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満ちてゆく月欠けてゆく月

07
 その日はそのまま仕事にならず、凱旋祝いだと夕食は大宴会になった。工房主のフェルディナンドもなんだと言ってレオーネを気に入っていたし、仲間達もレオーネの帰郷は嬉しかったに違いない。
 はあっと、小さくルカはため息をついた。ちょっと酔った、と食堂を抜けて、台所に水を飲みに来たところだった。
 ルカはなるべくレオーネに近づかないでいようと思った。だから、食事の間も遠くにいたし、自分から近寄ることはしなかった。ときどき、何か言いたげなレオーネの視線を感じることがあっても。
 一年経って、忘れられると思った。諦めて、仲間として見ることが出来ると思った。でも、気持ちと言うのはそんな甘いものではない、とルカは知った。ざわざわと、壊れそうなほど心が揺れるのがルカはわかる。レオーネの、あの笑顔に。特に、ルチアーノを見る慈愛に満ちた視線は、ルカを苦しめた。嫉妬などという醜い感情を持つことさえ許されないとわかっているのに、暗い激情のようなものが湧き出るのを止められない。
 あのとき抱かれたのは、レオーネの誤解からだと今ではルカは知っている。フェルディナンドのモデルは、抱かれもするのだと、あれから少ししてからルカは知ったのだ。
 自分はそんなことはなかったが、それは子供過ぎたからだろう、とルカは思っている。実際、今はジェレミアを恋人としているようだと聞いた。
 あのとき、レオーネの言っていることなどわからなかった。でも、きっと夜毎、ルカはフェルディナンドに抱かれていたのだと、そう思っていたに違いない。
 それは誤解だと、何度言いたかったか。でも、そう知ったときはレオーネはローマに行ってしまったし、今になっては、それはどんな意味もないと思った。
 つまりは、レオーネは純粋にルカを求めたわけではないのだろうから。男に抱かれる、その身体を欲しただけだったのだろう。
 そう考えることはひどく屈辱的で、哀しかったが、あのとき確かに、愛の言葉など語り合ったわけではない。気持ちは違ったとしても、求めたものはルカだって大して変わりはないのだ。
 ただ、抱かれたかった。レオーネが夜毎に愛す誰かと同じように。
 ふうっとため息をついてコップをすすぐと、ルカはもう部屋に帰ろうと思った。しかしふと振り返った先に、ルチアーノが立っていた。
「あなたが、ルカ……」
 ルチアーノは戸口に立ったまま呟いた。月明かりを背にしていて、表情はルカにはわからない。
「ああ、結局きちんとご挨拶出来ていませんでしたね。この工房に来てまだ二年足らずのルカです」
 ルカがそう言いながら手を差し出そうとしたら、ルチアーノがふいっと部屋の外に出た。それから、「あなたの絵を見せていただけませんか」と笑わない顔で言う。
 淡い月明かりの下で、その姿は儚く美しかった。ルカは知らず目を伏せた。
 ただ自然に、レオーネの隣に立っていた姿。そこにいることが、当たり前なのだ。
「ええ、いいですけど。明かりが十分ではないですよ?」
「わかっています。でも、見たいのです」
 ルチアーノの真剣な顔に、ルカは「では」と工房へ促した。
 台所から持ってきた明かり油を工房の四方に置いてあるランプへ足して、工房を照らす。ここのところ、ちょうど期日の迫った注文が重なっていて、工房は煩雑だった。
 その中を、ルカは真っ直ぐ自分が描いている絵に向かって歩いた。大きな絵ではない。
「今描いているのがこれです」
 ルカが自分の持っている明かりでそれを照らすと、ルチアーノははっと息を呑んだ。
 自分やレオーネとは全く違う描法だ。でも。
 どちらが優れているか、ということではなかった。陰影に凝ったその絵は、好みの別れるところかもしれない。でもこの聖母の微笑を、忘れることはできないだろう、と思った。
「素晴らしい誕生の絵ですね」
 ルチアーノがそう言うと、ルカは照れたように礼を言った。
 絵で勝負をしようと、ルチアーノは思っていたわけではない。でも、純粋な好奇心と向学心、そして……やはり、ライバル心があったのだろう。
 ローマ滞在の間、レオーネとルチアーノの間で、ルカの話題が出たことは、一度もない。でも、ルチアーノは知っているのだ。レオーネの心に棲んでいるのが、誰なのか。
「私やレオーネの絵とはまた違いますが……この構図もよく考えられている」
「ルチアーノはやはり繊細な髪の線描などに凝った絵を?」
「ええ。父からレオーネ、そして私へと受け継がれたものですから」
 そう言ったルチアーノを、ルカは少しだけ羨ましく眺めた。父のことなど、もう考えたことがない。絵のことは、父は全く興味を示さなかった。どちらかと言うと彫刻などの立体の方を好んでいたのだ。
「あなたの絵も見てみたいな」
 ルカが言うと、ルチアーノはにっこりと笑った。やはり美しい少年だ、とルカは思う。
「まだ片付いていませんし、絵の注文もこれから受けるのですけどね。工房の方にはどうぞいつでも来てください。―――レオーネも、きっと喜びますから」
 最後の一言は、意地の悪い一言だと、ルチアーノは自分で言っておいて思った。でも、言わずにはいられなかったのだ。
 どうか、レオーネを取らないで欲しいと。
 そう言うことが、出来ないのだから。
 ルカは一瞬動きを止めて、それから何事もなかったように、ありがとう、と微笑んだ。それがひどく切なそうなのが、ルチアーノには不思議だった。


