椿古道具屋 第一話
懐中時計の神さま 08
幸いなことに翌日は土曜日で、学校は休みだった。史朗はいつもならごろごろと昼頃まで寝倒すのだが、さすがに今日は早起きをした。と言っても、いくら考えても、千織の祖母の病院を知る方法は、桐原家に訊く意外思いつかなかった。だが、どう切り出せばいいのか。
――千織本人から訊くのが一番かなあ……。
ぼうっとした顔で歯磨きをしながら、そう考えていたときだった。「史朗、お友達よー」と、機嫌の良い母親の声がした。史朗が休日にもかかわらず早起きをしたことに、喜んでいるのだ。
この間はありがとうねえ、ほんと、立派になったわねえ。かっこよくて惚れ惚れするわあ。と、母親の煩い囀りが聞こえてくる。史朗は口をすすぎながら、眉をひそめた。
約束などしていない。昨日、始終いっしょに行動したと言うのに、あいつはちっとも喋らなかったから、病院のことを相談しようにもできなかった。大体、あいつは桐原家では一言も発していないじゃないか。俺ばっかり喋って! 病院のことくらい、あいつが訊けば良かったんだ!
史朗は理不尽とわかっていながら怒りの矛先を昨日の「永遠のライバル」に向けて、ぺっと水を吐き出した。
とりあえず、何の用だと居間に行ってみると、制服を着込んだ凪が椅子に坐って、コーヒーを飲んでいた。
「まあ、史朗ったら。まだ着替えてもいないし、頭ぼさぼさのままじゃない。顔洗ったの? 凪くん、お待ちよ」
お待ちも何も、約束などないのだ。煩い母親を台所へ押しやると、史朗は坐りもせずに凪を見た。
「何だよ。制服着てるってことは、学校じゃないのか」
萩桜は、補講なども盛んだと聞いている。もちろん、史朗たちのように赤点を取ったから、という理由ではなく、より高いレベルを目指すための補講だ。
「今週は休みだよ。それより、行くんだろ」
「は? どこに」
凪が呆れたような溜息をついた。
「病院だよ。桐原のばあさまに会いに行くんだろ」
何を当たり前のことを訊いてるんだ、とでも言うような口調だ。いや、確かに会いに行こうとは思っていた。だが――。
「病院、わかんないじゃん。まずはそこから――」
史朗の言葉を遮って、凪が隣の市の総合病院の名を挙げた。そこに併設されている、ケア施設に千織の祖母はいるのだと言う。
「なんで知ってんの?」
「いいだろ。とにかく、早く支度しろ」
かたん、と凪が椅子を鳴らして立ち上がった。そうなると、目線は結構上になる。やっぱり背が高いな、ちくしょう。史朗がそう思ったところで、ふいに手が伸びてきて、くしゃりと髪を掴まれた。
「ぼさぼさ」
覗き込まれて、笑われる。ほんの少し、目が細められただけの笑顔だった。だが、突然至近距離で、滅多に笑わない凪に微笑まれた史朗は、頬に血が上っていくのがわかった。
「うるせーよっ」
くるりと身を翻して、再び洗面所へ向かう。その耳の先まで赤くなっていたのは、凪にはしっかりと見えていたに違いない。
病院に行く前に、通りがかりだからと椿屋に寄った。アドバイスを受けたいと史朗が言ったのである。それともう一つ、史朗には考えていることがあった。
椿屋で病院は凪が調べてきた、と言うと、神様たちは「ほう」「凪さまが」「おやまあ」と感嘆したような顔をした。
「凪さまも、なかなかやるじゃない」
「ふふふ。史朗さまがどうしても、『宿帰し』したいって言うから、頑張ったのね」
「あら、お父様、水穂さまの斎庭でしょう? きっとご存知だったのでしょうよ」
娘神様たちが勝手なことを言いながら、きゃっきゃと騒いでいる。だが、史朗は「凪が神鳥のおじさんに何か訊くってのはないな」と心の内で思っていた。昔から、凪は何故か父親に強烈な対抗意識を燃やしており、その父親もまたそれを楽しんでいる風だった。何かを教えてもらうとしたら、頭を下げなければならなかっただろう。凪がそこまでするとは、史朗には思えなかった。
史朗は娘神様たちは置いておいて、織部様の前に膝をすすめた。
「頼みたいことがあるんです」
「なんじゃ」
「神様のどなたか、できれば時計様に似ている方がいいのですが、一緒に来ていただけないでしょうか」
使い慣れない敬語で喋ったために、ずい分と抑揚のない話し方になってしまった。史朗が恐る恐る織部様を見ると、考えている。
「千織さんのおばあ様は、惚けてしまっている。俺たちが話をしても、時計様とのことを思い出してもらえるか、わからない。もちろん、時計は持って行くけど、これだけで思い出すかわからないし……。だから、思い出しやすいように、こう、神様に出ていただければ……」
ふーむ、と織部様が唸った。似ている奴、と呟いているから、一緒に行くという部分は心配ないようだ。その隣で、同じように考えていた糸巻き様が、ぽんっと手を打った。
「だったら、あの子がいいよ」
「あの子?」
「鏡だよ。ほら、水屋箪笥に納まってる、漆塗りの丸手鏡」
ああ、とみんなが頷いた。「名案だよ糸巻きさま」と手を叩いている者もいる。
「鏡様、ですか?」
「そうそう。鏡なら、一度見たものの姿を映すことができる」
名案だ、と史朗も思ったが、それでは一度、桐原家に行かなければならない。だが、心配は無用だった。
「あの娘さまに憑いていた時計様なら、私も見ています」
鏡様が、そう言ってくれたのだ。
