半夏生
08
「よお、随分立派な勲章じゃねえか」
笑いを含んだ声がして窓から視線を外すと、寺井が笑って立っていた。
「よせよ。ガキみたいな傷だ」
こんなのは、勲章どころか不名誉だ。
寺井が近寄ってきて、親指で絆創膏の上をぐっとなぞった。
「厄介な部下を抱えてんな」
おまえもな、と言いかけて、鴇田は口を噤んだ。夏目が厄介なのは、自分に対してだけの話だ。
「なんでその話を知ってるんだ」
代わりに、疑問を口にした。課員には、直接的な言葉ではないにしろ、口止めをしておいた。
「あのな。パーテーションで区切られただけの隣だ。悲鳴だって聞こえてくる」
それはそうだ。鴇田はため息を吐いた。
「ちょっとした喧嘩だって、課員には言っておいたけどな」
寺井はそつがない。鴇田は感謝の意もこめて、煙草を差し出した。今朝開けたばかりのその箱の、最後の一本だった。
「寺井課長」
火をつけてやったところで、声がした。夏目が帰り支度をして、立っていた。
「おう、お疲れ」
夏目は鴇田の顔を見て、軽く目を眇めた。だが、それには触れずに、すぐに寺井に視線を移した。
「先刻の図の直し、デスクの上に置いておきました」
「ああ、わかった」
寺井が頷いたのを見て、夏目は「お先に失礼します」と頭を下げてエレベータに向かった。
それから一時間ほど仕事をして、鴇田は会社を出た。癖のように空を見上げたところで、お疲れさまです、と聞き慣れた声がした。
「夏目……帰ったんじゃなかったのか」
夏目は何も答えなかった。代わりに、飯に行きましょう、といつものセリフをいった。鴇田には断る理由がない。頷いて、歩き出した。
昨晩のことを忘れたわけではない。だが、鴇田は面倒を考えるのが嫌いだった。夏目が望むままにする。そう決めたならば、それを遂行するだけだ。
だが、サハラに行くのは躊躇った。こんな傷をつけた鴇田のことを、あの百合絵ママがからかわないはずがない。わざわざおもちゃになりに行く気はなかった。夏目はそれに納得したのか、少し考えてから駅に向かって歩き出した。オフィス街は、いつも人通りが少ない。
「どうしたんですか、その傷」
「どうもしない。事故みたいなもんだ。ただのかすり傷。舐めときゃ治る」
まだ飲みたいなら他に行くか、呟いた鴇田を、夏目がじっと見た。
「なんだ?俺も飲みたい気分ではあるんだ。おまえは明日も出勤か」
月初めの土曜日は、鴇田にとって貴重な休日だ。特に何かするわけではないが、土曜の出勤を喜ぶほどの仕事好きでもない。仕事は仕事だ。
夏目は首を振った。だが、視線は鴇田から離れなかった。
ふいに、夏目が立ち止まる。
「夏目?」
「どうして」
珍しく掠れた声だった。
「どうして、警戒しないんですか」
「警戒?」
「昨日の、今日なのに」
すっと夏目の腕が伸びて、鴇田の頬の絆創膏をゆっくりと剥がした。それから、ゆっくりとその顔が近づいてきて、ぺろりと、その傷を舐めた。傘がぶつかり合って、ぼたぼたと雫が落ちた。
「何をしてる」
「舐めときゃ治る。そう言ったのはあんただ」
鴇田はため息しかつけなかった。宇宙人――市河も夏目も、計れないと言う点では同じだった。
「どうして、逃げないんですか」
「逃げる?」
「普通は、逃げませんか」
「普通は、こんなことをしない」
なんとなく手の甲で頬を拭った。夏目はじっと、鴇田を見つめたままだった。黒い瞳に、ちらちらと車のライトが映る。
「どこまで、逃げないんだろう」
夏目が呟いた。鴇田には、意味がわからなかった。
「おまえは、一体何がしたいんだ」
ばしゃばしゃと、車が水を跳ねていく音がする。永遠に降り止まないかのような、雨だった。
「……セックス」
夏目の答えは、予想外であったとも言えたし、どこかでわかっていたような気もした。
「こんなオヤジ相手に?」
夏目は答えなかった。どこか、後悔したような顔をしていた。
「欲求不満なのか?おまえなら、いくらでも相手がいるだろうに」
本心だった。夏目に色目を使っている女子社員なら、噂に疎い鴇田が知っているだけでも数人いる。
「まあ、男しか相手が出来ないなら、色々難しいだろうが」
鴇田は慎重に言葉を選んだ。もう、この青年を傷つけたくなかった。
「驚かないんですね」
「おまえより無駄に長生きしてるからな。色々な人間がいることは知っている」
実際、大学でそう言う噂のある男はいた。友人ではなかったし、そのときは、ふーんと思っただけだった。
「してくれるんですか」
夏目の黒い目が、湿気を帯びていた。湿度百パーセントの空気が、そこに染み込んだようだった。
「物好きなんだな。好きにしたらいい」
夏目の目が見開らかれた。鴇田はそれに気付かなかった振りをして、歩き出した。
無言のまま、二人は駅まで歩き、電車に乗った。夏目はいつもとは反対方向の電車だった。
