椿古道具屋 第三話
枕の神さま 08
翌日、学校帰りに鶴屋に寄ると、喜三郎は布団の上に半身を起こして出迎えてくれた。とてもいい夢を見たのだと言う。
「お会いできたんですね」
史朗がそう聞くと、穏やかな表情で頷いた。
「あの娘は、全く変わっていなかったよ。自分があまりに老いたから、眩しかった」
喜三郎の手の中にある箱枕は、少しだけ恥ずかしそうな、だが甘える猫のようにも見えた。そこから受け取るのが、忍びなくなるくらいに。
「あの、本当に……?」
「ああ、最後にお別れを言いたかった。それが叶えられたんだ。ありがとう」
喜三郎はそう言って、史朗に香枕を渡した。最後、とこともなげに言う喜三郎の潔さが胸を衝く。史朗はそっと、香枕を風呂敷に包んだ。喜三郎は、辛そうに長いため息を吐きながら、「涼子」と孫娘を呼んだ。
「はい」
すっと襖が開く。涼子が、正座をして待っていた。
「さっきのあれ、持って来たか?」
「はい、お持ちいたしました」
「それを、椿屋さんに渡してくれ」
言われて、涼子は中に入ってくると、史朗たちの前に白い封筒を差し出した。史朗は思わず、凪と目を合わせた。
「これは……」
「香枕の借り賃だよ」
喜三郎が咳き込んだので、涼子が慌てて背中をさする。それにお礼を言いながらも、喜三郎は涼子に下がるようにいった。
「でもおじいさま……」
「大丈夫だ」
涼子はわかりましたと頷きながらも、辛そうな喜三郎に横になるように促し、手をかした。それから、すっと頭をさげ、部屋を出て行った。喜三郎の様子では、涼子のことはそれなりに信用しているのかもしれない。
凪が封筒を確かめた。ちらりと見えただけでも、10万はあるかもしれない。ただの借り賃にしては、多すぎるだろう。
「あの、いただけません。そう言うつもりで貸したのではないし……」
史朗がそう言うと、喜三郎はわかっているとでも言うように、微笑んだ。
「実は、もう一つ頼み事がある」
「何でしょう?」
「わしが死んだとき、その香枕をまた持って来てほしい」
史朗と凪は顔を見合わせた。
「どういうことでしょうか?」
「遺言状をいれたのじゃ。その中に」
え、と史朗は香枕を見た。もちろん、香枕様は何も言ってはくれない。遺書の話は、香枕様を探すための嘘だと思っていた。
「今度は本当に、この中に遺書を入れた、ということですが?」
「ああ。そうなると、また息子やら孫やらがうるさいだろうが、なるべく迷惑をかけないようにする。だが、君たちには関係のない相続問題に多少なりとも関わることになる。それはその迷惑料みたいなものだ」
「あの、ここ、開いたんですか?」
遺言書を入れるとしたら、お香を入れていたと言う引き出し部分しかない。しかし、そこは開かなかったはずだ。喜三郎は少し面白そうに頷いた。
「そこは、開けるのにこつがいる。それと、あの娘が良いと思ったときだけ開くんじゃ。力任せに開けようと思っても、開きはしない」
それでは、必要になったら開けてくれると言うのだろうか? 香枕様の性格上、そうすんなり行くとは思えない。
「どうしたら開けられるかは、君に教えるとのことだったよ。あの娘も面食いじゃ」
君、と言われたのは凪だった。その凪は、史朗を見ていた。引き受けるかどうか、決めるのは史朗だと言いたいのだろう。
もちろん、史朗は断る理由なんて思い浮かばなかった。
結局、「迷惑料」と喜三郎が言ったお金は、貰うことになった。神さまにお供えしたら良い、とどこまで分かっているのか、喜三郎が言ったのだった。その日
の喜三郎は、良く喋り、良く笑っていた。だから、頼まれごとをする日は、まだ遠いと史朗は思っていた。しかし、香枕様に再会できたことで心残りがなくなっ
たのか、喜三郎が亡くなったと知らせが入ったのは、それから一週間あまり後のことだった。
知らせを届けに来たのは、草加と富山将一の二人だった。仲良く来た、わけではもちろんなく、互いに牽制していると考えた方が良いようだ。出し抜かれてたまるものか、という気持ちが顔に現れている。
