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ユーフォリア――euphoria――
10
すっかり寒くなって、もう一年が終わろうと言う頃になって、ようやく哲史は家に帰ることになった。哲史が依存を克服するのとともに、グループのスタッフが、粘り強く哲史の両親と話し合いを重ねていた。まだまだ、親子の関係を修復するのには時間が掛かりそうだが、ぎこちなくも、三人の「生活」を重ねていくことにしたのだ。
最初のうちは面会にもこなかった両親が、ときどきでも顔を見にくるようになった。話すことが何もなくて、お互い黙ったままだったけれど、そろそろ戻れ、と父親が言ったのだ。
そもそも、両親一緒に来るようになったこと自体が進歩だ、と伏見は言った。ゆっくりと、焦らずに、それさえ出来れば大丈夫よ、とさんざん骨を折ったスタッフも言ってくれた。
良いと言ったのに迎えに来た両親に、はにかんだ笑顔を見せて、哲史は建物を出た。
――結局、一度も来てくれなかったな。
たった二ヶ月ほどだったが、ここに哲史がいることを、七緒は知っていたはずだ。そもそも番号を渡したのが七緒なのだ。それに、伏見が七緒に言わないはずはない。
仕方ないか、と哲史は一人苦笑する。
うんざりだ、と言った冷たい七緒の声は、忘れようと思っても忘れられなかった。あの、硬い横顔も。抑えたように笑う、その笑顔や、電話越しに何度も聞いた、やわらかい声とともに、哲史の記憶にしっかりと根を張っている。
七緒を恨んでいるわけではない。あの日からずっと、哀しくて、辛くて仕方ない日々は確かにあった。でも今は、あのとき手を離してくれた七緒に、感謝している。
あのまま、甘えつづけていたら、今日のこの日はなかったのだ。両親と、自分と、三人一緒に、歩むことなど。
両親の車に乗り込む前に、がんばったご褒美よ、とウインクしながら伏見が渡してくれたのは、携帯の番号が記された紙だった。知らない番号だった。でも、誰のものなのかはすぐにわかって、思わず伏見を見た。
「私の番号よって言いたいところだけど、それじゃあご褒美にならないものねえ。悔しいことに」
そこまで言って、伏見はにっこりと笑った。
「行く末に責任持たないけど、どちらにしろ、当たって砕けなさいな。……哲史くん、ちゃんと失恋してないでしょう」
「伏見さん……」
知られていたことに驚いて、哲史は一瞬唖然とした。
「あんな男のどこがいいのかちーっともわからないから応援しないわよ。頑固で、不器用で」
「でも優しくて、かっこいい」
にっこりと哲史が言うと、伏見が苦笑した。
「泣かされるわよー」
「そうしたら、慰めてくださいね」
哲史が極上の笑顔でそう言うので、伏見は不覚にも、ほんの少し顔を赤くして、立ち尽くしてしまった。それから、なんだか末恐ろしい子だわ、と呟いた。
――苦労するのは、七緒のほうかもしれない。
実際、顔を引き攣らせて伏見を呼んだ七緒に、伏見は苦笑を隠しきれなかった。
「なあに?」
「なあに?じゃないっ。おまえ、人の番号を勝手に教えるなよ」
だいたい、変えた携帯の番号を、七緒はほとんどの人に――というよりもしかしたら一人として――教えていないのだ。来生が、それじゃあ意味ないじゃないっすか、と呆れるほどに。そういえばそのときに、来生が勝手に人の携帯をいじっていたのを思い出した。あのとき、番号を見られたのだろう。まったく、来生は誰の後輩だと思っているんだろう。
「あら、せっかく買った携帯が眠ってるのはもったいないじゃない?それとも、私からのラブ・コールのほうが良かった?」
冗談じゃない、と思うが、七緒はそれを口に出さずに頭を抱えた。
「なあに、そんなに熱いラブ・コールでも貰ったの?」
「伏見、おまえ楽しんでるだろ」
「教えなさいよー。さんざん苦労かけたんだから」
そう言う伏見は本当に楽しそうだ。七緒は頭を振って、ため息を吐きながら、出て行った。
全く余計なことをしてくれる。
哲史が家に帰ったことも知らなかった七緒の元に、いきなり哲史から電話が掛かってきて、一瞬声も出なかった。哲史はお願いだから切らないで、と言って、あのときはごめんなさい、そしてありがとう、と一息に言った後、あろうことかこう続けたのだ。
『本当は、これだけ言いたかったんだ。俺、七緒のこと好きだから』
『は?』
『あ、愛してるって意味だからな。それだけっ』
哲史は言いたいことだけ言って、一方的に電話を切った。残された七緒は、ただ呆然と、携帯を見つめていた。
好き、だって?
