椿古道具屋 第二話
少年の神さま 06
「なあ、何がわかったんだよ」
不動産屋から椿屋までは歩いても五分ほどだ。史朗が前を行く背中に問いかけると、凪は立ち止ってちらりと振り返った。
「手嶋家には家庭内に問題があるってことだよ。ま、あの口ぶりからすれば夫婦仲が悪くて、離婚話でも出てるってところだろ」
「離婚ー? でも手嶋さん、あんなに心配して――」
言いながら、病室での手嶋の様子などを思い浮かべた史朗は、口を閉じた。あれは悲しんでいたというより、困っていた、と言うべきだろう。もちろん、原因不明で眠ったきりなんて、困ることに違いない。だが、悲しいとか心配という感情より、「まいったなあ」という気持ちの方が強いというのは、愛情のある夫婦だとすれば首を傾げてしまう。もしも離婚話が出ている中でのことだったら――それはさぞかし困るだろう。
凪が歩き出したので、史朗も慌てて後を追った。大通りにある不動産屋から路地に入り、民家が建ち並ぶ静かな通りを歩く。もう日も暮れかかっていて、少し肌寒い。
「もし本当に手嶋さんが離婚を考えているとして、今回のことに関係してるってこと?」
「さあな。そう考えた方が自然な気もするけど、あの人形とどう関わるのかはわからないし」
「だいたい、なんで江藤さんのところに行ったんだよ」
しかも、俺にじいちゃんと同じ力があるみたいな嘘言ってさ。ぼそりと付け足した言葉は、きちんと凪の耳に届いたようだ。「嘘ってわけでもないだろ」と肩をすくめる。
二人は椿屋に着くと、奥の部屋に上がった。なんとなく疲れて、足を投げ出して坐る。雲の切れ間から一瞬差し込んだ夕陽に、庭の池が輝いていた。自然、その光に視線が向かった。
「あそこに行ったのは、おまえがあのガキのことを気にしてたからだよ。近いし、もしかしたら、何か知っているかもしれないって思ったから。半分だけの嘘は、その方が話をしてもらえると思ったから。あのおやじ、おまえのじいさんのことはすごく尊敬していたみたいだからさ。俺達制服着てたから、ガキだって舐められたら面倒だろ」
凪が制服のボタンを外して、ごろりと横になる。史朗も真似して、手を枕に寝転がった。史朗はとうにネクタイを外して、シャツのボタンもいくつか外している。その襟元から入ってくる風が寒い。
「確かに、亮一君が喋らないのが気になってたけど。でも、親の仲が悪いからかあ……」
史朗はてっきり、母親が眠ったきりなことが原因なのかと思っていた。母親のそばで、人形を動かしていた亮一が思い浮かぶ。そう言えば、声を聞かなかっただけではなく、笑い顔も見なかった。
あの顔は、史郎に昔を思い出させる。幼いころ、しばらくあの無表情と同じ顔を見ていたことがあった。あのときはどうすればいいのか分からず、ただ傍にいることしかできなかった。
史朗が隣をちらりと見ると、凪は目を閉じて眠っているような顔をしていた。正面から見た顔より、横顔の方が昔の面影がある。悔しいことに、端正なのは変わらない。
「亮一君、やっぱり両親と離れたくなくて喋らないんだよな」
天井を見たままぽつりと呟くと、凪は目を閉じたまま「さあな」といつもの返事をした。
「子供まで産んでさ。なんで別れようなんてなるんだろ」
史朗の幼いころからの疑問だ。高校生ともなれば、そういうことだってあるかも知れない、とわかっているが、納得しきれているわけでもない。
沈黙が落ちた。いつもはうるさい神様たちの声も聞こえてこない。どうも凪がいるときは、遠慮している節がある。そう言えば報告に来たんだっけ、と思いはするものの、起き上がる気になれなかった。
「今回のことで、亮一君の両親の仲も戻ればいいのにな」
入院中の奥さんを見舞うくらいだ。まだ修復の余地はあるのではないか、と史朗などは思ってしまう。だが凪は「なるようにしかならないだろ」と言う。
史朗は身体を横にして、凪に顔を向けた。
