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そのポスターが街に溢れたのは、秋口のことだった。秋の新作化粧品の宣伝ポスターで、ルージュの宣伝だと言うのに、全面に東が使われている。白いシャツの胸をはだけさせて、じっとこちらを見つめる東の首に口付けようとしている女性モデルというパターンや、寝転んでいる東に口付けようとしている女性モデルというようなパターンがあって、いずれも髪や影、東の大きな手で遮られて、モデルの顔はあまりはっきりと映っていない。ただ、その唇には、もちろん新作のルージュがひかれている。
東の真っ直ぐな視線とそのきれいな瞳に、俺は思わず立ち止まりそうになった。じっと見詰め合うような錯覚を起こさせるこのポスターが盗まれているというのは、少しわかる気がした。クラスの女の子達も、セクシーだ、と騒いでいる。
それと同じ頃、親父が帰ってきた。相変わらず元気で、ほっとした。寒いから防寒用に、と付けたらしい肉に、ちょっと大きくなっていたけど。
「今回はどれ位いるんだよ。また戻るの?」
「ああ、まだちょっと撮り終わってないところがあるっていうか、心残りがあるからな。一仕事したら、行くわ」
「一仕事?」
さんざん寒いところにいたためか、まだ少し暑さが残る鍋には早い季節に、ちり鍋を食べたいと言った親父に俺は苦笑しつつもその用意をしてた。
「テレビの対談だって。鷲見から来たから断れん」
一体何を話せば良いのか、と親父が困っているのを尻目に、俺はそういえば、東がそんなことを言っていた、と思い出した。
あれから、連絡はない。東が忙しいのは元からで、俺も学校が始まってしまったらそうそう平日に飲めるはずもない。でも、何よりあの別れ方が、ひどく嫌だった。
仕方がない、と諦めてしまうのは俺の癖だ。そういう厄介なものから目を逸らして、時間に任せる。
鍋が出来て、二人で差し向かいに食べた。買ってきていた日本酒に、なんだおまえ酒飲みになったな、と言いながら、嬉しそうな顔をした。東から教えてもらった、手ごろな値段の美味しい酒。飲み比べだ、とか言って、色々飲まされたこともあった。おかげで、自分の好みなんかもわかったりして、面白かった。
「イズル、おまえ誰かいい人が出来ただろ」
東のことを思い出しているところにそんなことを言われて、俺は危うく口に入れたしいたけを飲み込みそうになった。
「つっ」
熱いのに、一口は無理だ。慌てて、グラスに手を伸ばす。
「いい人って親父、時代遅れな……」
「じゃあ、彼女って言い直そうか?」
からかう口調でそう言った親父は、それもなんか違うんだよなあ、などと首を捻っている。
「恋愛はともかく、いい人、だよ」
「なに急に」
「いや、前よりこうちょっと素直になったと言うかなんというか」
親父は最初から俺に化けの皮を被らせてくれない。だからたいして変わっていないと思ったのに。そんな、わかるんだろうか。
そう言えば、学校でも、夏休みに何かあった?と聞かれた。別に、と答えたが、そう聞かれることがおかしいのだ。
「いいことだよ。って、人様に頼ってそんなこと言う親は失格だろうけどね」
親父がそう言って、ふらりと壁のパネルを見上げた。雪の中、一心に空を見つめる二人の子供の写真。二人の子供は、俺と実だ。気に入っているのだろうが、写真集に入っているのを見たことはない。
実のことで、俺は母のことを思い出した。
「言い忘れてた。母さん、再婚した」
ふいっとグラスに伸びた手が止まった。それから、そうか、とほっとしたように、少し淋しそうに笑った。親父は多分、今でも母を愛しているのだろう。でも、だからこそ、今の仕事をやめられなかった。それが、最も親父を親父らしくしているからだ。そこに惚れたのだとは、母がちらりと言ったことはある。でも、結婚はそれだけでは上手く行かなくて。
「母さんは会って欲しくなかったみたいだけど、実連れて会いに来てくれてさ。いい人だった」
親父は、うん、そうか、と頷いている。
「悪かったな。おまえにはいつもしんどいところを見せてる」
離婚のときも、今回も。
「うん、でも、俺は親父をこれで結構尊敬してるんだ。それに、母さんのこともわかる」
俺がそう言うと、親父が一瞬惚けた顔をしてから、にやりと笑った。
「やっぱりおまえ、誰かいるだろ?それとも何かあったか?」
「何でそうなるんだよ。誰もいないし、何もない」
そう、何もなかった。
俺は親父のグラスに酒を足し、鍋にも材料を放り込み、ほら食べないと、と親父の皿に色々のせ、東のことも、あの部屋のことも、時間のことも、みんななかったことにしよう、と思っていた。
東と再会したのは、「earshot」だった。前回と同じように、仕事仲間と一緒に来ていて、でも、俺のほうは見なかった。酒が入っても、決して東仕様は崩れない。外では、あんな風には酔わないのだ。スマートで、我侭を言わない東。飲めよーとふざけて人のグラスに酒を入れることなんてない。自分も、ぐいぐいと飲んだりしない。
忘れようと思ったのに、思い出せるのは、切ないのだと知った。
