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青空でさえ知っている

08

 安里が駆けつけたとき、日尾はもう保健室に連れて行かれたところだった。倒れた笹は食堂側のものだったが、そのすぐ反対側に、保健室がある。
「ちょっとやばかったよなー」
「あれ、頭打ったんじゃねえ?」
「よく日尾が飛び込んだよ。よりにもよって、下の方にいただろ、あいつ。日尾が庇わなかったら、竹が頭にぶつかったかもなあ」
「腕とか、結構血だらけだったよな。葉っぱで切ったんじゃねえ?」
 周りの声に、下敷きになったのはやはり日尾で、怪我をしたことを知った。笹と言っても、数メートルはありそうな立派なものだ。これが倒れてきたかと思うと、ぞっとする。安里は居ても立ってもいられなくなって、保健室に向かった。
 保健室には、外からも入ることができる。そのドアは開け放たれていた。そっとそこから中に入ろうとすると、声が聞こえてきた。泣いているような、震えた声だった。
「先輩、本当にすみません。俺があんなところにいたから……」
「大したことないって。だから、気にするな」
「でも、こんな血が出てるんですよ」
 声に聞き覚えがあった。あの一年生――小野寺笙だ。
「葉っぱでちょっと切っただけだろ。全然深くないし、大して痛くもない」
 苦笑するような日尾の声がしていた。安里はドアから先に入ることができずに、そこに立ち竦んでいた。
「安里? 理、いるんだろ?」
 ふいに背中に温かい感触があった。見上げると、二葉が「どうした?」と首を傾げていた。
 入ろう、と背中を押される。安里は慌てて、靴を脱いだ。
 日尾は椅子に坐って、保健医に手当てを受けていた。伸ばした腕には、確かにいくつもの切り傷と、擦り傷が見えた。
「よお、理。どじったんだって?」
「うるせーよ」
 日尾がにっと笑う。だが、その顔はすぐに歪んだ。消毒が沁みたようだ。
「違います! 理先輩は俺をかばって……」
 小野寺の悲痛な声が響いた。それから、感極まったように、言葉を詰まらせ、ぎゅっと唇を噛む。
 まったく仕方がない。日尾はそんな顔をして、ぽんぽんっと、空いている手で小野寺の頭を叩いた。涙を堪えきれなくなったか、その顔が俯いた。
「だから、おまえが責任感じる必要はないって言ってるだろ? あそこの監督責任は俺にあったんだし、思った以上に笹が重くなってるの、ちゃんと考えられなかったのは俺なんだから」
 日尾の表情は優しい。大丈夫、安心しろ。そう言うように、何度も柔らかく、小野寺の頭を撫でていた。それは、保健医に、反対の手を差し出すように言われるまで続いた。
「信吾、ちょっとこいつ連れて行って、状況訊いといて。あとで報告書あげないとなんないと思うから」
 ついでになんか飲んで、落ち着かせてさ、と日尾が言うのに、二葉が隣で頷いた。安里がどこか心細いような気持ちになって、思わず隣を見ると、二葉はにっこりと笑って、ぽんぽんっと頭を叩いた。途端、後輩と同じことをされたことに気付き、恥かしくなる。
「信吾、早くしろ」
 日尾の怒ったような、低い声がした。二葉はそれにもにっこりと笑顔を残し、日尾が心配だと渋る小野寺を引っ張っていった。
 背中が、ひんやりと冷たい。先刻まで、ずっと二葉の手の感触があったのだ。
「中ノ瀬も、大丈夫だから――」
 そこまで言ったところで、日尾は息を呑んで、目を閉じた。ぐっと眉根が寄る。
「痛ってえ……ちょっと先生、やばいとこは先に言ってからやってよ」
 見ると、擦り剥けた個所に消毒をしたようだった。細かい擦り傷に、安里も思わず顔を顰めた。
「ああ、ごめんごめん。いや、さっきからかっこつけてるから、平気かなあと」
 保健医は呑気にそんなことを言っている。日尾はまだ痛みに耐えているようだ。
「細かい傷が多いから面倒なんだよなあ。ちょっと中ノ瀬、手伝って」
 ふいに保健医に言われて、安里はおずおずと近づいた。「はいこれ。傷に塗って」と、チューブを渡される。
「そんなの、自分でやるよ」
 腕を持とうとしたら、大丈夫だから、と言われてしまった。安里は伸ばしかけた手を、ぎゅっと握った。それから一気に喋った。
「ごめん。俺、水運んでる途中だった。バケツ転がしちゃったまんまだ」
 行かないと、と叫んだ声が、少し震えた。
 渡されたチューブを机の上に置いて、勢いよく保健室を飛び出す。靴をきちんと履けなかったが、そのまま走った。
 笹を運ぶ実行委員たちの脇を通り、大階段を駆け下りた。走っているのに、ぎゅっと唇を噛み締めてしまう。息が苦しくて堪らなかった。
 手を伸ばしたとき、日尾の腕がびくりと震えた。僅かに日尾の身体に引き寄せられたそれは、まるで、安里の手から逃れようとしたように見えた。
 嫌だったのだ。きっと、日尾は安里に触られるのが、嫌だったのだ。
 外水道についたとき、安里はしゃがみこんでしまった。走っただけではなく、息が荒い。心臓が、ずきずきと、嫌な音を立てていた。
 泣いてしまいそうだ。そう、思った。


