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ユーフォリア――euphoria―― 第二話
09
七緒はやっぱりずるい、と哲史はどうにかなりそうな気持ち良さに悪態を吐いた。七緒が七緒である、ということだけできっとずるいのだ、と思う。それだけで、自分は良いように翻弄されてしまう。その手が七緒であると言うことが、その唇が七緒のものであることが、目の前にその顔があるということが、全部、自分の身体を敏感にするのだと思う。
「ん……七、緒」
抱き合っているときの七緒は無口だ、と哲史は思った。でも、艶やかに笑ったり、ときどき小さく囁かれる言葉に、くらくらしてしまう。
ここまでおかしくなるとは思っていなかった。男との経験は七緒はないと言っていたし、それなら、決して自慢は出来ないが、自分の方が有利だと思っていた。だから、もう少し余裕があってもいいはずなのに、もたらされる快楽についていきながら、理性を保つだけで精一杯だった。
「なん、で」
「ん?」
「なんで、躊躇わないんだよっ」
ぱくり、と咥えられたときは、驚きの方が大きかった。つっと舐められて、ぞくぞくと快感が背筋を駆け上った。
「洗ったんだろう?」
「そう言う問題じゃないだろ」
「俺にモラルを問う方がおかしい」
仮にも刑事が何を言う、と哲史は腹立ち紛れに髪を引っ張った。
「痛いよ。おい、こら」
丹念に舐められていたところから、ようやく顔が離れた。それと同時に足を掴んでいた手の力が緩まって、哲史はがばりと起き上がった。狭い布団で、やはり掛け布団はどこかに追いやられている。
「え?あ、哲史っ」
焦ると、「てつし」がずっと「てっし」に近くなる、と哲史は微笑んだ。その呼ばれ方が大好きだ。そのまま七緒のものを掴んで、手を添えて舐めると、髪の毛をくしゃりと混ぜられた。
「おまえな」
呻き声をかみ殺すような声がする。なんだ、好きなら気持ち悪くなるものではないのか、と哲史は思っていた。客をとっていたときに、初めてやらされたときは吐きそうになった。実際後で吐いたのだが、それからも、やれと言われなければ自分から進んでやりたいと思わなかった。まだ入れられているほうがましだと思っていたのだ。それなのに、これが七緒のものだと思うと、自分の手で育つそれが嬉しくてたまらない。
こら、と言われて引き剥がされて、思わず不満な顔をする哲史に七緒が苦笑した。別に忘れていたわけでもないのに、哲史の「慣れ」のようなものを感じて、七緒はくだらない嫉妬をした。くだらない、とわかっているのだ。その上哲史の目がふいに不安に揺れて、そのくだらなさを実感する。
「最初はおまえの中がいい」
抱き寄せて囁くと、一際体温が上がった気がした。
過去は消すことが出来ない。それをわかっていて、哲史はずっと不安だったはずだ。だから、本当はすぐにでも抱き合った方が良いのかと七緒は思ったときもあった。でも、哲史より余分に年を取っている分、七緒は未来を考えた。
脇に置かれた潤滑油のボトルに七緒は苦笑しつつ手を伸ばした。一体、誰が買ってきたのかと思うと、少しばかり気の毒だった。掌で温めてからそっと手を伸ばすと、哲史の全身が赤くなったのがわかった。
「力抜け」
首筋に口付けながら言うと、わかってる、と小さな声が返って来た。
どうして、と哲史は思っていた。それこそ色々な男にやられてきたのに、どうして今更こんなに恥ずかしくて堪らないんだろう、とぐるぐると考える。やっぱり、七緒はずるいのだ。
ゆっくり解されて、哲史はだんだん堪らなくなって来た。さっきまで舐めていた七緒のものを思い出して、はやく欲しいと思う。快楽のためだけではなく、繋がりたい、と切実に思う。
「七緒、もういい」
「哲史?」
「もう、いいから」
哲史は泣きたくなってきた。どうして、こんなに愛しいのだろう。どうして、こんなに幸福なんだろう。どうして――
哲史が泣いているのがわかって、七緒はゆっくり柔らかく微笑んだ。快楽からくる生理的な涙ではないことはわかっていた。そんなに、切なそうに泣かないで欲しいと思う。
そっとその目尻に口付けてから、七緒は慎重にその身を沈めた。細い掠れた声が上がって、目を一瞬細めた。どこか気を逸らさないと持っていかれそうだった。
「七、緒」
「ん?」
ゆっくりと全てを収めてから、一息つく。目の前の哲史の髪を撫で上げると、その顔がふわりと微笑んだ。どくり、と勝手に自分が反応するのが七緒はわかって、くっと息を殺した。
「おまえは……」
涙の残る潤んだ目が、艶やかだった。それが嬉しそうに光る。
「七緒だ。七緒が入ってる」
夢みたいだ、とうわ言のように無邪気な声でそう言った哲史に、七緒は苦笑するしかない。
「夢なんかじゃない。思い知れ」
ゆっくり動かすと、悲鳴のような声が上がった。慌てたように口を塞いだ哲史に、七緒は目を眇める。
