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椿古道具屋 第一話

懐中時計の神さま 07


 桐原千織の家は、坂を登った先にある豪邸だった。神鳥家もなかなかのお屋敷なのだが、千織の家はそれより更に数倍は大きかった。門扉から玄関まで四、五十メートルはありそうだったし、家は何十家族と住んでいそうなほどの部屋があった。もちろん、史朗たちはその部屋を全て見たわけではないが、千織の部屋に案内されるまでに見た扉の数だけで、二十はありそうだった。
 千織は、病に伏せっているとのことだった。椿屋に来たときも、確かにあまり健康的な印象は受けなかったと史朗は思い出す。線が細く、色白で、儚い雰囲気だった。思い返してみれば、色白と言うより青白く病的だったのだろう。
 お手伝いさんの話では、ここ数日、起き上がることもできなくなっているのだという。医者に見せても原因がわからず、日に日に衰弱していくと、屋敷中が心配しているとのことだった。
 命が危ないというのは、本当だったのだ。史朗と凪は顔を見合わせた。
 そんな状況だったので、始めは面会を断られた。だが、史朗の名を聞いて、千織が面会したいと訴えたらしい。
 部屋に案内された史朗は、千織の頬がこけたような姿に驚いた。つい先日は、まだ、ダイエットを少しばかりやりすぎた少女、といった様子だったのだ。
「椿屋さん……」
 呟いた声にも、力はなかった。今にも消え入りそうな、か細い声である。
「あの、具合は……」
「ええ。今日はまだ気分がいいの」
 千織はにっこりと笑ったが、客に気を遣ったのだと史朗たちにはわかった。学校を終えてからの訪問なので、もう夕闇はすぐそこに迫っている。茜色のその日の光が当たってなお、彼女の顔は青白く感じられた。
「今日は、時計のことで?」
「はい。でも、すみません。実は、時計が直ったわけではないのです」
 千織が目を伏せて、何度か瞬きをした。その表情には深い諦念みたいなものがあって、史朗は大きな罪を犯した気分になった。
「やっぱり、駄目なのかしら。時計も、私も……」
 呟かれた言葉に、千織の表情の意味を知る。弱っていた身体をおしてまで椿屋に来たのは、時計が直れば自分も治るかもしれない、と藁にも縋る思いだったのだ。
「その時計のことなんですが、少し教えてもらいたいことがあるんです」
 喋るのは専ら史朗だ。凪は隣で無表情に立っていた。一応、部屋に入ってきたときに紹介はすませている。千織が「神鳥さん……」と驚いたような声を上げたので、彼が聖アンヌでも有名なことがわかった。
 なんでしょう、と千織が首を傾げたので、史朗は訊くべきことを思い浮かべながら、口を開いた。
「その時計は、おじい様のものだったと言いましたよね? そのおじい様は、亡くなるときに何か言っていませんでしたか」
「さあ、あまり覚えていません。祖父は急に亡くなりましたし」
「時計については、何も? そもそも、あなたがその時計を貰うはずだったんですか?」
「いえ、違います。もともとは祖母が形見にと貰ったものでした。ですが、祖母は惚けてしまって、今は施設にいるものですから、私がそれを譲り受けたのです」
 少し長く話すと、苦しいようだ。史朗が傍らの白湯を差し出すと、千織は首を横に振り、それより椿屋さんたちこそ召し上がって、とお手伝いさんが置いていった紅茶とケーキを見た。
「では、おばあ様は何も?」
「祖母からは、譲り受けたといっても、惚けた後だったので、あまりわかっていないかもしれません。それまでは肌身離さず持っていたのですが、すっかり色々なことを忘れてしまったみたいで……」
 椿屋に棲む神様たちの意見では、時計様が彼女の代からいたとは考え難いということだった。ある程度の年を経なければ、神様は現われないのだ。ついでに、「隠れていた」と言ったかんざし様も、若造じゃあないねえ、と言っていた。ちなみに、見た目は関係ないらしい。
「そうですか……あと、あの、時計が止まる前に、何かしませんでしたか」
「何か?」
「えーと、落としたとか、傷つけたとか……」
 そんなことで命まで奪わないよ、と神様は言うだろうが、そもそも、そんなことはなかった、と千織は首を横に振った。
「祖父も祖母も大事にしていましたから、私も普段持ち歩いているわけではないのです。いつもここに木箱に入れてしまってあります」
 そう、傍らの引出しを差した。
 史朗がなんとか聞き出したいのは、時計様が怒ることになった原因だ。それがわからなければ、取り除くことも不可能で、神馴らしをしても、その御魂を本当に鎮めることはできない。
 凪は最初、そんなことはしなくてもいいじゃないか、と言う意見だった。所詮、それはあちらの事情。俺はやれることをやるだけ、と言うのだ。だが、史朗は頑固に頷かなかった。史朗も、やれることはやるのだと息巻いた。
「時計は、本当に自然に止まってしまったのです」
 手がかりは何もなかった。話している間に、時計様が出てきてくれないかと思ったが、ひっそりと身を隠している。
「あの、身体の方はいつから……?」
「半年ほど前からです。急に疲れがひどくなって……。同じ頃に、その時計も止まってしまったのです。だから余計に、なんとか時計を直したいと思ったのかもしれません」
 千織はすっかり諦めている。どうやらかなり切羽詰った状況であることだけは、史朗にもわかった。
「でも、もともと長く生きられる身体ではなかったのだから、今まで元気に生きてこられただけでも、幸せかもしれません」
 千織の目は遠くを見ていた。そのままどこかに行ってしまいそうで、史朗は思わず身を乗り出して、布団をぎゅっと握り締めてしまった。
 ずっと佇むだけだった凪が、ふいに動いた。だがその瞬間、ドアがノックされた。先ほどのお手伝いさんが顔を覗かせて、「そろそろ……」と退出を促しにきたのだ。
 史朗は幾分ほっとして、立ち上がった。凪はきっと、進展しない話に見切りをつけ、神馴らしをするつもりだったのだ。だが、史朗はどうしても、時計様を黄泉に落とすことはしたくなかった。
 時計様は、哀しそうだった。そう呟いたかんざし様の声が耳を離れないのだ。
「すみません。時計は、必ず直して持ってきます。そのつもりで、今日も持ってきませんでした。必ず、直しますから」
 史朗の言葉に、千織は「ありがとう」と微笑んだ。
 ぺこりと頭を下げてドアに向かったところで、ふいに千織が「そう言えば……」と声を上げた。振り返ると、何か思い出そうとしている。
「祖母が昔、こんなことを言ってました。千織が生きていられるのは、時計様のおかげよ。だからこれは大切にしてね。そう言いながら、よくあの懐中時計を見せてくれました」
 史朗と凪は目を見合わせた。鍵を握るのは、どうやら千織の祖母のようだった。