――愛してる……だって?
そう言う対象で見たことはない、と七緒は思っていた。いや、今も思っている。それなのに、また携帯を見つめる日々が始まってしまった。メモリーに一つだけ入っている、哲史の番号。その番号に掛けようと悩んでいるのか、その番号から掛かってくるのを待っているのか、七緒にもはっきりしない。
あの最後の別れ方を、七緒だって苦い思いとともに覚えている。あんなに辛くて、哀しいことはなかった。結局最後まで、哲史の顔を見られなかったのだ。あのときのことを、いつか謝りたいと思っていた。伏見に様子を聞きながら、次第に元気になっていく哲史に、安心して、励まされもした。
七緒も弟の墓参りをして、残された少ない遺品を整理し、何度も考えた。
そうしてようやく、藤吾の死を受け入れた。
なぜ死んだのか、考えても無駄なのだ。藤吾はあの信仰を信じ、自分には何も言わずに死んでいった。その事実を、受け入れた。
ただ、忘れないと、それだけを墓前に誓って。
さんざん悩む七緒の携帯が再び鳴ったのは、クリスマス・イブのことだった。伏見は携帯を睨む七緒のことを、男らしくなーい、とからかっていた。その伏見の情報屋がやたらといる署内ではなく、家に帰る途中で携帯が鳴ったのが、七緒の唯一の救いだ。
『はい七緒』
声に戸惑いが出るのは、仕方ない。最初の電話から、ずっと考え込んでいたのだ。そして、答えはでていない。というより、何に答えなければいけないのか、わからないのだ。哲史が答えを望んでいないことはわかった。でも、それでは七緒の気持ちが落ち着かない。
『俺……哲史』
哲史の最初に黙る癖は、直っていない。それに少し安心して、七緒は軽く笑った。
電話越しに、七緒が微笑んだのがわかって、哲史はほっとすると同時に、どきどきするのがわかった。七緒がいる、それだけで落ち着かないのに、声を聞いたらどうしたらいいのかわからない。
『どうした』
七緒の声が優しくて、泣きそうになる。
『……一人?』
『嫌味なやつ。俺にクリスマスなんてないって知ってるだろ』
七緒の懐かしい軽口に、哲史は笑う。笑いながら、泣きそうだ。
会いたい。
七緒に、会いたい。
電話なんて頼りないものじゃなく、ちゃんとこの目で見たい。そして、七緒の目にきちんと映して欲しい。
『仕事なのか』
『情け容赦ない俺の上司は、そんな理由さえプレゼントしてくれなくてね』
『どうするんだよ、これから』
遠慮深い哲史の声に笑いながら、七緒は意地悪にも少し考える。いつだって明るいが、今日は一段と光っている街を、横目で眺める。
『ほんとに、一人?』
『おまえは?彼女の一人くらいいないのか?』
ふっと黙った哲史に、七緒は苛めすぎたと知る。こんなことを言いながら、自分は哲史の言葉を待っている。ずるい、と思う。臆病で、情けなくて、ずるい。
『えっと……哲史』
『……会いたい』
『え?』
『七緒に、会いたいんだよ……っ』
何やら泣き出したような様相に、七緒は慌てた。それで、すぐに迎えに行くことを約束して、駅へ向かって走り出した。
切れた電話の向こうでは、哲史が爆笑していた。思わず感極まったのは本当だが、そのあと慌てた七緒に、泣きながら笑ってしまった。
泣くものか、と決めたのに、伏見の言う通り、泣かされている。
七緒はまだ、自分のことを弟のようにしか見ていないだろう。でも、それでいいと思った。まだまだ泣かされるかもしれないが、それでもいい。
もう我慢などせず、自分の気持ちを偽ったりなどせず、生きていこうと、決めたのだから。
「久しぶり」
そう言い合った二人は、互いをひどく眩しいもののように、目を細めて見つめあっていた。
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