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□yugo07 http://recipe.electro.xx
ブースに入って、客の部屋に行くときの感覚は、少しだけエレベータに乗ったときに似ている。すっと落ちるような、一瞬身体が浮くような、不思議な感覚。このブースと客の部屋が、どうやって繋がっているのかは、さすがのサービス担当も、知らないことだった。それに、これは空間だけではなく、どうやら時間も少しばかり歪めているようだった。担当が多少行くのに手間取っても、客はそれほど待たされたりはしないらしい。
ユーゴはだから、きちんとネクタイを締めて、背広を羽織った。顔色が悪いのは、仕方がない。
体調が悪いときの移動は、気持ち悪いものだ。その不快さに顔を真っ青にしたユーゴはでも、すぐに包まれた温かさに、ほっと息を吐いた。とても、良い匂いがする。菓子類の甘い匂いではなく、もっとすっきりとした、どこか爽やかな香り。
「こんなにやつれて……」
ふいに耳に吹き込まれた声に、ユーゴははっとした。はっとしてすぐ、温かいと思ったのは幸野の腕の中だからなのだと気付いた。
「あ、こ、幸野さんっ」
慌てて小さく声を上げては見たが、両頬を手で包み込まれて、その先の言葉は飲み込んでしまった。そうしてじっと自分を見つめる目が、あまりに心配そうだったから。
「倒れたんだって?」
言われて、ユーゴは情けなさに恥かしくなる。それでも両手に顔を挟まれた状態では俯くことは許されず、目を伏せただけだった。
「出てこられたってことは、大丈夫なのか?」
「はい。すみません。すぐに出てこられなくて……」
ああ、そんなことはいいんだよ、と幸野は親指でユーゴの頬をそっとなぞる。気持ち良さに、ユーゴは目を細めた。
幸野もつられたように目を細め、それから小さく吐息を吐いて、その手をようやく外した。
「まだ顔色が悪い。呼び出して悪かった」
幸野は言いながら、ユーゴをそっと坐らせる。離れた体温に、思わず見上げたユーゴの頭を、幸野はそっと撫でた。
「いえ。あの……」
「ずっと会えなかったから。なんとしても会いたくて」
さらりとそう言って、幸野はキッチンへ移動してしまう。残されたユーゴは、ぼうっとその後姿を追うしかなかった。
温かかった、とても。幸野の腕の中は。
戻って来た幸野の手の中には、湯気のたったカップがあった。渡されて、礼を言いながら顔を近づけると、紅茶の良い香りの中に、微かなアルコールの匂いがした。こくりと飲むと、芯からゆっくりと身体が温まっていった。
「ずっと気になっていたんだ。君にはあんな醜態を見せてしまって……その後の約束も守れなかったし。すまなかったね」
ふるふると、ユーゴは頭を横に振った。目の前に坐った幸野は、人のことを言えないのではと思うほど、疲れた顔をしている。仕事が忙しかったことは、ユーゴにも十分想像できた。
「あのときは、本当に堪らなくて……。そういえば、君には料理を始めた理由を話していなかったね」
ふいに目が合って、ユーゴは何も答えられなかった。頷くことさえ、出来なかった。ずっと気にしていた。でも、聞けなかったことだ。
幸野はふいっとキッチンを見て、小さく、小さく息を吐いた。
「私には妹が一人いたんだが……彼女が重い病に掛かってね。もう治る見込みはないと医者からは言われていた。妹は昔から賢くて、勘の良い子だったから、多分そのことを知っていたんだと思う。あまり物を食べなくなってしまって……」
「それで、幸野さんが料理を?」
「母がいればよかったんだが、妹が小学生の頃に亡くなってね。でも、あの頃に食べたポテトサラダのサンドイッチが食べたいと洩らしたことがあったんだ」
ああ、あのポテトサラダはそのためだったのか、とユーゴは目を伏せた。食べ物にまつわる話は、幸福なものだけではない。いつもどこか、切なさが混じる。
「あのサラダは、本当に素晴らしかった。私はあまり母の味は覚えていないが、妹はとても懐かしそうに、美味しそうに食べていたよ」
幸野がそう息を吐いたところで、ユーゴは先刻の幸野の言葉に、引っ掛かりを感じたことを思い出した。
「あの、妹さんがいたって……」
「ああ。この間、息を引き取った」
それがあの、雨の日だったのだろう。ユーゴは込み上げてくるものを、唇を噛み締めて耐えた。
「まだ父は健在だが、昔から仕事一筋の人間だったから、母が亡くなった後は俺と妹は二人だけの家族になった気持ちだった」
ふっと、微かな笑みが幸野の口元にのぼった。
「雨が悪かった、なんて言い訳だけどな。母が亡くなったときも雨で、俺はたった一人なんだ、何故かそんなことを思った。そうじゃないと知っていたのに――堪らなかった」
それは独り言のような呟きだった。実際、そうなのだろう。幸野が「俺」と言ったのをユーゴは初めて聞いた。