「親やお祖父さんが亡くなったというのに、悲しそうな顔すらしないんだねえ……」
後でそう言いながらため息を吐いたのは、糸巻き様だった。呆れているような、ひどく悲しそうな声だった。お金は怖い、と囃し立てていたのは便利水様たちだ。
二人は、凪がその開け方を知っていることもわかっていた。喜三郎に聞いていたのだろう。だが、凪はまだ香枕様に開け方を聞いていない。信じられないかもしれないが、一晩この枕で寝なくてはいけない、と告げると、二人は胡散臭そうにしながらも、頷いた。
「それならば、ぜひ鶴屋にお泊まりください。幸いにも本日は土曜日。明日もゆっくりできる」
そう言ったのは、富山だ。お夕飯もごちそうさせていただきます、と言う。草加は一瞬眉を潜めたが、思い直したようで、叔父の意見に賛同した。しかし、もちろん叔父に凪をゆだねるつもりはない。
「俺も一緒に泊まるよ。知らない人ばっかりじゃ気詰まりだろ」
「何も章介が泊まることはない。話し相手なら涼子もいる」
富山は娘の名前を出したが、草加は首を横に振った。
「涼子じゃ話し相手なんかならないだろ。どうせ浮かれるんだ。部屋はいっぱい空いてるんだし、いいだろ。それとも、俺に泊まられたら困ることでもあるわけ?」
章介の態度は、叔父に対するものと言うには生意気すぎた。しかし、横柄な態度が染み付いたようなこの鶴屋社長には、ちょうど良いのかもしれない。富山は
仕方が無いと言う風に、好きにしろ、と言った。ただし、抜け駆けをしないように、部屋はこちらで決めさせてもらう、と言う。
そもそも、凪の意見は聞かないんだな、と史朗は隣の凪を見た。当の本人は、肩を竦めていた。
「泊まりにいくのは良いですが……。箱枕を開けるときは、史朗の立ち会いをお願いします。持ち主はあくまでこいつなんで」
それについては、二人に異存はないようだった。鶴屋からも、顧問弁護士が立ち会うと言う。あれだけ形見に欲しいと言っていたのに、今や二人はそれについては全く触れないことがおかしかった。
凪は香枕を風呂敷に包んで、鶴屋へと向かった。翌日の日曜、枕を開けるのは8時と決まった。日曜にしては早いが、二人にとってはそれでも遅い位なのだろう。有無を言わせない口調だった。史朗にしてみれば、災難だ。いつもより早く起きなければならない。
しかし、せっかくの土曜日。心置きなく漫画でも読もうと自宅の部屋にいたところ、階下から母に呼ばれた。電話だと言う。友達ならば携帯に電話が来るだろうから、史朗は首を傾げた。
「誰?」
受話器を階段を下りながら聞くと、「凪くんのお父さんよ」と言う。
「神鳥のおじさん?」
早く出なさい、と小言を言われ、史朗は慌てて受話器を受け取った。
「夜分にすまないね。うちの息子の行方を知らないかと思ってね」
言われて、驚いた。あれから、凪は着替えを取りに帰ったはずだし、連絡ぐらい入れていると思っていたのだ。史朗は鶴屋にいる、と言おうとして、言葉に詰まった。なぜ鶴屋にいるのか、説明が難しい。
「詳しいことはいいよ。いる場所がわかれば」
これでも親なんでね、と久和は言う。史朗だって夜8時を過ぎて連絡しなければ、母親からすぐに電話が掛かってきて、連絡しなさい、と怒られる。
「あの……詳しい説明が難しいんですが、凪は今日は鶴屋に泊まることになって……」
さくら市の鶴屋、わかりますか? と聞くと、「和菓子屋のだね」と久和が答えた。
「椿屋さんに泊まるときは一応書き置きがあるんだが、今日はなかったからね。そうか、鶴屋にねえ」
史朗はなんとなく居たたまれない。ともかくも「ごめんなさい」と謝りたい気分になっていた。もちろん、謝る理由が説明できないのだから、謝罪などなんの意味もないのだが。
「ひょっとしたらなんだが、それは椿屋さんの関係かな?」
久和の声は柔らかく、責めている様子も追求する様子もないのだが、だからこそ嘘を吐くのは難しい。史朗は嘘を吐かないかわりに、無言になってしまった。
