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la vison 第二話
07
「それで?何で喧嘩なんかしたんですか?」
仕事熱心なはずの尋由は相変わらず、周のことになると例外だ。ばさりばさりと片付けられていく書類を受け取りながら、仕事中だというのに珍しくプライベートな部分で話し掛けてきた。
「周は何も言ってないのか?」
穂積が今日何杯目かわからないコーヒーを飲みながら、ふっと息を吐いた。穂積は滅多なことでは仕事に支障をきたさない。でもその分、本人の身体の負担になるようなことをするのはやめて欲しい、と尋由を始めとするスタッフ達は常々思っていた。たとえば、こんな風にコーヒーをがぶ飲みしたり、煙草を異様に吸ったり。大概が同時にやるので、胃の負担はかなりのものだと思うのだ。
「あなたのこととなると、周は絶対俺には何も言ってこないんです」
皮肉をこめた口調で尋由が冷たく言った。何だといっても周を可愛がっている尋由は、穂積とのことになると、絶対に周の味方をするのだ。
「じゃあ、どうしてそんなことを聞いてくる?」
あれから、周は「どういうことだよ」と搾り出すような声で穂積に問い掛けたが、穂積は答えられなかった。ただ、周を縛り付けないためには、それが一番いいと自分に言い聞かせていた。
「こういうときにあいつが逃げ込むのは、俺の親友のところですからね」
一真か、と穂積が呟いて、人が出払っていて事務所には他にスタッフがいないのを確認した。それから、後ろの窓を少しだけ開けて、煙草に火をつけた。
「それなら、理由も聞いてるんじゃないのか?」
「指月さんのパートナーになるのに反対しているんですって?」
尋由は煙草を吸い出した穂積にやれやれと思いながら、とんとんと書類を揃えた。
「そういうわけでもないんだが」
「じゃあ、どういうわけなんですか?」
「おまえは、どう思う?」
質問に質問で答えられて、尋由は一瞬眉根を寄せたが、その質問をすぐに理解して、ああ、とため息をついた。
「ドイツでのことを考えると多少は引っかかりますけど。指月さんの仕事自体は私も含めて誰もが認めてますから。だからそこで色々見聞きできる立場になれるなら、周にとってはプラスにはなってもマイナスにはならないでしょう」
そう、客観的に、冷静に考えればそうなのだ。だから、穂積は反対するべきではないとわかっている。
答えたと言うのに、今度は黙り込んだ穂積に、尋由は小さくため息を吐いた。穂積の思いを、少しわかった気がした。多分、尋由も同じような気持ちを持っている。
「いつかの、あのときと同じ理由で、突き放すつもりなんですか」
周の未来を、潰さないために、あのとき穂積は手を離した。
穂積が紫煙を長く吐き出した。それから、ゆっくり尋由の顔を見る。
「俺は、自分が怖いんだ」
「知ってますよ。穂積さんが臆病なのは」
「相変わらずきついな、おまえは」
「周が甘やかすからです。まったく……」
互いに互いのことばかりを考えているこの二人は、端から見れば苦笑ものだ。でも、二人のことをずっと見ていた尋由は、笑うことが出来ない。
「どうせ、きちんと話なんてしていないんでしょう?ちゃんと話し合ったら良いんです。答えは、周がくれる」
尋由のため息混じりの声に、穂積が二本目の煙草に火をつけながら、小さく笑った。
「おまえ達、やっぱり兄弟だな。似てるよ」
その、確信に満ちた声も、真っ直ぐさも。そして、今回のことも。
尋由も、穂積の気持ちをわかっていながら、仕事上のパートナーとしてずっと隣にいた。そうやって人を支えることが出来るのが、この二人なのだ。
「何を今更。当たり前でしょう?」
尋由はそう笑ったが、だからこそ、穂積は不安なのだと思っていた。
部屋でごろりと寝転がりながら、周は天井をぼんやりと眺めていた。小さなアパートは、天井も低いな、となんとなく考える。尋由の部屋も、穂積の部屋も、もっと高い天井で開放感がある。
すぐに穂積のことに流れる思考が嫌で、テレビをつけっ放しにしていたが、何が映っているのかさえ、周にはわかっていない。
帰ってくれ。
穂積の言ったその言葉が胸を抉る。そんなことは、一度も言われたことがない。
厄介な荷なのかもしれない。
周はそうならないように、努力をしたつもりだった。でも、間に合わなかったのだ、きっと。
