サイレント・ノイズ 第三話
――柔ラカイ光――
01
梅(メイ)があれほど喜んだ顔をしたのは、後にも先にもあの時だけだろうと、ジェイクは思う。情報屋冥利に尽きる、あの顔。
「見つけましたよ」
そう言ったとき、驚いた顔をして、泣き出すかと思った。涙は流れていなかったが、顔をくしゃくしゃにして、声も出さずに抱きつかれたのは覚えている。
メイは、孤独だったのだろうか。
組織の古株と言っていいジェイクも、メイの素性はわからない。薔薇が一輪だけでも気高いように、メイはいつでも一人、咲き誇っていたのだ。天性の美貌と知性に惹かれて集まる男は多かったが、メイはその誰とも、家庭を築こうとはしなかった。特別な男を、誰一人作ろうとはしなかったのだ。
そのメイが、唯一執着した男、それが弟だった。
幼い頃に生き別れた弟を、メイはずっと探しつづけていた。初めは一人で探していたのを、些細なきっかけで知ったジェイクが、手伝うことになったのだ。それは、ごく内密のことだった。だから今でも、メイに弟がいることは知られていない。知っているのは、メイとジェイク、そして当の本人である、ウォンだけだった。
「どこに行くんですか、ジェイク?!」
当然と言うか、成り行きと言うか、ウォンはジェイクについて情報屋見習いになった。メイは探し出したからと言って組織に入れる気はなかったようだが、ウォン自身がそれを望んだのだ。
一匹狼を気取っていたジェイクには、それは甚だ迷惑でしかない。それに、兼ねがね組むならカイと、と言っていたのだ。例えカイが組織の人間ではないとしても。
「ちょっと飲んでくるだけだ」
どこに行くにもついて来ようとするウォンに少々うんざりしながら、ジェイクはため息交じりでそう言う。俺はお前と組む気はない、そう何度言っても、諦めないのだ。
「昼間から?!」
「ここに昼間も夜もないだろう?」
電気回線をぶち切れば、いつでも夜のように真っ暗になる道を、すたすたとジェイクは歩く。今はまだ明るいその道は、地上と同じようにそのうち暗くなりだすだろう。でも、こんな寒々しい光が、太陽が照らす、昼間の光であるはずがない。
そのジェイクの後を、子犬のようにウォンがついてくる。十六になったばかりというウォンは、ガタイのいいジェイクよりずっと細く小さい。その姿は、ウォンの幼少期を語っているようで痛々しかった。ひょろひょろと長い手足。こんな光の下では、病的にも見える白い肌。漆黒の長い髪と瞳が、その白さを助長する。それがあまりに印象的で、情報屋向きではない。
「昼も夜も関係ないが、少なくともお子様の行くところじゃない。部屋で書類の整理でもしていろ」
ジェイクが立ち止まってそう言うと、ウォンはひどく切ない目をする。いつでも、そうだ。深い海の底をのぞいているような、悲しい目。ジェイクはその目に、ひどく胸が痛む。それが嫌で、いつも視線を逸らしてしまう。
「もう書類の整理なんて終わりました。仕事に行くなら連れて行ってくださいって、何度も言っているでしょう?」
そう噛み付くな、と言われるのはウォンもわかっているが、こんな風にしていないと、気持ちがどんどん暗闇に向かって行ってしまうのだ。だからウォンは、吠え続ける。
「仕事なんて言ってないだろう?飲みに行くときぐらい一人にしてくれ」
ジェイクはあくまでも冷淡な口調だ。そのわりに視線が合わないことを、ウォンは知っているが、それでも胸の奥を鷲掴みにされた気がする。
――こっちを見て。そうしたら、諦めるから。
視線を合わせられない、ジェイク。
ジェイクは優しい。こんなやり取りをするたびに、それを確認しなくてはならなくて、ウォンはいつも、泣きたくなる。
カイという情報屋がいることをウォンが知ったのは、組織に入って一ヶ月ほどした頃だった。滅多にまともに顔を合わせない他の仲間の顔と名前が、ようやく一致した頃だ。
「ジェイクはカイにべた惚れだから」
仲間たちはウォンのことなどとうに知っていて、ジェイクに邪険にされていることまで知れ渡っているようだった。優秀と言われる梅花の情報屋たちには、そんなことは調べなくとも分かることだ。
「カイ?……知らないな」
ウォンより二つ年上だと言う組織の中では年少組に入るジルは、そう呟くウォンの横顔を見つめながら、笑った。知らないのは当たり前。彼は組織の人間じゃないからね。
「フリーってこと?」
「あぁ。年は俺と大して変わらないのに、それで食ってるんだからすげぇよ」
そう言って、安物の混ざり物の多い煙草の煙を、ウォンに向けて吐き出す。ウォンが嫌そうに顔を歪めると、にやりと笑った。
「ジェイクがべた惚れって?」
「組むのなら奴とがいい、って言うのがジェイクの口癖。組織の人間じゃないのにな。それで、原則二人組みなのに、ジェイクは今まで一人で行動していたのさ」
梅花では、確かに二人一組で仕事をする。危険を避けるためと、情報の流用を防ぐためだ。
「そのジェイクと組んだってことは、お前は有望株ってことだよな」
さして羨ましくもなさそうに言ったのは彼の見栄で、本当は心底羨ましかった。別格扱いのジェイクと組んだ、この少年が。
「別に……そんなんじゃないよ」
今日だって、こうして置いていかれてしまっている。
道端の植え込みのレンガに腰掛けながら、足先をじっと見つめる目は、ひどく思い詰めている。そう言う表情が、ひどく似合うと、ジルは思う。だから抱きしめて、柔らかい表情をさせたくなる。それがもし、自分だけのものだと思えるなら。
ジルは反射的に、顔を逸らした。おかしくなってきている気がした。自分も同じ。彼のように、置いていかれてしまっている。パートナーのクリストフは今日も、部屋にいない。彼はウォンとは対照的に、金髪で、灰色の瞳をしている。
少しだけ、似ているのかもしれないと思う。誰をも受け入れているようで、奥の奥では全てを拒否している。でも、ウォンにはジェイクがいる。ただ一人、彼が無条件で身を委ねる人物なのだろう。そんな風に、ウォンにとってのジェイクであるように、自分はなれないのだろうか。
「ジル……?」
考え込み始めたジルに、ウォンが不思議そうに呼びかける。自分より二つしか上ではないのに、かなり筋肉質で、あまり少年の面影がないジルは、ずいぶんと大人に見えた。筋肉質と言っても、均整の取れた身体だ。細いのに、硬い。そんな感じで。
「日が暮れ始めたな」
「え?」
呟きにウォンが顔を上げると、周り中が、オレンジ色の光に染まっていく。それが、コンピューターでプログラムされたものだと分かっていても、二人はどこか淋しいような気持ちになっていた。