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シュレーディンガーの猫
08
すぐに、忘れられればいいと、響貴は思う。坂倉と会ったことも、抱き合ったことも、あの手も、指も、髪も、目も――――
あの、温もりも。
気付いたときには、響貴は前と変わらぬ部屋の中にいた。財力と権力を精一杯見せたような、それでいて自分のものなどない、吐き気のするような部屋だ。坂倉の部屋が殺風景だった分、そのけばけばしさが鼻についた。その辺にあるものを手当たり次第投げたかったが、腕があまり言うことをきかなかった。立ち上がるのも、辛い。身体に奇妙な異物感を感じて、やっと昨晩の記憶の破片を思い出す。
帰ってきてすぐ、都住に抱かれたのだ。
何もなかったように、抱かれた。ほとんど感覚がなかったのに、そんなことは構われなかった。
思い出して、吐き気が襲う。なんとか這うように行った洗面台で、何も食べていなかった胃からは、胃液しか出てこなかった。
以前なら、笑った。
こうやって、抱かれた後に吐きながら、都住の弱みになっている自分を、笑った。都住を嘲るように。
もう、笑えない。
笑うことが、できなかった。
ここから逃れることは、出来ないのだ。自分は都住響貴にはなれないのに、それ以外のものになることも、許されない。
響貴はそのままずるりとそこに座り込んだ。動くことさえ、出来なかった。閉め忘れた蛇口から、水の流れる音がしている。
何の意味があるのだろう。
ぼんやりと座ったまま、響貴はその水の流れる音を聞いていた。
生きていることに、一体何の意味が、あるのだろう。
響貴がいなかった一ヶ月ほどの空白を埋めるように、都住は毎日のように抱きに来た。響貴が坂倉に抱かれたことを知っている都住は、自分の罪悪感が薄れたように錯覚したのだろう。以前よりも、快楽を楽しむようになった。もうこの男の目には、響貴は娼婦のように映っていた。
――どこまでも、都合のいい。
響貴はそれに、されるがままになっていた。でも話すことを忘れたかのように、一言も口を開かない。
変わったのは、外には一切出られなくなったことだ。ただ都住の性欲処理のために、飼われている。食事をし、眠り、抱かれ、一日が過ぎてゆく。空いた時間には、ただずっと、ぼんやりと外を眺めていた。それも床に座って、ときどきじっと影を見つめたりするのだ。佐々原が話し掛けても、全く反応を示さない。まるで、人形のようだった。
ずっと、手首だけを撫でている。今では、新たに跡がついたというのに。
されるがままだった響貴が、都住に手首を縛られるときだけ、抵抗した。都住がそれを楽しがると言うことにも気付かず、ただ、闇雲に。結局それは、都住の征服欲を満たしただけで、それから何度も、手首を締められた。
忘れてしまえばいいと思う。これから気の遠くなるような日々がある。その日々を迎える中で、あの男との記憶は儚すぎる。名前さえも、知らない。
知っているのは、あの手。
声。
哀しそうだった、目。
温もり。
唇の、感触。
残されたものは何もなくて、ただ自分の中にある、記憶だけ。それが幻だと言われて、違うとどう証明できるだろう。
「何も、なかったんですよ」
佐々原が、そっとそう囁く。佐々原には、何度か抱かれたことがあった。都住に言われて、初めて響貴を抱いたのも佐々原だ。でも、それ以来抱くことはなかったのに、響貴が戻ってきてから、何度も抱かれた。
つっと自分の影を指先でなぞる響貴に、他の誰かの影が重なる。それは佐々原以外の誰でもなく、そんなときは、大抵ベッドに連れられる。
「何も、何もなかったんです」
忘れると言う言葉さえ使わずに、佐々原はそう囁きつづける。そして、分かっていて手首を縛る。そうしておいて、響貴が哀願するまで、犯しつづけた。
響きの声が聞けるのは、そのときだけなのだ。それでも響貴は、言葉を発しなかった。何度責めても、聞こえてくるのは喘ぐ声だけで、名前さえも、呼ばれない。
ただ、目が訴えることを妨げることは出来なかった。どうにもならなくなったときにふと合わされる視線に、佐々原は陥落する。
どうやっても、拭い去ることが出来ない。あの男の記憶を。
最後に突き上げる瞬間に、閉じられた目の中で見えているのは、決して自分ではないことを、佐々原は知っていた。
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