 薄く春の光が差し込む工房に、シュッシュッという音が小さく響いていた。薄くピンク色に塗られた紙の上を、細く鋭い銀色のペンが滑る。
 銀筆は細く細かい線が描けるから、ルカはわりと気にいっていた。ただ、紙の下準備が必要で、一度描いたら修正が出来ないのが欠点だった。
 目の前の椅子には、きれいなドレープを描いた布がかけられていた。それを見て、その布を描きたいと思ったのだ。
 生身の人間に着せて描くと、時間に制約ができる。今日はただ没頭したかったルカは、中には足らしい木を入れて、その布をもう一時間以上描いていた。襞の一つ一つ、陰影も質感も、妥協を許さずに描く。
 赤い布の、その色までは描ききれないな、とルカは思った。淡い光に落ちた影が、深く美しい赤を作っている。
 ―――彼は結婚を望んでいないようですから、私がずっと一緒にいようと思っているのです。他に弟子を取るつもりもないようですし……。
 窓の外を鳥が通って、さっと一瞬、影を作る。ルカはそれにはっとして、じっと見つめていた紙面からふいっと視線を外した。ふうっとため息をついて、ペンを握り直す。
 ―――彼が私に向けてくれている愛は、私が望むものではありません。でも、それでもいいのです。ただ、傍にいられるのでしたら。
 なだらかで美しいドレープが、次第に出来上がっていく。ルカの手は、再び止まるところなく動いていた。
 レオーネやルチアーノの絵では、ドレープは飾りの一種だ。現実味より、装飾としての役割のほうが大きい。
 似ていた。
 ルチアーノの描く聖母も、天使も、レオーネの描くそれととても良く、似ていた。
 元は父親の筆だと言われても、レオーネとルチアーノは、確かに共有するものがたくさんあるのだ。
 二人は絵でも繋がっている。そう思うと、醜い嫉妬心が湧き上がってきて、ルカは泣きたくなる。その醜さを、誰にも見せたくはない。
 傍にいられるだけでいいと言ったルチアーノの、寂しげな、それでいて満たされたような笑顔を思い出す。
 それならば、傍にさえいられなかったら。
 例えば、自分のように。
 今日の午後、ちょうど橋を渡る用事があり、ルカは思い切ってレオーネの工房を訪ねてみた。でも、生憎レオーネは不在で、にこやかにルカを招き入れてくれたのはルチアーノだった。
 本当は、少しほっとしていた。レオーネに会ったら会ったで、どうしたらいいのかわからなくなりそうだったからだ。
 そこで、絵を見せてもらった。繊細な線に、なだらかで官能的ともいえる輪郭、美しく物憂げな聖母、それらが確かに、レオーネの筆に近かった。工房内で二人だけなのだから、描き上げる絵は二人の共同作業であることが多い。ルカ自身、昔はフェルディナンドの絵の背景を描いたりしたし、今でも一枚の絵全てを自分が描いていることはない。
 たった二人、別々の筆が、一枚の絵となるように仕上げていく。
 その空気は、どれほど濃密だろうか。
 ルカは立ち上がって、布の後ろ側にまわった。裏側は描かないが、ドレープがどのように繋がっているのか見たかったのだ。
 ルチアーノは、美しく聡明な青年だ。きっと、ただの弟子からもっと大切な、恋人のような存在になることだろう。それはルカには、容易に想像できた。実際、揶揄っている人間もいるのだと聞いたこともある。
 傍にいるだけなのだと、ルチアーノは言った。でも、それを心底望んでいる人間がいる。
 レオーネの傍に。
 どれだけ願っても、それは望めないのだとルカは知っている。
 細く白い指で、ルカは目下の布をするりと撫でた。絹の柔らかく繊細な手触りに、何度も、何度も。
 この布は、遠い東の国から持ってこられたものなのだという。その端布を、フェルディナンドが手に入れてきたのだ。誰か、美しい貴婦人のドレスになった布だ。
 近くにいるから、余計に始末が悪い、とルカは思った。
 遠くローマにいるときは、これほど胸は騒がなかった。会いたいと思っても、行けないことはわかっていたから、その疼きも治められた。
 今は、会いたいと思えば会える距離にいる。ただ、だからと言って用もないのに会いに行けるはずがない。
 苦しいのは、そのことだった。
 いっそうのこと、離れてしまえばいい。諦めのつく、距離まで。
 ルカは銀筆をおいて、近くの机の上から一通の封書を取り上げた。そこには、ミラノ公国からの招聘の要請が書かれていた。

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