そして史朗は、かばんの中に鏡を忍ばせ、凪と連れ立って病院へと向かった。
外は、冬の寒さも和らぎ、もうすぐ春が来ることを確実に実感させてくれる、暖かい陽気だった。ケア施設の職員に案内された中庭には、紅白どちらの梅の花も満開で、多くの入居者がその花を愛でていた。青空に、微かに甘い香りが漂っている。
凪が制服姿だったわけが、史朗は病院に着いて初めてわかった。史朗自身は私服である。
この辺りの人たちにとって、萩桜の制服は、ある意味一流企業の名刺並みの効果を発揮する。端正な佇まいの凪なら尚更のこと、聖アンヌの千織と友人だと言っても、誰も疑わなかった。史朗はもちろん面白くなかったが、とりあえずは腹に収めておくことにした。世間とは、そう言うものなのだ。
千織の祖母は、車椅子に乗って梅を眺めていた。無邪気とも形容できる笑顔で、職員に何か話している。
二人が近づいて頭を下げると、彼女はゆっくりと首を傾げた。「誰? まーちゃんかしら?」と呟いている。
「違いますよ、弟さんじゃありませんよ」
職員の女性が耳元で大声を出して言ったが、千織の祖母はまだ「誰? まーちゃんじゃないの?」と言っている。
受付で話したときと同じように、凪が「千織さんの友人で神鳥と言います。今日は千織さんに頼まれて、おばあ様に会いにきました」と言うと、職員は頷いて、しばらくお相手をしてもらっていいかしら、と頼んできた。もちろん、と凪が軽く微笑むと、その女性は頬を赤くして建物の方に向かっていった。史朗はもう溜息も出ない。こう言うことの繰り返しがあって、史朗は凪とは疎遠になったのだ。職員達の態度は、その頃の気分をまた、思い出させるものだった。だが、今日はそこでむくれている場合ではない。
凪は後はおまえの仕事だとばかりに、すっと離れて傍観の構えだ。史朗は車椅子の前に屈んで、千織の祖母と目線を揃えた。
「こんにちは。椿古道具屋の椿史朗と言います。千織さんの友人です」
そう挨拶はしてみるものの、彼女はにこにこと笑っているだけだ。史朗は早速、まずは、と銀色の懐中時計を鞄から取り出した。
老女は手を伸ばしてきて、懐かしそうにそれを撫でたが、「これ、覚えていますか?」という史朗の問いには答えなかった。そして、ふいっと今度は梅を眺め始めた。
史朗は「駄目か」と溜息を吐きながら、今度は手鏡を取り出した。鏡の裏は艶やかに光るほど丹念に漆が塗られているが、模様のないシンプルなものだった。その鏡で彼女を映すように差し出すと、その目が大きく瞬いた。それから、震える手で口を覆いながら、搾り出すような声で言った。
「ようやく、お迎えに来てくださったのですね」
史朗と凪は顔を見合わせた。一体、どう言う意味だろう。
「お待ちしておりました。十七年前にお約束をしたこと、忘れておりません。さあどうか、お連れ下さい」
小さく震える両手で、鏡を掴む。史朗はそっと尋ねた。
「桐原さん、時計様と、どんな約束をしたんですか」
「時計様……ええ、時計様と、約束をしました。孫の命を長らえる代わりに、私が時計様のそばにお仕えすると。ですが、孫の成長が見られないのは残念だろうと、お優しい時計様は、わたくしに猶予を与えてくださいました。あの子は立派に成長いたしました。もう思い残すことはありません」
しっかりとした口調だった。ふいに時計様とのことを思い出して、昔に戻ったようだった。史朗はようやく約束の内容を聞くことが出来たが、まだわからないことはあった。
「それでどうして、千織さんの方を連れて行こうとしているんだろう?」
「そばに仕えると言ったのに、持ち主が勝手に代わったからだろう。このばあさんがここに入ったのは、半年前。それと同時に、時計は千織のものになったんだろうな。当の本人は惚けてしまって、主は勝手に代わった。十七年待って、その仕打ちだ。まあでも、ようするにその時計がこのばあさんのもとに戻ればいいってことだ」
凪は肩を竦めている。史朗は、自分が手にしている懐中時計を見た。
「まだ返すなよ。魂を戻したいって言ったのは、おまえなんだから。千織に、祖母に返すよう約束させたらどうだ。その時計様とやらが信じるかどうかわからないけどな」
どうなんだ、と言った凪の声は鏡に向かっていた。鏡様はひゅるりと出てくると、「それでいいと思いますよ」とその中世的な顔で微笑んだ。
「それでいいって」
史朗がそう言うと、凪は踵を返してさっさと歩きだした。
「え、ちょっと。待てって。凪! おばあさん、一人で置いとく訳に行かないだろ!」
史朗の叫び声に、凪は面倒そうに振り返ると、「誰か呼んでくる」と言って、建物の中に消えていった。思わず、溜息が出る。
梅の甘い香りが鼻腔をくすぐって、史朗は空を仰いだ。小さな白い花が、いくつも枯れたような枝に咲いている。
十七年待って、この仕打ち――。
凪はそう言っていた。時計様はなぜ、十七年待ってくれたのだろう。そもそもなぜ、猶予を与えてくれたのだろう。子供の成長を見守るためと言っても、もし時計様のそばに仕えていたら、見ることは叶ったはずだ。それなのに、敢えて生身のままの十七年を与えてくれた――。
ふいに風が吹いて、はらりと梅の花が舞った。それが自分の足に掛かっているブランケットの上に落ちると、千織の祖母は、屈託のない、童女のような顔で、笑ったのだった。