琥珀に沈む月
09
それから朗は、ゆっくりとシャツを戻してボタンを掛け直した。そしてまるで何もしなかったかのように、「俺はこのペルーのコーヒーを」と言った。俺はなんとか注文を繰り返し、少々お待ちください、と言い慣れているからこそ出てきた言葉を言った。
注文を通したところで、摂津オーナーに「大丈夫か」と声を掛けられた。テラスでの様子を見ていたのだろう。俺はなんとか「大丈夫です」と笑顔を張りつけた。それでも、出来たコーヒーを運んでいく他のフロア担当が心配そうにちらりと俺を見て行ったから、そんなにひどい顔をしているのかと、俺は摂津オーナーを思わず見てしまった。
「おまえのそんな動揺してる顔を見るのは初めてだな。余程のことを言われたかされたか……」
手際よくコーヒーを用意しながら、摂津オーナーがそう笑う。俺はつい、自分の顔に手を滑らせた。
「客も少し引いてきたし、俺が出してもいいぞ、あのテーブル」
そこまで言われてしまい、慌てて首を横に振る。そんなに情けない状態なのかと吐息が零れた。
「すみません。大丈夫です。ちょっと昔の知り合いで、会うと思っていなかったので、驚いただけです」
オーナーは俺の言う「昔」を知らない。だが、「へえ」と言って首を傾げた。
「春都、『カロリーナ&コーネリア』の日本支社長と知り合いなのか」
それなら今度紹介して欲しい、と言われて、今度は俺が首を傾げる番だった。
「カロリーナ&コーネリアって、あのキッチンウエアの?」
その会社は、自社デザインものも扱っているが、日本では北欧系のキッチンウエアの輸入会社としても有名だった。シンプルながら温かさも感じるデザインが多い。
「そう、ウチでも使わせてもらってる」
これとかね、とオーナーはぽってりとした白い厚手のコーヒーカップに出来たてのコーヒーを注ぐ。紅茶用の茶色い丸いポットもそうだ。あれはお客様にも評判がよく、頻繁にどこで買えるのかと訊かれることがあった。
俺は驚いて、テラスを見た。二人は何やら談笑している。朗の顔は見えないが、彼の相手は、明るい午後の陽射しに心底楽しそうな笑顔をしていた。
「いえ、あの、もしかしてあの外国人のお客様が?」
「そう。どこかで見たことがある顔だと考えてたんだ。彼と知り合いなんじゃないの?」
「いえ、もう一人の方が……」
言っているうちにコーヒーとカプチーノが出来上がり、俺はそれをトレイに乗せた。背筋を伸ばして、テラスへ向かう。朗たちは何か英語で話をしていた。支社長だと言うお客様はこちらをちらりと見て笑ってくれたが、朗は見てもくれなかった。でも、おかげでいつも通りに振舞えたと思う。
その後は、仕事に集中することに必死だった。ふと視線を落とした先、左腕の内側がどれだけ疼いても、それを無視しつづけた。
夜組に引き継ぐと、俺はいつものように真っ直ぐ部屋に帰った。いつもならすぐにコーヒーを淹れて一服、というところなのだが、今日は左手が気になって、そっと手首のボタンを外すと、そこに書かれた数字をしばらく眺めた。そっと、指先で手首を触る。大きな、ごつごつした朗の手。あの体温。五年前の、たった一夜のことを思い出してしまいそうになって、俺はふいに手を引いた。それから、通勤に使っている布バッグから携帯を取り出して、腕の十一桁の数字のボタンをゆっくりと押した。
登録の名前に少し迷う。その名を見るだけで心が揺れそうになるのだ。でも、朗はやはり朗でしかなく、俺はその一文字を選んだ。
掛けるべきか、掛けないほうがいいのか。
わからなかった。俺は、今、きちんと一人で立っているだろうか。
それから三日、俺は毎日その数字を眺めていた。携帯を持つと、心がざわつくのをわかっていながら、その名を見てしまう。腕の数字は、シャワーを浴びたら消えてしまった。