「そりゃそうだけど。でも、元に戻って欲しいじゃん」
「だからって、首突っ込むなよ」
凪も身体を横に向けて、肘を立てて手で頭を支えると、史朗を見た。史朗は僅かに口を尖らせて「首を突っ込むつもりはないけど」と視線から逃げるように天井を見た。
「でもさあ、気になるだろ、亮一君」
「だからって、俺達には関係ない」
史朗は更に口を尖らせて、今度は身体を凪の方に向けて、睨んだ。
「関係ないかもしれないけど。凪は気にならないのかよ」
亮一の気持ちがわかるのは、凪の方のはずだ。それなのに冷たいことを言う凪に、史朗はむっとした。
「夫婦のことだ。仕方ないだろ。俺達みたいな子供には何もできない」
子供……。凪らしくない物言いだった。子供扱いされることを嫌っているのが凪ではないのか。だから大人相手にもきちんとした敬語を遣い、馬鹿にされないようにと出来るなりの抵抗する。そう言うところは、少し「かっこいい」と思っていたから、史朗はますます面白くない気持ちになった。
凪と睨み合う。相手はいたって冷静に見えた。それがまた悔しい。
「じゃあ、ほっとけって?」
部屋の中は、だいぶ暗くなってきていた。外では雨が降り始めたようだった。
「亮一君はあのまま? 親の都合に振り回されて、でも何も言わないで、我慢するだけ?」
史朗は起き上がって、声を荒げた。言っているうちに興奮してきてしまう。凪が冷静なままだから余計だ。
「口もきけなくなるって、よっぽどだろ。人形しか見てないって感じで、淋しすぎるよ」
凪はじっと史朗を見ている。表情からは、何を思っているのか分からなかった。「凪!」と思わず名を呼ぶと、凪はごろりと仰向けになった。
「史朗は、なんでそんなにあのガキのこと気にすんだよ」
それは凪に似ているからだ。あの頃、会うたびに悲しいような気持ちになった、凪に似ているから。だが、史朗はそれを言うことはできなかった。凪には、あの頃のことは思い出して欲しくない。
「頼まれたのは母親のことだろ。それに、ガキは結局、何もできないんだよ。二人の問題なんだから。俺たちも、あのガキも、どうすることもできない」
そう、どうすることもできなかった。史朗など、どうして凪があんなに笑わなくなったのか、分かりもしなかった。
「どうすることもできなかったから、俺は凪には何もできなかったから、だから、だから今度は何かしたい。大人の二人の問題だとしても、絶対別れなきゃいけなくても、子供が傷ついて、喋らなくて、笑わないままなんてことにならないようにしたい」
史朗は泣きそうな気分で叫ぶように言った。雨の音がしている。そこに史朗の荒い息の音が重なった。
凪はしばらく天井を見ていたが、急に起き上がると、玄関に向かった。だがふと立ち止まって、ぼそりと呟いた。
「史朗は、ちゃんと俺を助けただろ」
その呟きは雨の音に混じって、史朗の耳には届かなかった。
「なかなか派手な喧嘩だったね」
明かりがついたところに現われたのは、菖蒲そば猪口さまだった。優しく、苦笑している。
「けっ。何が派手だよ。あいつはすかしてたじゃないか。男なら、売られた喧嘩は買えってんだ」
腕を組んでどかりと史朗の隣に坐ったのは市松だ。なあ、と史朗の肩に肘をのせてくる。
「あの冷徹そうなところがいいんじゃないの」
と娘姿の神様たちは、はしゃいでいる。
「まあ、男の子だからねえ。喧嘩もいいよ。でも、その子供のことは気になるね」
よいしょ、と言いながら、糸巻き様がお茶を持ってきてくれた。史朗はちゃぶ台まで這って行き、「いただきます」と言ってから温かそうなお茶に手を伸ばした。一口飲むと、ほっとする。
「史朗様もずいぶん入れ込んでいるようだけれど、凪様もずいぶん冷たい。何か理由が?」
菖蒲そば猪口様に訊かれて、史朗は溜息を吐いた。