「誤解だったら聞き流してくれていいんだが、君たちは、虎之介おじさんが時々していた、憑き物落としのようなことをやっているんじゃないのかい?」
今度の沈黙は、驚きからだった。祖父の虎之介が「神馴らし」をしていたことは、母も父も知らない様子だったからだ。
「おじさんは、知っていたんですか?」
「詳しいことは聞いたことがないんだが……。ただ、そのことに関連して、あの子が何か人に見えないものを見ていると、虎之介おじさんが教えてくれた」
「おじいちゃんが……」
「といっても、私には見える訳じゃない。理解しきれた、とは言い難いがね。だから、あの子はおじさんには懐いたが、私にはなかなか懐かなかった」
神主などをしているが、なかなか頭が固くてねえ、と久和は笑う。しかし、史朗だって自分が体験していなければ、神さまたちの存在など笑い飛ばしていただろう。
「虎之介おじさんは、いずれ凪も自分と同じことを行うようになるかもしれない、と言っていた。ただ、力が中途半端で、史朗君の協力がないとできないだろうとも言っていた。だから、二人が疎遠になったときには、その方が幸せかもしれない、ともね」
凪は御霊が見える。しかし、その実体と言うべき神さまたちは見えないし、会話もできない。それで神馴らしをするのは難しい。馴らす必要のない御霊もいるのだ。
「おじさんもあまり詳しいことは教えてくれなかった。というより、私に言っても仕方がないと思っていたんだろうね。到底理解できなかっただろうから。た
だ、凪は私に似て頭が固いところがある。その上、悲しいことに私の所為で、神社の仕事を疎かにしているところがある。もし、何か理由のわからないことで凪
が苦しんでいるようなことがあったら、このことを疑ってほしい、と言われたよ」
苦しんでいること、と史朗は思わず呟いた。電話はその囁きに似た呟きも、相手に届けてしまう。
「先日、史朗君が来てくれたと言うのに、部屋から出てこなかったことがあっただろう? あのときは、だいぶ苦しんだようだよ」
夜中、唸るような声がしたのだと言う。痛みに耐えるようなその声に、さすがの久和も心配になり部屋に行ったのだが、ドアは決して開くことはなかった。翌朝、少し憔悴した顔をした凪が降りて来たときには、思わず眉を潜めたという。
「聞いても、あの子は絶対に何も言わない。その方が苦しめるとわかっているから、見守るしかなかったんだが……」
史朗は唇をきつく噛み締めた。あのとき、やはり神さまへのお礼をきちんとしなかったのが悪かったのだ。初めて神馴らしをしたときは、お礼を行ったからだろう、凪が苦しむようなことはなかった。
「……ごめんなさい」
史朗は、謝るしかなかった。説明できなくとも、謝らせて欲しかった。あのとき、凪に神馴らしを頼んだのは自分だ。それなのに、自分は逃げたのだと思う。お礼をせずに済んだことに、内心ではほっとしていたのだ。
久和はふっと笑ったようだった。
「史朗君が謝ることではないだろう。ただ、あの子は史朗君には話をするだろう? それに、史朗君はあの子のしていることをわかっているん
だよね? だったらお願いだ。あの子が、凪があまり苦しまないようにして欲しい。虎之介おじさんは、あれは一種の儀式だと言っていた。だから、間違わずに
行えば、神さまを怒らせることもなく、苦しむこともない、とね」
その言葉に習えば、お礼をしないことは「間違い」なのだろう。
「凪に関しては、史朗君しか頼れる人がいなくてね」
久和はそう苦笑した。史朗にしてみれば、頼れるのかどうか良くわからない。でも、神馴らしについて言えば、史朗は約束ができると思った。
「あの、大丈夫です。凪が苦しまないように、します」
神馴らしを安易にしてはいけないのだ。そして、お礼は絶対にする。それを史朗は、自分に言い聞かせた。言い聞かせなければならないのは、凪ではなく、自分自身だと思っていたのだ。