蜜と毒 |
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7 京梧が裕貴を「ユーキ」と呼ぶのは、「紺裕貴」という存在を消すためだ。京梧にとって、そして裕貴自身にとっても、「紺裕貴」は、教職についていて、京梧との関係は先生と生徒でしかない。 それは、どれだけ意識をしなくても、しないように努めれば努めるほど、はっきりと立ち上がってくる。そのもどかしい鎖を断ち切るために、京梧はユーキと呼んだのだ。 それが鎖を断ち切れてなどいないことは、京梧にも分かっていた。ただ鎖が透明になっただけで、一層性質の悪いものにしているだけで。 その冬最初の雪は、年が明けてもう二月に入ろうとしているときに落ちてきた。ふわりふわりと、水分を多く含んだのであろう牡丹雪は、柔らかく、そして重く、降っていた。 「雪だよ、先生」 外はけぶるように白く、雲に覆われた空は見えずに、雪が突然生まれてくるかのように錯覚させた。裕貴は読んでいた本から顔を上げ、外を見た。 「これは積もるな」 そう言って、裕貴は本を閉じた。 「帰んの?」 「積もってからじゃ嫌だから」 裕貴は雪の日が好きだった。外の音を全て吸い込んでくれる雪は、落ち着いた静けさをもたらす。何もしていなくても、ただ座ってその静けさに身を寄せていると、そこに解け込める気がするのだ。そしてそれは、ひどく心地よかった。 自分と言う存在の希薄さが、安心できた。 京梧は、その存在を強烈に示す。 その正反対さに惹かれ合ったのかもしれない。 裕貴は、幼い頃に母親から虐待を受けていた。成人してからも、身体のあちらこちらに火傷の跡や傷が残っている。京梧はそれを見ているはずだが、何も聞いてこない。ただそこを、優しく愛撫する。古い傷なのは見て分かるから、何も聞かなくてもある程度の推測は出来ているかもしれない。 存在の希薄さを好むのは、その後遺症だ。 居なければ、自分がいなければ、母親は酷いことをしない。怒らない。 父親は、滅多に家には帰ってこなかった。外で女を作っていることは、母親が怒鳴る言葉で分かっていた。 いなければ。 それは、母親からも何度も聞かされた言葉だった。 京梧はその裕貴を、欲している。狂うほど求められて、裕貴は泣きそうになった。そして、自分がそんな風に求められることが不思議だった。 「雪に閉じ込められるのもいいじゃん」 「馬鹿なこと言うなよ。こんな寒いところで一晩明かすなんて嫌だね」 裕貴はそう言って、コートを手にして京梧を出口へと促した。 「今のセリフは、すごくそそられるな……」 京梧はそう言いながら、教室を出る。人気のない廊下は、コンクリートで囲まれていることが実感できる分、冷えていた。 「そんな艶のある話じゃないだろ。怒られるのは俺だ」 裕貴が鍵を閉める。その音さえも、凍れるように響いた。時計は、7時を回っていた。雪は降り始めたばかりで、学校にはまだ人が残っている。 京梧は鍵を閉める裕貴の手を掴み、また反対へ鍵を回した。 「やっぱり、もう少しここにいよう?」 そう言いながら、ドアを開く。 「居たいならいればいい。鍵はちゃんと返せよ」 裕貴がそう言って行ってしまうのを、京梧は強引に止めた。 「おいっ」 「一人じゃ意味無い」 裕貴を押し込めるように教室に入れると、京梧は内側から鍵をかけた。 京梧は、雪が嫌いだった。 何もかもを覆い、外の音を吸い込んでいく雪に、自分さえも吸い込まれそうで。 見上げると、雪はふわりと優しく落ちてくる。子供の頃、それが楽しくて雪の中にじっと立っていたことがあった。でも雪は容赦なく降りかかり、やがて自分の姿を消してしまうのではないかと思うと、急に怖くなったのだ。 音もなく降り続ける雪は、優しく、柔らかく、すべての存在を消していく。一面を真っ白にして、見えなくしてしまう。 幼い京梧は、それがたまらなく、怖かった。 そうなったら、きっと誰も見つけてくれないから。泣き叫んでも、埋もれていくしかないから。 良い子の京梧にしか関心を持たない両親は、きっと自分たちの息子の叫び声を知らない。雪の中にいるなど、考えもしない。 吸い込まれて、埋もれていってしまえばいいと言う誘惑は、甘すぎて、京梧は触れることさえ出来なかった。 「本当に、帰れなくなるぞ」 「いいじゃん」 京梧はそう言いながら、裕貴を抱きしめた。ゆっくりと温まる身体に、京梧は人を感じる。決してその温もりが熱すぎることはなく、心地よさを誘った。 ふわりふわりと落ちる雪が、京梧の目の端に映る。こんな風に、二人で埋もれていけるなら、それでいい。それなら、怖くない。 「……しよ」 小さく、囁く。温もりが欲しくて。 「離せよ、坂城」 「ユーキ、お願いだから」 この場所で―この場所でなくても―先生という殻を破ることなど出来ないことを分かっていて、京梧はそう、囁いた。 |
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