「凪のとこもさ、親が離婚してるんだよな。俺はなんでかよく知らないんだけど。それで、凪も悩んでたって言うか、亮一君みたいに口きかなくなったときあったんだよな。だから亮一君の気持ちはわかると思ったんだけど……」
「子供には何もできない、と凪様は言ってましたねえ」
傷は深いのでしょう、と菖蒲そば猪口様が嘆息した。
「当人の実感、ってか。だから今度も何もできないと思ってるのか。ちっせえ男だな」
市松が、凪を非難するような口調で言う。
「そんな簡単に立ち直れるもんじゃないんだよ。親が離婚するってさ」
史朗は思わず、反論した。凪は「ちっせえ男」なんかじゃない。だが良く考えれば、神様たちに両親云々の話は通じるはずがないのだった。
「それで史朗や。その母親って言うのはどうだったのじゃ」
織部様に訊かれて、史朗はそうだった、と亮一の母親に会った話をした。
「では、凪様はやはりその母親には荒魂が憑いておると言っておるのじゃな」
「それが、亮一君が持つ人形だと」
「たぶん。良く見えなかったみたいだけど、確かに古いもんだから」
ふむふむ、と神様たちは頷いている。
「でも、恨まれるようなことはしてないと思うんです。そのお母さん」
「洋服を作ったりしたと言っていたねえ……。まあ、多少のことでは荒魂にならないから、あったとしたら余程のことだろうけれど」
「余程のことって、なんだい、菖蒲さん」
「わかりませんよ。でも、最初は大事にしていたのに、子供が執着するから捨てようとした、ということもあるかも知れませんよ」
「捨てようとしたくらいじゃ、荒魂にならねーだろ」
ならないの?! と驚いたのは史朗だ。
「そりゃあ大事にしてもらえたら嬉しいけどな。捨てられたらまた誰かに拾われればいい。約束でもしてない限り、それぐれえで恨まねえよ」
気風のいい市松だからの発言かと思ったが、他の神様も「そうだよね」と頷いている。どうやらそんなものらしい。
「でも、その子供は随分人形を大切にしてるんだろう? それなら、引き離されるのを嫌がった、ってこともあるかも知れないねえ。例えばその母親に捨てられそうになってさ」
「え、そういうのはありなんですか?」
「捨てられるにしろ、理由によるってこと。人間と同じだよ。何が御霊の怒りに触れるかはわからない。と言っても、理不尽なことでは怒らないけどね。それに、こう見えて私らにだって情ってもんがあるんだよ。大切にしてくれている子供に離れたくないとでも泣かれたら、どうにかしようと思うね」
糸巻き様はそう言って、お茶をすする。神様と言うのも、結構人間くさいところがあるようだ。
「じゃあ、そういうことがなかったか、父親の方に訊いてみます。でも、解決しようにも本人が眠ってたんじゃなあ……。亮一くんと離れないように約束させます、って言うだけで納得してくれるかなあ」
荒魂を静めるためには、そうなった原因を取り除かなければならない。だが、その原因となる人物と話ができないのでは、解決しようがない。
「ま、その辺りは史朗の腕前を見せてもらおうかの」
披露するほどの腕前などない。史朗はちゃぶ台の上に頬をつけて、だらしない恰好になって溜息を吐いた。
「説得しろってことでしょう? できるかなあ……」
幼馴染でさえ説得できない史朗である。神様相手など荷が重すぎるというものだ。その史朗の横で、菖蒲そば猪口様が首をかしげていた。
「もし糸巻き様がおしゃっていることが合っているとすれば、両親が別れた時には母親がその子供を引き取ることになっているのでしょうか。お父様の方でしたら、解決していることになりますよね?」
確かにそうだ。だが、まだ別れると決まったわけではないと史朗は小さく反論する。なんだか問題が複雑になってきた。
「とりあえず、まず原因を探るんだな」
市松にばんっと背中を叩かれて、史朗は顔を歪めた。市松は力加減を知らない。
「なんかさあ、すごく難問な気がしてきた」
そう呟いてみても、神様たちはにこにこと笑うだけである。