ねぇ…抱いてよ。周くんも好きな人いるでしょう？」
「え？」
「それで、悩んでるでしょう？」
周は、視線を泳がせた。好き…なのだろうか。
「好きじゃ、ないと思う」
無意識に、ぽろりと出た言葉だった。でも、だから、真実の気がした。
「香奈さんは、身代わりの俺でもいいの？」
囁くと、香奈の腕の力が強まった。ふわりと、髪から甘いかおりがする。
「嘘でもいいから、好きって言葉が欲しいとき、ない？」
柔らかい肌。素肌の温もり。自分を翻弄する指。そう言うものに、身を任せたい時が。
「そうだね…」
周はそう呟いて、香奈に深く口付けた。

「ごめんね」
香奈が、布団から顔を半分だけ出して呟いた。周は起き上がって、ベッドの背に凭れていた。半裸でも、夜の空気は暖かくなっていた。夏が近いと、実感する。
「謝ることないでしょう？お互い様なんだから」
傍らのテーブルに置いていたコーヒーを一口飲んだ。香奈は、うん…と歯切れ悪く頷いた。
「何？」
周は香奈の髪を掻きあげて、微笑んだ。その仕草に、香奈は大きくため息をついた。
「周くん…女遊びがすぎるんじゃない？」
「ひどいなぁ。そんなことないです」
「じゃぁ…苦しい恋をしてるとか」
その問いには、周は答えられない。恋なのかどうか、わからないから。
「ごめんね」
「だから、謝らないで下さいって」
香奈は、違うのよ、と言いながらもぞもぞと起き上がって、シャツを羽織ると、布団に座った。月明りに、白い肌が艶かしい。
「好きなのは、尋由さんじゃないんだ」
そう言って、もう一度ごめん、と謝る。
「コーヒー、いる？」
「あ…水、くれる？」
遠慮がちな声に、周は笑ってベッドを降りた。
「飲んでたもんね」
くすくすと笑いながら、キッチンへ消えて行く。それからすぐに、コップとミネラルウォーターをボトルごと持ってきた。そのコップを渡しながら、呟いた。
「知ってた」
「え？」
「香奈さん、穂積さんが好きなんでしょう？」
香奈が、あっけにとられる。
「でも、俺じゃあ代わりにならないよ？」
そうにやりと笑うと、香奈はふっと笑った。
「本当は、尋由さんを奪えれば良かったんだけど」
自嘲気味に笑う。嫌な女、と呟く。
「兄貴、固いからな。それで兄貴の大事な弟の、俺にまわって来たってわけか」
役得、と周が笑うと、香奈はすまなそうに目を伏せた。
「何でも知ってるのね。ばかみたいだね」
「良いって、言ったでしょう？」
その香奈の気持ちをわかって抱いたのは自分だ。
―――多分、その方がひどい。
香奈は、穂積が周を尋由の代わりにしていることは知らない。抱かれていることを、知らない。
香奈が穂積を好きなのは、前から気付いていた。視線が、穂積に向かっていることは。
知っているのに、その穂積に抱かれている自分が香奈を抱く…
嫉妬したのかもしれない。
香奈のその視線に。気持ちに。
何であれ、香奈を抱くときに、残酷な気持ちが芽生えたのは、否定できなかった。
恋じゃない。
それならば、この気持ちは一体、何だろう…

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