椿古道具屋 第三話
枕の神さま 09
翌朝、史朗はあくびをしながら電車に乗り、鶴屋に向かった。いまだ寒い日が続き、コートにマフラーが欠かせない。だが、そろそろ恋しい春を思い、手袋は外して来てしまった史朗は、コートのポケットに手を突っ込んだ。
鶴屋に行くと、甘い匂いが店から漂って来ていた。和菓子を作っているのだ。すべて工場で作っていると思ったから、史朗は驚いた。喜三郎のこだわりがそこに見えたように思う。しかし、その喜三郎亡き今、この鶴屋のお店はどうなるのだろう。
史朗を出迎えたのは、喪服を着た涼子だった。喜三郎の葬式は、日を選んだためにこれからだと言う。その最中の、遺言状騒動なのだった。
「おじいさまが遺言状を見てから荼毘にふしてくれって言っていたこともあるのよ」
涼子は家の不義理を言い訳するように言った。
凪たちは、既に用意をして座敷にいた。襖が開け放たれていて、20帖ほどもある広い座敷で、富山、草加、弁護士だろう、背広を着た壮年の紳士が並んでいた。凪は香枕様を目の前に置いて、上座に座っていた。史朗を見て、隣に座れと促す。
「いやいや、末席でいいだろ」
さすがにこの面々の視線にさらされるのは勘弁したい。しかし、凪は微かに笑って首を振った。
「香枕の引き出しを開けるのは、史朗の役目だ」
凪の目は、香枕様がそう言った、と語っていた。それでは仕方がない。史朗はおずおずと、その隣に座った。
「本当に香枕様が言った訳?」
「開けてみればわかるだろ。嫌なら開かない」
小声でやり取りをしていると、焦れたような咳払いが聞こえた。それに促されて、弁護士が口を開いた。
「それでは、皆様そろいましたので、遺言書を改めたいと思います」
史朗は凪に促されて、香枕を手元に引き寄せた。その小さな引き出しの取っ手を引くと、以前全く動かなかったことが嘘のように、すっと引き出しが動いた。息をのむ音が聞こえた。
引き出しの中には、白い封筒が入っていた。史朗はどうして良いのかわからず、隣の凪を見ると、凪が仕方がないと言う風にその封筒を取り出し、弁護士に渡した。弁護士は封筒を受け取ると、厳かにその中身を取り出した。
遺言状の中身は、特に驚いた内容ではないと史朗には思えた。財産は一人に譲られるものではなく、法に照らし合わせた分配をするように、という言葉があっ
たからだ。ただし、鶴屋については涼子に譲るとし、一同を驚かせた。そして、土地や美術品の相続は、鶴屋の存続が条件だった。
富山と草加は、なんとなく気の抜けたような顔をしている。もともと、一人の人間に全財産が行くと喜三郎が話していたのだから、拍子抜けしたのだろう。
凪はこれ以上の長居は必要ないと、立ち上がった。もちろん、史朗も一人でここにいるつもりはない。
「一つ、お願いがあります。この香枕を喜三郎さんの棺に一緒にいれて欲しいのですが」
ふと凪がそう言った。喜三郎はこの午後、焼き場に送られることとなっていた。史朗にも、確認のような視線を寄越す。凪がそう言うからには、理由がある。史朗は迷わず了承した。
富山は心ここにあらず、と言った様子ではあったが頷いた。
「その前に、少し奥の部屋を貸してください。香枕を綺麗にします」
凪は昨晩泊まったからだろう、勝って知ったる、という風に香枕様を持って奥へと消えていった。少し強引なその様子に、史朗は胸騒ぎを覚え、後を追った。
「凪、何するつもり?」
「言っただろう。香枕を綺麗にするだけだ」
凪は、立ち止まりも振り返りもせずに答えた。
香枕を棺にいれるのであれば、後は灰になるだけだ。依り代とも言える道具が焼かれてしまったら、神さまたちは一体どうなるのだろう?そして、香枕様が、もし喜三郎とともにいきたいと願っていたら?
「神馴らしをするつもり?」
腕を掴むと、凪は仕方なさそうに立ち止まった。
「史朗、先に帰ってくれないか」
「帰るわけないだろ」
史朗が睨みつけると、凪は視線を逸らして、ため息をついた。
「史朗、頼むから」
「神馴らしをするんだろ?」
凪は頷かない。視線をそらしたままだ。史朗はその両手を掴んで、わざと視線を合わせるように下から凪を覗き込んだ。
「しなくちゃいけないのか? 絶対に?」
凪は視線を合わせてくれなかった。だが、くっと噛み締められた唇が、頑な決意じみたものを滲ませていた。
一瞬、沈黙が流れた。だが、凪はふっとその唇を緩ませ、史朗を見た。
「今回は、俺の勝手だ。史朗には迷惑かけないから」
自嘲気味の笑みが浮かんでいる。史朗はそれに眉根を寄せた。それから、そうじゃないと首を横に振る。
「神馴らしをやるなら、絶対に神さまにお礼をするって約束しろ」
そう言うと、凪は目を見張った。
「絶対、だ」
「史朗……」
「約束だ」
凪は困惑していた。でも、史朗は引くつもりはなかった。久和との約束もある。だが、なによりも、凪が一人で苦しむことはないと思っていた。
凪は何も言わずに、部屋に入っていった。史朗も続いて部屋に入ると、襖を閉めて誰も入れないよう、その前に立った。
香枕様の神馴らしは、今までになく静かなものだった。最後には、あの薄紫色の着物を着た香枕様が、深く頭を下げている様子が見え、史朗はこれが、香枕様の願いだったと、悟ったのだった。