「だって、隣、雪絵さん……」
それは、と七緒も哲史に協力すべく、口付けた。新居は少し防音も考えよう、と思いながら。
「でも、そうやって耐える顔はそそられるな」
ふと独り言のように七緒が呟いたら、睨まれた。でも、すぐにまた動き出した七緒に、あっけなくその表情が崩れた。
「ばっ……か」
にやりと七緒が笑う。でも、哲史は絶えず出そうになる声を抑えるのに必死で、あとはされるがままだった。ゆっくりとかき混ぜられ、撫でられ、口付けも受け、どうにかなりそうだった。
「ん……七緒」
「いいよ、いって」
腰の動きと手の動きが速くなって、哲史はもう声を抑えることなど考えていられなくなった。静かな夜の部屋の中に、哲史の声が零れる。それを他人の声のように聞いていた哲史の耳に、真っ白にはじけそうになった寸前で、七緒の小さな声がするりと滑り込んだ。
――哲史、愛してる。
それが合図であるかのように、哲史の頭の中で全てがはじけた。そのまま気を失いながら、やっぱり七緒はずるい、と思っていた。
引越し当日は、それに相応しく冬晴れした土曜日だった。七緒が突然哲史のもとを訪れた日から二週間が経っていた。無事次のバーテンも見つかり、惜しまれつつ哲史はヘディキウムを辞めた。
引越しには、来生と伏見が特に頼んでいないのだが手伝いに来てくれていた。まあきっと哲史に会いにきたのだろう、と七緒は思っていた。
それから、もう一つ。
「役に立ったでしょ?」
先刻、本棚を拭きながら伏見が笑ったのだ。何のことを言っているのかは七緒にもすぐわかる。あの非番明けから小さな事件が起きて七緒も忙しかったし、伏見も取り締まり強化月間で忙しくしていて、ちゃんと話していなかったのだ。と言っても、もちろん七緒は話すことなんて何もない、と思っていた。それを伏見が許すはずがなく、結果報告は義務とでも言うように聞いてきたのだ。
「哲史くんが痛い思いをするなんて我慢できないじゃない?」
と、そんなことまで言う。
「あのな、淑女がそう言うこと言うんじゃないよ」
「うわあ。嫌味?それともあんなもの必要ないくらいのテクニックはあるって?」
そりゃあ、まあ回数だけはこなしてそうよねえ。とこれもまた恥ずかしげもなく言う伏見に、七緒はため息を吐くしかない。
「あ、伏見、哲史に余計なこと吹き込むなよ」
「何を?」
「誑しだって言われたよ」
「真実は告げるべきでしょう」
「だからって……」
七緒はそう言いながら本棚の前にダンボールを積んだ。読んでいる暇などないのに、結構あるなあと思ったら、哲史のものが一つ混ざっている。
まったく、そこで否定しないところが憎たらしい、と伏見は思う。
哲史の不安は、そんなところにはない。それはわかっていたが、伏見は全面的に哲史の味方なのだ。
「誤魔化さないで答えなさいな。ちゃんと哲史くんを満足させた?痛い思いなんてさせなかった?」
「本人に聞けよ」
「あら、いいの?」
にんまり、という顔の伏見は恐ろしい。でも、哲史なら自分より伏見を満足させる答えを言うだろう、と七緒は思った。
伏見は早速とばかりに汚れた雑巾を持って、哲史と来生がいつダイニングキッチンへ向かった。やれやれ、と七緒は苦笑する。
「うひゃー。そんなに良かったってこと?」
伏見がにっこりと笑いながらやってきて、何事かと思っていると、「本人に聞けば?って言われたから」と、言われた哲史は、それが来生と伏見が言うところの「初夜」の話だとわかって、こっそりと秘密を打ち明けた。「気を失っちゃったんだよね」というと、ダイニングキッチンに来生の声が響いた。その目の前で、哲史が少し赤くなって笑っている。
「わかんないんだよな。良かったからなのか、七緒だからなのか」
哲史がそんなことを言って、来生まで赤くなる。最初に気を失った、というだけで来生には十分刺激的だったのだ。伏見も、あらまあ、と苦笑していた。
「何だ?」
俺を呼んだだろう、と七緒がひょいと現れて、三人は首を竦める。でもそこは無邪気な来生のこと、すぐにほうっとため息をついて、まじまじと七緒を見た。
「なんだよ」
「いやあ、先輩ってやっぱりすごいなあって思って」
しみじみ、と言う感じに言われて、七緒は首を傾げる。話の内容は先刻の伏見との会話で想像はついたのに、そんな感心されることなんてあるだろうか、と思った。哲史にそれとなく視線で聞いてみても、苦笑しているだけだ。
「おまえ、何言ったんだ?適当にしとけよ?」
「ん?ああ、七緒はすごいって話だけだよ」
何がだよ、と思いつつ、これ以上突っ込まない方がいいのだろう、と悟った七緒は、首を振りつつ、その場から逃げた。伏見がにやりと笑ってどうからかおうか、と企んでいるのが分ったのだ。
「愛されてるわねえ、七緒ってば」
その背中に、楽しそうな伏見の声が聞こえた。
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