琥珀に沈む月
08
桜は満開には過ぎてしまったが、鑑賞するには十分綺麗だった。店から歩いて数分の、古い神社の境内に、俺たちは集まった。店は休日で、夜は迷惑になるからと昼間の花見となった。
境内には大きな桜が植わっていた。都内とは思えないほど静かだ。ここの神主さんとオーナーが知り合いらしく、そのご家族も来ていた。
まだ小学生くらいの女の子に、ふと直ちゃんのことを思い出した。もう、中学三年生――いや、この春で高校生だ。そう思ったら、愕然とした。五年と言う年月の、長さを知る。
「えー? 湯野チーフって、二十六歳なんですか?」
見えなーい、と学生アルバイトの子たちに声を揃えて言われて、俺は苦笑した。
「そりゃあ、大人っぽいとは思ってましたけど……まだ二十代前半かと思ってた」
お礼を言うべきか嘆くべきか、迷う。俺は桜色のワインを飲んで、誤魔化した。
「あれ、でも、この間高校出たって……」
キッチンでバイトをしている男の子が、小首を傾げる。彼がやんちゃな若者に見えるのだから、俺もやはり年を取ったのだろう。
「うん、そう。夜間だけどね」
へえ、と何やら感心されたが、別に偉いものではない。せっかく行っていた高校にはろくに通わず、あげくに中途半端に終わらせたのだから、それを終わらせたかっただけだ。あの頃の俺は、何に対しても中途半端だった。
「そうかー。でも、その歳を聞いたら納得。湯野チーフ、すごい落ち着いてますもんね。下手したらオーナーよりずっと」
女子大生バイトの千華ちゃんは屈託がない。俺の隣に坐っていたオーナーが、身を乗り出してきた。
「おい、聞き捨てならないな。千華ちゃんには大人の魅力ってものがわからないんだろ」
「そりゃあ、オーナーの外見に湯野チーフの性格だったら、大人の魅力にころっていっちゃいますけどねー。オーナーはぱっと見、大人の男ーって感じなのになあ」
他の子たちもくすくすと笑っている。無口な樫原さんまで、口元を緩めていた。
「春都が老成しすぎてるんだよ。こいつ、最初からこんな感じだったからな。騒がず、大人しく、常に冷静。そのわりに、言いたいことは言う」
驚いた。摂津オーナーが、俺のことをそんな風に見ていたとは思わなかった。過去の自分を考えると、笑ってしまう。
「だから、昼間のフロアを任せたんだけどな」
もう一人のフロアチーフ、俺にとっては大先輩の津島さんまで、そんな風に言う。
確かに、以前に比べたら色々なことを真剣に考えるようになったし、素直にもなった、と思う。あの頃は世の中を捻くれた目で見ていたし、自分のことにも他人のことにも無責任だった。
外見を変えたのも大きい。金髪もピアスもやめて、男を挑発するような服は全部捨てた。あのときはなんだか、解放されたような気分だった。
花見は、夕方近くにお開きになった。夕陽に照らされる桜と言うのも、綺麗なものだった。風が吹いて、ときどきはらりと花びらが落ちてくる。俺は片付けをしていた手をふととめて、思わず桜の大木を見上げた。
「きれいですね」
ふいに声を掛けられて横を見ると、同じフロア担当の沙耶さんが微笑んでいた。どこか名の知れた会社のOLをしていたらしいが、「gui」を気に入って、あっさり会社を辞めてうちにアルバイトに入った人だ。近いうちに社員になるだろうと言われている。
「うん。きれいだよな」
俺もそう微笑みかけると、沙耶さんは軽く目を伏せた。艶やかな髪に、桜の花びらがひらりと落ちた。
「あの、チーフ、彼女とかいらっしゃるんですか」
すっとあげられた真っ直ぐな目に、たじろぐ。でも、俺も真っ直ぐに彼女を見た。
「いない。けど、大事な人はいる」
今までも、何度か同じ質問をされた。その度に「いないけど、今はいらないかな」と俺は言っていた。でも、真っ直ぐなその目に、正直な気持ちを言わなければならないと思った。
彼女は少しだけ目をみはってから、「そうですか」と微笑んだ。
帰るぞ、とオーナーの声がする。俺たちは何も言わずに、歩き出した。
はからずも、彼女のおかげで俺は自分の気持ちを再確認した。まだ、想っている人間がいる。俺の中には、しっかりと、彼がいる。
ふと境内を振り返ったら、強い風に、花びらが一斉に散ったところだった。
一生一人でいるのか、と言われたら、わからないと言うしかない。でも、朗を想いながら他人を愛せるほど、俺も器用じゃない。隣に誰もいないことが淋しいと思うことはあるけれど、それにも慣れてきた。カフェを開きたいと言う夢もある。そのために頑張っていると、淋しさも紛れた。
五年経った。朗はもう、大学は終わって社会人をしているだろう。一体どんな職についているのか全くわからなかったが、きっと頑張って働いているだろうことは想像できた。
俺はずっと、夜の街には近づいていなかったし、俺と恭司が住んでいたアパートの近くにも、「goldfish」の近くにも行くことはなかった。同じ都内であっても、ここは全く反対側の、中心から三十分近く電車に揺られないとならない街だった。
ちゃんと一人で立ったら、会おう。
あのとき、俺は心の中でそう誓った。でも、今はもう、連絡先もわからない。少しだけ、失敗したと思った。将来の夢まで描けるようになったのに、朗に感謝の気持ちも伝えられない。