ふいに呼ばれて、俺は洗い物から顔を上げた。岸さんが呼んでいる。
「はい」
「あそこの席の子がさ、イズル呼んでって。武内困ってるからさ、ちょっと行って来てあげて」
そう指差された先は、東たちの席だった。確かに、ウエイターの武内さんが困ったようにこっちを見ている。騒がしくはしていないが、我侭で有名な女性歌手がいた。どうやらその人が、俺を呼んでいるらしい。
はい、とオーダーの飲み物を渡されて、俺は仕方ないとそれを持ってカウンターを出た。大丈夫ですよ、と武内さんに言うと、悪いな、と視線で謝られる。
「あ、来た。イズルくん、はいこっち座って」
そう言われても、俺はさすがに座れない。ここはそう言う店でもなければ、俺は仕事中だ。
「間宮さんはどうして僕の名前を?」
東だろうか、と一瞬思ったが、それはない気がした。というより、あって欲しくなかった。
「ウエイターさんに聞いた、というのは嘘で、鷲見さんがね」
ぺろり、と舌を出す様子は可愛らしく、この人も実は必死に自分の殻を守っているのかもしれないな、と俺は思った。武内さんのことも、きちんとさんづけだったし。
「嫌だな。またあのガキが、って悪い噂をしていたんでしょう?」
俺は立ったまま、飲み物を渡していく。ウエイターは武内さん一人なので、ときどき片づけを手伝ったり飲み物をこうやって出すことはあった。
東の前にドライ・マティーニを置いたら、ありがとう、と微笑まれた。完全に外面で、俺はわかっていたのに切なくなったのがわかる。もちろん、そんなことはちらりとも出さない自信はあった。
あの時間は、一体なんだったのだろう。
どうして、東はあんなことをしたのだろう。
「ええ?違うよ。鷲見さんはさあ、なんかもうでれでれでイズルは可愛いって話をするの」
あれは絶対そうだよね?とテーブル中の人たちに同意を求める。思ってもいなかったことを言われて、俺はリアクションに困った。でも、困った顔も外仕様だ。
「だから、一回話してみたかったの」
ね、座って、とまた言われて、俺は仕事中ですから、と今度は言葉に出して断る。
「大丈夫よー。いくら私でもこんなところでとって食べたりしないから。まあイズルくんは可愛いからそれもいいかも」
微かな自虐的なニュアンスに、内心首をかしげる。そう言えば、今のプロデューサーを他の歌手から寝取った、とか言われていたっけ。
「そんな心配はしてません、というより、僕にはもったいない」
「そんなことないよー?ほら、私って誰でも寝るって言われてるぐらいだし?」
酔っているのかな、とこのときようやく思い至った。笑って言いながら、泣きそうな目をしている。何か嫌なことでもあったのだろう。
みんなそれぞれ、そうやって抱えているんだ、と俺は彼女にひどく同情した。一度貼られたレッテルは剥がすのが大変で、でも、本当に最後にそれを剥がすのは、自分なのだ。
「それは、間宮さんが魅力的だからでしょう?男って確かに節操ないですけど、その分魅力的な人にふらふらっとね」
「そうやって、誑かしてのし上がる。それのどこが悪いっていうのよ」
間宮は呟くようにそう言って、ぐいっとグラスを煽った。目の前の男が、困ったようにそれを見て、俺に戻れと視線を遣してくれたが、俺はこれだけは言おう、とそれを無視した。
「悪くないですよ。あなたはチャンスを掴んだ。それで、自分の手に入れたいものを手に入れた。それによって誰に迷惑掛けたわけでもないでしょう?それなら、それでいいじゃないですか。まあ、ご自分が後悔しているなら」
「してないわよ」
間髪いれずに言った彼女に、俺は苦笑しつつ「だったらなお更」と言った。
「それに、そんなチャンスを捕まえたぐらいで、ヒットチャートにずっと名を連ねられるほど甘い世界じゃないでしょ?ゴシップはあくまでもいるかいらないかわからないスパイスみたいなもので、それで売れるのは週刊誌でCDじゃない」
言いながら、なんで自分がこんなに同情したのかわかった。彼女は、俺に出来ないことをしているからだ。噂が本当でも嘘でも、手に入れたいものを手に入れた間宮を、俺は羨ましかったのだろう。先に諦める、俺とは違って。
「イズルって……」
そう言って、はい?と営業スマイルを浮かべようとしたら、抱きつかれて出来なかった。
「わーっ、間宮さん、ちょっと」
「可愛い。イズルってほんと可愛い。鷲見さんの言ってた通り」
ほお擦りさえしかねない勢いで、俺は慌てて抱きついてくる腕を離そうとした。それが、思ったより軽く外れて、あれ?と見ると、東が間宮の腕を持って苦笑していた。ほんの少しだけ、多分素の東を見ている俺だからわかるくらいの、怒りをその目に宿しながら。
「場所考えろって。それにこの子、困ってるよ?」
ぽんぽんと頭をたたきながら、東がそう言っている。俺に向かっても、ごめんね、と外面笑顔で謝って来た。俺はそれに、やはり営業スマイルで、苦笑して見せた。
そう言うやり取りの方が、よほど堪えるのだと、また新たな発見をした。
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