周が勝手に変えた、天井の明かりの和紙のフードから、柔らかい光が落ちていた。それを、周は見るともなしに眺める。食事をする気もなく、仕事から帰って来てずっと、こんな調子だ。こういうときは、一人暮らしも良いな、と思う。穂積にも、尋由にも、一緒に暮らそうと言われたのだ。でも、ただ早く一人で立ちたいと思っていた周は、それを断った。
並ぶことなど出来ないかもしれない、と周は半分諦め気味に思っている。どれだけ自分が頑張っても、穂積にも尋由にも、きっと敵わないのだと。でも、それを追いかけることをやめることは出来なかった。だからこそ、指月を利用する、という形で引き受けたと言うのに。
それに、そうすることで、指月はもうそれ以外の関係を迫ってこない。
あのときの、穂積のじっと何かを睨むように見ていた顔を思い出す。その視線が、自分を見ていないとわかるだけで、周はとてつもなく不安だった。目を閉じて、それを追い払おうとしたところで、チャイムが鳴った。周は反射的に起き上がって、ドアを見つめた。時計を見れば、九時を過ぎている。追いかけても来なかった穂積がやってきたとは思えなかったが、周はどこか緊張した面持ちで覗き窓から外を見る。
そこに見えた顔に、周は苦い顔をした。それでも、開けなければ無理やりにでも入ってくるだろう兄に、仕方なくドアを開けた。
「……悪かったな、俺で」
尋由はそう言いながら、それでも少しも悪びれずに部屋へと上がってくる。その背中に、周はため息をついた。一人でいたくなくて、一真のところに行ったのだから、こうなることはわかっていたとしても、だ。
「どうせ食べてないんだろ?」
尋由はそう言いながら、コンビニの袋を差し出した。覗くと、ビールも入っている。
「兄さんは?今まで仕事?」
「ん?ああ。手のかかるのが約一名いるからな。終わるものも終わらない」
仕事面では、穂積は全く手などかかっていないのだが、尋由はわざと曖昧に言う。周はふいっと黙って、袋の中身をテーブルに並べて、コップや箸を取りにキッチンへ行った。
静かなまま食事を始めても、二人はそれほど気まずくはない。それが兄弟なんだろうか、と周はぼんやり考えていた。
空になったグラスに、ビールを注ぐと、ありがとう、と返された。周はそのまま、自分のグラスも満たす。
「仕事、どうだ?」
一通りの食事を済ませると、尋由が聞いてきた。
「うん、面白い。みんな良い人だし」
そうか、と微笑む尋由を、兄だな、と思う。
「それから、指月さんのパートナーとして修行することになった」
もうきっと知っているだろう、と思いながらも、周は簡潔にそれだけ言った。すると、尋由はくすり、と笑った。きっと尋由は賛成も反対もしない、と周は思っていたのだが、思わぬ反応に、思わず尋由を見つめる。
「まったく、俺たち似たもの兄弟で、俺は嬉しいやら不安やら」
尋由が、そんなことを言う。それから、周が眉根を寄せたのを見て、また微かに笑った。
「なんだ、気付いてなかったのか。おまえ、俺と同じことしてる」
言われて始めて、周は気付いた。
そう、尋由も穂積の気持ちをわかっていて、でもそのパートナーであり続けた。そして、今度は周が、指月の気持ちを知っていながら、そのパートナーになるのだ。
でも、と周は思った。
「同じじゃないよ」
「周?」
「指月さんのパートナーは、きっと別にいる。俺には、それは勤まらない。勤める気も、ない。それに、指月さんは俺を好きなわけじゃない」
周は、指月や穂積に何度となく繰り返したセリフを、尋由にも言った。尋由は、そんな周をじっと見ていたが、ふっと息を吐いた。
「そうだな。周がそう言うなら、そうなんだろう。指月さんのパートナーは別にいるんだろう。おまえは、人を見る目を間違えることはない。それでも、そこで修行をするというのなら、言わなくてもわかってるだろうが、手を抜くな」
「抜くわけない……」
「そうだな」
笑った尋由から、周は思わず視線を外した。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。
指月も、穂積でさえも、周の言う「本当のパートナー」の存在を、信じてはくれなかった。それは周にとっても、確かに感覚的なものだったけれども、確信ではあった。それを尋由は、何も言わずに認めたのだ。
尋由が兄でよかったと、周は思った。それは、幼い頃から何度も思ったことだったが、多分一度も口にしたことがない思いだった。
「大丈夫だよ。おまえはおまえの思うようにやればいい」
そう言う尋由に、周はただ「ありがとう」と言った。きっと、それだけで足りるだろうと思った。
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