ボタン一つで、繋がるのだ。あの声が、聞けるのだ。そう思うと、どきどきしてしまう。ばかみたいだ。それなのに、俺は電話を掛ける気がなかなか起きなかった。
怖かった。
優しい笑顔も、声も変わっていなかった。でも、変わっているところもたくさんあった。あんな大人の、自信に溢れた朗は知らない。どうみてもエリートビジネスマンな背広を着こなした朗なんて、知らない。
俺が五年で変わったように、朗も変わるのが当たり前だ。五年前のあの気持ちを大事にして、さらに膨れさせてしまった俺と、朗の気持ちが同じであるはずもない。
それでも、話はするべきだった。それはわかっていた。朗には、五年前の俺を責める権利がある。あとは俺が覚悟すればいい。何を言われても、傷ついた顔だけはしたくなかった。
四日目、明日は休日という日の夕方、俺はようやく決心した。一日あれば、泣いても平気だろう。泣いて、次の日にはまた、笑って仕事をできるだろう。
俺は仕事を終えて、部屋に帰った後、コーヒーを一杯淹れてそれを飲んでから、朗に電話を掛けてみた。夕方六時半。まだ仕事をしているかもしれない。
呼び出し音を聞きながら、窓際に寄って紫色の空を見る。擦りガラス越しに、ひどく優しい色だった。空気全体が、柔らかくなったような時間。
「はい、もしもし?」
ふいに朗の声がした。俺は胸が詰まって、すぐに声を出せずにいた。
「湯野さん? 湯野さんですか?」
温かい声だった。五年前と変わらない、声だった。
「うん、そう」
「ああ、良かった。電話、待っていたんです」
良かった、と心底ほっとしたしたように息を吐いたのがわかった。俺の胸は詰まったままだ。
「湯野さん? どうしたんですか?」
朗の声はどこまでも優しい。囁くような柔らかな声は、まるで朗の腕の中にいるような気分にさせて、堪らなかった。
「……会いたい」
目頭が熱かった。少しも感情をコントロールできなくて、掠れた声でうわ言のように呟いた。
「会いたいよ、朗」
絞りだすように言った俺に、朗は「二人で花見に行った公園、覚えていますか?」と言った。
花見の季節が過ぎた公園には、人影がほとんどなかった。時計の針はもう七時半を回っている。俺の住んでいるところからここまでは、電車を二度も乗り換えなければならなかった。それもあのときは夜で、繋がった手のことばかり考えていたから、駅から公園への道順に自信がない。朗は簡単だ、と説明してくれたが、気持ちが昂ぶっていてきちんと覚えたかわからなかった。それでも、朗が待っていると思ったら、俺は公園に向かって一直線に走っていけた。
小さな丘を登っていく。ぼんやりとした灯りしかないその辺りは、それこそ人がいなかった。
丘の頂上はかなり広い。俺はそのままぐるりと桜のトンネルの下を走った。葉が繁る木々が暗い影を落とす。その先、淡い光の下に長身の影を見つけた。俺が数メートル離れて立ち止まると、その影がゆっくりこっちを向いた。俺は息を整えながら、ゆっくりと近づいた。
朗はスーツを着ていた。少しも着崩れていない様子は、やはり朗をエリートビジネスマンのような印象にしていた。いや、実際そうなのだろう。カロリーナ&コーネリアは、今成長株の会社のはずだ。
朗の目の前に着いても、俺は何を言っていいのかわからなかった。俺たちは、しばらく無言でお互いを見ていた。
最初に口を開いたのは、朗だった。
「俺も、会いたかったです」
それが、電話での会話の返事だとわかるのに、少し時間が必要だった。
「朗……」
「俺、この近くに住んでいるんです。前のアパートじゃないですけどね。歩いて五分くらいなんですけど」
うちに来ませんか、と朗は言った。俺が頷くと、朗はふいに手を伸ばしてきた。戸惑って朗を見ると、手を取られた。そのまま、朗の春物のコートのポケットに入れさせられる。
顔に血が昇る。
耳の先が熱かった。
そういえば、初めてここに来たときも、手を繋いで帰ったことを思い出した。