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06
 翌日、親父は「出かけるぞ」とだけ言って俺を外に連れ出した。どこに行くのかと訊いても、答えてはくれなかった。
 真昼の太陽の光が容赦なく照りつける。撮影旅行のときも、親父はよく、行き先を言わずにふらふらと進んで行くことがあった。この一ヶ月、親父の背中ばかり見ている気がする。
 親父は昨晩のことも、何も言わなかった。俺が家に戻ったときにはもう東はいなくて、親父一人、腹を空かせて待っていた。飯は炊いたから早く食おう、と言われて、俺はただ頷いただけだった。
 電車に乗って数駅、俺たちが降りたのは新宿だった。親父は迷いなく歩いている。駅を出たあたりで、俺はどこに行くのかわかった気がした。途端、足を止めてしまう。
 会いたくない。
 腹の底が焼けるようだった。わき腹の上の麻のシャツをぐっと握る。もの凄く――心細いような気分だった。
「イズル?」
 呼ばれて、俺は曖昧に笑った。ひどく、ぎこちなく。親父はじっと俺を見て、ほら行くぞ、と促す。それでも動かない俺の肩を、ぐっと掴んだ。カメラを構えるその手は大きく、力強い。
「逃げてばっかりいるな。悪いが、俺は男の約束は守ることにしてるんだ」
 引っ張られて、俺は歩き出した。逃げるんじゃない、ともう一度、親父が言った。
 劇場の席に着いても、俺はまだ逃げたくて仕方がなかった。この劇の話のあらすじは、東から聞いて知っていた。その時、良くこんな劇をする気になったと思った。
「あいつも強いな」
 じっとパンフレットを見つめる俺に、親父が呟いた。パンフレットには、大きく赤い字で「誰でもない人」とタイトルが書いてあった。
「良く出る気になったなって、俺も言ったよ」
 俺たちにとって、これほど皮肉なタイトルはない。そのとき東は「イズルがいるからな」とぽつりと言った。大丈夫かと、思ったんだ、と。
 親父が何か言いかけたが、開幕の合図があって、劇場の明かりが消えた。俺はようやく覚悟を決めて、深く椅子に背を預けた。
 東が置いていったのだと言うチケットはとても良い席で、小さな劇場の前から三列目の真ん中だった。役者さんたちが、とても近い。
 とても近いが、とても遠い。彼らと俺たちの間には、確実な壁がある。
 少しだけ、ほっとする。ここには、俺が怖がる東はいない。ここにいるのは「俳優、藤原東」なのだ。
 だが俺は、別の意味で背筋を震わせた。劇が進むにつれ、ぎゅっと手を握り締めていた。東演じる「誰でもない男」の空虚さが、迫ってくるようだった。
 知っている、と思った。この空虚さを、俺は知っている。一体自分が何ものなのかわからない、学生だとか息子だとか、同級生だとか兄だとか、そういうラベルがないとどうしようもなかった、俺がいたことを思い出した。
 誰でもない男は、結局最後まで誰であるのかわからない。わからないまま、彼にラベルを付けていた人間は去っていってしまう。そして、男は一人、残される。誰でも、ないまま。
 この劇の演出家のことを東は怖い、と評していた。それが俺にもよくわかった。誰でもない男は、誰でもない故に、東に近い。素のままの東に、とても近い気がした。
 ――俺は、誰だ。
 取り残されて、そう呟いた東は、愕然としていた。あれは素のままの東じゃないかと思って、俺は立ち上がりそうになった。あまりに心許ない、泣きそうな顔をしていたから。
 舞台が暗転しても、俺はしばらく、呆然と東が立っていた場所を眺めていた。


 劇場から出ると、親父はそのまま、鷲見さんと飲む約束をしていると言って、新宿の街の中に消えていった。少しぼうっとした俺を心配していたようだが、俺は大丈夫だよ、と笑った。
 東に会いたかった。
 会って、東は東だろ、と言ってやりたかった。いや、そう言って、確かめたかった。東は、東だと。
 そう考えながら家に帰って、俺は一人の夕飯を食べ、ぼんやりとテレビを見ていた。なんでも良かったのだ。ただ、音がないと東のことばかり考えておかしくなりそうだった。