でも、あれからもう五年も経つのだ。今更連絡しても、朗も驚くだけだろう。二人で過ごした時間は、あまりに短かった。
朝の掃除を終えて、店内を見回す。まだ客のいない店内に、道に面した大きなウインドウから光が射しこんでいた。柔らかさより眩しさの増した、初夏の光だ。そろそろ季節のケーキが新しくなり、アイスティーの種類も増える時期だ。俺は窓から見える鮮やかな深緑に、思わず目を細めた。
「すびばせん、風邪ひいちゃって」と千華ちゃんからひどい鼻声で電話が掛かってきたのは、始業十分前だった。彼女の出勤は午後からだったから、急遽他のバイトを探したが、千華ちゃんが担当しているテラスを任せるには心許ない、新人くんしか捕まらなかった。それで午後は、彼にはいつものところを任せ、俺がテラスに出ることにした。
テラス担当は嫌いじゃない。とくにこの季節、外に坐るお客さんたちの気持ちは良くわかる。明るい陽射しや目にも気持ち良い深緑に、自然と頬も緩んでしまう。
テラスを出している広い歩道には、欅の木が植えられていた。重なる小さな葉は、日の光を和らげてくれる。俺はかなり良い気分で、テラスのテーブルと店の中を行き来していた。
「ずいぶんご機嫌だな」
オーナーにまで、からかわれる。
「千華ちゃんには申し訳ないけど、今日はテラスは気持ち良いですよ。楽しいです」
新人くんの様子を目の端で見ながら俺が答えると、オーナーはコーヒーをプレッションにかけながら笑った。
「みんなに見習って欲しい点の一つだな。おまえはいつも楽しそうに仕事をする」
楽しいですから、と微笑んだところで、テラスにサラリーマンの二人連れが坐ったのが見えた。一人はかなりがたいの良い金髪だった。外国人だろう。
出来上がったコーヒーをトレイにのせて、外に向かう。それを本を読んでいる学生風のお客様に出してから、サラリーマンの二人組みの元に向かった。金髪のお客様は、やはり外国人で、彫りの深い顔に茶色の瞳が甘く笑う。いかにも自信のある、会社重役といった風貌だ。もう一人のお客様は、こちらに背を向けていて顔が見えないが、日本人だろう。俺もにっこりと笑って「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」と決まり文句を述べた。
日本人の方のお客様が、メニューから顔をあげた。
――俺は、息を呑んだ。
朗、とその名が、口から零れそうだった。だが驚きすぎて、音にはならなかった。このカフェで働き始めてから、多分初めて、こんな呆然としたような顔を客に晒したと思う。
朗は、変わっていなかった。少し精悍になって、目が厳しくなったかもしれない。純情で朴訥とした感じより、出来るビジネスマンという印象が強くなっていたけれど、それはきっちりと着こなされたスーツの所為かも知れなかった。
でも、ひと目で朗だとわかった。
バーではにかんだ朗の表情も、桜の下で目を細めていた朗も、家族と一緒に笑っていた朗も、遠くどこかを見つめていた朗も、俺は忘れていなかった。
驚いた、朗の顔も。
「湯野さん……?」
声も変わっていない。俺の名を呼ぶ、温かい声。
忘れられていなかった。そう思ったら、唇が震えた。
「ロウ」
もう一人のお客様がふいに朗に話し掛けて、俺たちは見つめ合っていた視線をはずした。俺と知り合いなのかと、英語で訊いている。朗はにっこりと笑って、肯定した。それから綺麗な発音で「ずっと探していた人です」と言った。俺の、聞き間違え出なければ。
俺がまた朗を見ると、朗は柔らかく微笑んだ。こっちが赤くなるほど、甘い笑顔だった。心臓がうるさい。血が顔に昇っていく。
なんでそんなに、優しい表情ができるのだろう。
あんな風に、俺は何も言わずに目の前から消えたのに。
俺はみっともなくも、注文も訊けずに立ち竦んでいた。声を出すことも、できなかった。
また、何か英語で話をしている。だが、あまりに流暢で俺には何を言っているかわからなかった。
ふと二人の会話が途切れて、俺は仕事中だったことを思い出して、慌てて口を開いた。
「ご注文は、お決まりでしょうか」
声が震えた。顔も多分、笑っていなかった。
朗がいる。
そのことに、俺はどうしていいのかわからなくなっている。
「私はカプチーノを」
金髪のお客様がどこか面白そうな目をして、綺麗な日本語で注文をした。それから、おまえは? とでも言うように視線を朗に流した。
朗は口を開きかけて、でもすぐに閉じた。それから、ふいに俺の左手首を掴んで、ゆっくりと引っ張った。俺は慌てて、トレイを右手に持ち替えた。制服になっている白いシャツの手首のボタンを外される。朗が何をしたいのかわからなかったが、俺は何も言えなかった。
朗が俺に触れている。
あの、少しごつごつとした手。結構強い、握力。でも、俺に触れるときはいつも優しかった。
シャツを捲くられた。朗は俺の手首を握ったまま「ちょっと借ります」と言って、もう一方の手で俺が持っていたペンを引き抜いた。片手で器用にキャップをあける。
それから、朗は俺の腕の内側に数字を書いた。
「何をしてるんだ、ロウ。そんなところに……」
外国人のお客様が、驚いている。俺は、固まって動けずにいた。
0、9、0、8、2、――ペン先がくすぐったい。
「手のひらでは、消えてしまうでしょう?」
くすりと、朗が笑った。