たった一人――。その孤独さを、ユーゴは知っている。幸野のように抗えずに一人になったのではないけれど、そんな状態で、あんな日に一人で部屋にいたら、ユーゴだってどうにかなってしまう。
幸野がふいに目を細めて、ユーゴに手を伸ばしてきた。長い腕、細い指。それがすっと優雅に、ユーゴの頬を撫でた。
「あ……」
そのときになってようやく、ユーゴは結局自分は我慢しきれずに涙を零してしまったのだと知った。何も知らないくせに泣くなんて、ひどく簡単に同情している感じがして、ユーゴは顔を俯けた。
「ユーゴに泣いてもらったら、彩音も喜ぶだろう」
ぽんっと頭に大きな手を乗せられて、その温かさにユーゴは余計泣きたくなる。この手が、不器用ながらも一生懸命に料理を作ったことを思うと。
「彩音さん……?」
呟くと、ああ、と穏やかな声が返ってきた。
「薬のせいもあっただろうが、彩音はいつもぼうっとしていることが多かった。でも、俺が料理を作ったと知ったら、ひどく驚いて――それも不味いどころか美味しい。一体どんな彼女が出来たんだって、しきりに聞かれたよ。会いたいとせがまれて、会わせてやれないのが残念だった」
幸野の声は少し照れているようでもあった。だがユーゴは、ぎゅっと胸元を握り締めた。
彼女なんかじゃない。これが、ユーゴの仕事なのだ。会わせられるはずがない。そもそも、自分は男だ。バイだゲイだと言う人間が普通にweb electroにはいたから、すっかり忘れていた。
「それだけはweb electroの不便なところだと思うよ。客が一人のときじゃないと利用できないなんてな。それがなければ彩音にも君を紹介できたのに。それに、おかげでこのサイトのことは誰にも言えない」
言っても信じてもらえないからな、と幸野は困ったような表情をした。その言葉に顔を上げたユーゴは、思わず目を見開いた。
紹介できたのにって、紹介するつもりだったのだろうか。彼女でも何でもないのに。
「ああ……ユーゴ、目が赤くなってしまってる」
幸野はそう言って、親指で優しく瞼を撫でてくれた。それに急に恥かしくなったユーゴは、慌てて立ち上がった。
「あ、あの。何か作りましょうか」
そこはサービス担当の悲しい性。何か言わなくてはと思って出てきた言葉は、やはり仕事のことだった。
幸野はくすりと笑って、お願いしようかな、と言った。
はあっとため息を吐きながら、ユーゴは坐り心地抜群の、お気に入りの赤いソファーに上半身を埋めるように坐った。ごろりとそのまま横になって、アーム部分に頭をのせると、膝を抱えて丸くなる。外からは、小春日和というに相応しい日の光が差し込んできていた。暖かい。
「なにユーゴ。疲れてるね」
ユーゴが頭をのせている反対側のアームに腰掛けたのは、タチバナだった。ユーゴはちらりと視線を動かして、「ちょっと寝不足なだけ」と言った。
「寝不足なくせにお菓子は作る……俺にはよくわかんねーな」
うん、上手い。タチバナはそう言って、ぺろりと右手の親指と人差し指の先を舐めた。今のユーゴには、見ているだけでも気持ち悪い、オレンジクリームのケーキ。もちろん、作ったのはユーゴだった。
「この間で解決したと思ったのに、駄目だったの?」
珍しくタチバナが遠慮がちに尋ねてきた。ユーゴは小さくため息を吐く。
「駄目とかじゃ別にないと思う。それより、この間はありがとう」
タチバナはそれには、照れたように「何もしてないけど」と言った。
人の気持ちは、言わなければ伝わらないことが多いんだよ、と医師には言われた。だから、相手の気持ちも聞いてみなければわからないし、ユーゴの気持ちも言わなければわからない。それはそうかもしれない、と思ってみても、ユーゴには聞く勇気も、ましてや言う勇気などなかった。
「その、駄目とかじゃないってどう言う意味?」
日の光はぽかぽかと暖かい。とても気持ちがいい気がするのに、やはりユーゴに眠気は訪れない。
「そのままの意味だけど」
「何もなかったってこと?」
そうなのかな、とユーゴは思いながら、面倒になって頷いた。悪い癖だ。何もかも、放り出したくなってくる。
何もなかった――そう、たぶん、タチバナが期待したようなことは、何もなかったに違いない。ただ、強く強く、ユーゴは自分の気持ちを再確認させられただけだ。温かくて、優しい幸野。
「なんか……幸野さん間違ってるね。っていうか、勘違いしてる気もする」
タチバナの呟きに、顔を捻って後ろを見る。ユーゴには、言っている意味がわからなかった。
「自信が持てない可愛いユーゴには、直球じゃなきゃ通じないってね」
タチバナはそう、器用にウインクをして、軽やかな曲を奏でた携帯に返事をする。ユーゴはなんだかわからないまま、その後姿をぼんやりと追いかけた。
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