 手を離したのは自分なのに、今隣にいないことに、もの凄く苛々していた。なんだって今すぐ会えないんだろう。触れられないんだろう。
 俺は坐ったまま、ぐっと膝を抱えてテレビを睨んだ。今すぐにでも東のところに走って行ってしまいそうな自分が、怖かった。なりふり構わず、東を求めてしまいそうな自分が。
 そうやって坐っていたところに、玄関のチャイムが鳴った。立て続けに、何度も。
 酔った親父が帰ってきたのかと思った俺は、眉根を寄せながら立ち上がって、玄関に向かった。
 そっと覗き穴から外を見たら、東が立っていた。俺はびっくりして、すぐに何も見なかったことにしようと思ったのに、その思い詰めたような、訴えるような目が、気になってならなかった。一度くるりとドアに背を向けたが、結局、それ以上部屋の中には進めなかった。そのうち、イズル、と名を呼ばれた気がして、俺はどうにも焦れるような気持ちでドアを開けた。東は無理やり中に入ってきて、後ろ手にドアを閉めて、俺の腕を掴んで引っ張った。
 びくりと身体が怯えた。
 怖くて怖くて、離せと叫びそうになって、でも、そう叫ぶことも突き飛ばすことも出来なかった。
 あまりに、東が縋るように抱きついてきたから。
 泣きそうなほど、心細そうな表情をしていたから。
 あの、舞台の上でもそうだった。思わず駆けよって、大丈夫だからと抱き締めたくなったほどだった。
 そのときの東の顔を、父親は見たことがあるといった。俺が、同じ顔をしたのだという。
 どうにも抗えなくなって、俺は東の背に腕を回した。
 ――ああ、東だ。
 東の匂い。東の体温。
 逃げ出して、もう関わりを持たずにいようと思って、父親と旅に出た。その一ヶ月で、気持ちの上の色々なことを整理するつもりだった。
 でも、東を見たら、その声で名を呼ばれたら、気持ちの整理など出来ていないとすぐにわかった。逃げ回ってどこかに放っておいただけで、少しも過去の中のものとはなっていなかった。
「東……」
 怖かったのは、こうして再び触れてしまえば、それを求めずにはいられなくなることだった。何かを得ると言うことは、それを失う怖さも一緒に得たと言うことなのだ。
 ふっと東が顔をあげて、じっと俺を見た。それから、吸い寄せられるように、唇が落ちてきた。何度も、啄ばむようなキスが降る。でも、それはすぐに深いものになって、俺も無意識で必死に応えていた。
 胸の奥底、俺にもわからないようなところから、湧き上がるような痛みがあった。鈍く、淡い、でも、あまりに切ない痛みだった。
 それが、ぶわりと目から溢れ出た。
 どうして、と思う。
 どうして、この腕を、唇を、温もりを、知ってしまったのだろう。
「イズル……?」
 東が困惑した声で俺を呼んだ。はっとして、正気に戻ったような感じだった。
「ごめん……悪い」
 離れていく体温が、そのすぐ傍から恋しかった。俺はでも、縋ることは出来ずにその場に崩れるように坐った。
「イズル?」
 心配そうな、東の声がする。でも、伸ばされた手は戸惑って、触れてくることはなかった。
 込み上げる正体不明のものを堪えながら、俺は東を見た。
 どうしたらいいのか、わからなかった。怖いのに、それが欲しいと思う。苦しくて堪らなくて、助けて欲しいと思った。
 東がじっと俺を見てから、そっと腕を伸ばしてきた。この腕は怖い。一度抱かれたら、なくてはならないものになってしまう。そう思っても、それを待っているのもまた、俺自身なのだ。
 そっと頭を抱かれた。何度も、その髪をゆっくり、長い指が梳いていた。また、何かが目から溢れて零れた。涙の形をした、痛みだ。俺は縋るように、東の背中のシャツをぎゅっと握った。
 ああ、と思う。
 握ってしまった。この両手には、何もないはずだったのに。
「イズル、俺を切り捨てるな」
 東が、絞り出すような声で言った。
「何度でも、俺は追いかける。でも、もう、離れるな」
 俺は、何も言えなかった。
 頷くことも、できなかった。
 ただ、その東の声を聞いていた。


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