 お手伝いさんに連れられて、玄関まで向かう間、史朗は重苦しい家の雰囲気に呑まれそうになっていた。死期が近づいたものを抱える家独特の、沈痛な静けさと、息苦しさがあった。
 前を歩くお手伝いさんも、暗い顔をしていた。先刻は、ベッドの上で儚く微笑んだ千織に、痛ましそうな目をしていた。
「あの、千織さん、長く生きられる身体じゃなかったと伺ったのですが」
 史朗が声を掛けると、お手伝いさんはちらりと史朗を見て、ええ、と頷いた。
「わたくしは当時はこちらにお世話になっていませんでしたから、詳しいことは知りませんが、千織様は、生まれたときにとても小さな身体をしていたそうで、三歳まで生きられるかどうか、と言われていたそうです」
「三歳……」
 史朗が呟くと、お手伝いさんはそっと、エプロンで涙を拭った。
「それが、あんなに素敵なお嬢さまになられたのに……。ついこの間までは、お元気だったのですよ。それが、お医者様も治せないご病気だなんて。もうすぐ千織様のお誕生日もあるのに、それが迎えられるかわからないとおっしゃられて……」
 お手伝いさんは、何度も目尻を拭いていた。史朗はふと嫌な予感がした。
「あの、お誕生日は、いつなんですか」
「明後日です」
 その日だ。きっとその日に、時計様は千織を黄泉への道連れにしようとしているのだ。


 史朗と凪は、そのまま連れ立って、椿屋に帰った。神様たちに千織から聞いた話を報告するためだ。
 史朗が話し終えると、神様たちは一様に溜息をついた。
「坊や、あんた話し方が下手だねえ」
「ほんと。凪さまがちょこちょこ付け加えてくれたから良かったものの、大事なことまで言い忘れたりして」
 娘が儚くて涙が出そうだったとか、余計なことは言うくせにねえ、とかんざし様が呆れ顔をする。史朗はむっと頬を膨らませた。
「まあまあ。大事なことは訊いて来たようですから、それで良しといたしましょう。それより、これは何か、契りがあったのでしょうか」
 薬箱様に取り成されて、神様たちは今度は真剣に千織のことを考え始めた。
「そうじゃろう。娘子が三つのときまでしか生きられんと言われて、今まで生き長らえているのなら、時計様がその命を延ばしたのじゃろうな」
「じゃあ、延ばした命がこの次の誕生日までだった、ってこと?」
 史朗の問いに、織部様は頭を振った。
「それでは、荒ぶる必要がない。時計様が荒魂となって、一緒に黄泉に落ちることもない。そのとき交わした契りの何かが、破られたのじゃろうて」
「裏切られるのが、一番堪えますからねえ……」
 そば猪口兄様が遠くを見て、首を横に振った。
「その契りって、どんなもの?」
「わからんのじゃよ、史朗。それは、契りを交わした者同士しか知らん」
「時計様に会えなかったのは、残念でしたね」
 そば猪口様にしみじみ言われてしまって、史朗は悄然とした。そこにいたのかさえ、史朗にはわからなかったのだ。だが、凪は「いた」と素っ気なく言っていた。
「ともかく、後はそのおばあ様ですね。明日にでも、病院に行ってみたらどうです?」
 ところで、その病院とはどちらなのです? そう訊く薬箱様はにこやかだった。だが、史朗は「あっ」と口を開けて固まってしまった。
「もしや史朗……」
 神様たちの視線が痛い。
「調べる! すぐに調べて、明日行ってくるからっ」
 史朗の威勢の良い口調に、でも、神様たちは疑いの目を向けてくるのだった。


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