鴇田の部屋に着いた途端、夏目は後ろから抱き締めてきた。湿った空気が、首筋に纏わりついた。押し付けられた唇が、冷たかった。
鴇田は先刻の言葉どおり、夏目の好きにさせた。
夏目と抱き合う意味など、考えなかった。
窓を叩く雨の音だけが、耳についた。そこに混じる、夏目と自分の荒い息が、どこか遠かった。
トン、トン、トン、と規則的な音がしている。少し響きを含んだその音に誘われるように、鴇田の意識が緩やかに持ち上がった。雨音だ、と思った。そう言えば、物置同然のベランダの荷物に、水滴が落ちて煩かったことを思い出した。
身体が疲れきっていて、持ち上がらない。後は衰えるばかりだから、少しは運動しろ、と言った寺井の声が過ぎる。若い頃に運動していたのが良かったのか、鴇田の身体には無駄な肉はついていないが、だからと言って立派な筋肉がついているわけでもなかった。
目を開けて窓を見た。外はどんよりと曇っていた。
鴇田は煙草を吸いたくなって、そろりと起き上がった。身体に伺いを立てながら起きるのは、情けないに違いなかった。
ベッドヘッドに身体を預けて、ナイトテーブルの上の煙草を探る。ひしゃげたケースからやっと一本取り出して火をつけると、深く吸い込んだ。
雨音の合間に、すーっと健やかな寝息が隣から感じられた。気だるいままに横目で見た先には、鍛えられた若々しい背中があった。しみのない、はりのある肌が滑らかなことを鴇田は知ってる。
初めて抱き合ってから、夏目は週に一度か二度、鴇田の部屋に来るようになった。そのうち何度かは、こうして泊まっていく。最初の日の朝、鴇田が起きたときには夏目はいなかった。鴇田はそれに心底ほっとした。夏目はただ一切れの、携帯の番号を記した紙を残していっただけだった。急いでいたのか、それは引き千切られた紙切れの上に乱暴な字で書かれていた。鴇田はそれを一度丸めたが、結局捨てずに手帳に挟んでいる。だが、一度も鴇田から電話を掛けたことはない。
夏目も、電話を掛けてくることはなかった。
今になって、誰かとこうして朝を迎えるようになるとは鴇田は考えていなかった。それも、相手は年下の部下の男だ。
鴇田は長い煙を吐き出した。何も考えたくなかった。
どうしてこんなことになっているのか。
夏目は何を考えているのか。
考えるだけ無駄で、面倒だった。その上、一番戸惑うのは、自分がこの行為に快感を感じていることだった。始めは、冷や汗が出るほど痛かった。それが当たり前のことだと思った。そうじゃなければ、意味がなかった。
抱き合っているとき、二人の間に会話はない。だが、一方的なわけでもなかった。夏目は、鴇田の快感も引き出そうとする。
まるで悪夢だ。
夏目と抱き合った後、いつも思う。ひどく後味の悪い悪夢を見たようだ、と。
もぞりと夏目が寝返って、ぼんやりと目を開けた。鴇田は煙草の灰を落として、おはよう、といった。時計を見ると、五時だった。家を出るまで、二時間はある。
おはようございます、と返した夏目の腕が伸びてきて、煙草を取られた。夏目は何故か、鴇田が吸っている煙草を横取りする。新しいものを出そうかと言っても、いらないと言われるだけだ。夏目は一度だけ深く吸って、鴇田に返す。
男二人には狭いベッドをぎしりと鳴らして、夏目は起き上がった。惜しげなくその裸体を晒して、鴇田を跨いでベッドを降りる。夏目は壁際で眠る方が好きらしい。何度目かに、鴇田が気付いたことだった。
夏目はそのままシャワーを浴びに行く。礼儀正しさは崩れることなく、最初は全ての行動について、鴇田に了承を求めてきた。面倒だから好きにやってくれ、と言ったのは鴇田だ。
三本目の煙草を吸い終わった頃、夏目がシャワーから出てきた。髪は濡れたままで、昨日の服を着ている。下着は新しいものを鴇田が用意していたが、最近はシャツと共に夏目が自分で着替えを置いておくようになった。
ひどい悪夢だ。
鴇田はようやく起き上がって、パジャマのズボンだけを身に付けた。着替えていると言うことは、夏目は一度帰るつもりだろう。
唯一の料理道具と言っていいコーヒーメーカーをセットすると、鴇田は目の前のキッチンの窓を開けた。雨はしとしとと降り続いている。
「髪ぐらい乾かしていけ。コーヒー、飲むか」
こぽこぽとコーヒーが落ちる音がし始める。夏目はいただきます、と答えて洗面所に向かった。
コーヒーが出来る頃、夏目が戻って来る。鴇田はカップにコーヒーを入れて渡し、自分はシャワーを浴びに行く。シャワーから出てきた頃には、夏目はいない。
鴇田が先に起きたときは、大概そんな風だ。夏目が先に起きたときは、知らぬ間にいなくなっていることが多い。
夏目は一体、何をしたいのか。
鴇田はその答えを、いまだ貰っていない気がしている。