「今回は、またいつもとは違った路線の本なんだな」
 梅雨はまだ明けていない。だが、降る雨はしとしとと静かで、どこか秋の雨を思わせた。POPに合わせた本を並べながら、安里はその雨音を聞くとはなしに聞いていた。
「今回は守谷に当たったんだ? うん、なんかね」
 俯いて、自嘲気味な笑みを洩らす。視界には、クリップに留められて揺れるPOPが映っていた。綺麗な青いペンで書かれた文を読むと、海の本を薦めているらしい。
「中ノ瀬、この路線は今までほとんど推薦してないよな」
「うーん、一回だけかな?」
「ああ、三島か」
 でも、あれはまた違うだろう、と守谷に言われる。
 通常、図書委員ではPOPは月初めに新しいものに変える。だが、七月は夏休み前に本を借りてもらおうと、中旬にもう一枚、POPを書くことになっていた。それを並べると、七十枚近いPOPがひしめきあう。
 安里たち二年生の図書委員は、POPの内容を考えた人間と、書いた人間が別になるようにしている。筆跡で、誰が書いたのかわからなくするためだ。今回は、安里のPOPを守谷が引き当てて書いたらしい。
「……なんかさ、これ読むと、中ノ瀬がすごく辛い思いをしてる風に思えるんだけど」
 守谷の声は遠慮がちだった。安里は「そういうわけじゃないんだけどね」と笑う。
「俺も、ちょっと前にこれを読んだら、こんな風に思ったのかもなあ」
 守谷は、ついこの間、ようやく両思いになったところだ。相手の長倉智は図書委員の中では有名で、彼が図書館にいるときは、なるべく近寄らない、が委員の中の鉄則だった。閉館を知らせに行くのも、守谷がいたら絶対彼に任せる。もちろん、二人が喋っているときは、たとえ用があっても邪魔はしない。
「守谷は、もうちょっと器用かと思ったんだけど」
 安里の言葉に、委員長は笑って、ぴんっとPOPを指で弾いた。本人が書いたものだ。彼は筆跡まで毎回変えていて、今回は何故か豪快な書き方だった。隣には小さな四角い箱が並べられた、薄黄色の写真が表紙の本が置いてある。タイトルは『オトナの片思い』。そのタイトルに惹かれて、つい手に取った本だった。本当は、いつでも前を見て、信念に基づいて突き進む若き王が主人公のファンタジーを紹介しようと思っていたのに、その本のPOPをどうしても書けなかったのだ。
「恋愛に器用な奴なんて、いないと思うけどな。大人だって、片想いに余裕があるように見せるのは、不器用さの現われかもしれない。器用なら、余裕なんて見せないと思うよ」
 それは恋愛ではない気がするし、痛々しい感じも受ける。
 守谷が続けた言葉に、安里も「そうかなあ」と考えた。確かに、痛々しい感じはあったかもしれない。素直になれず、余裕があるように見せて微笑む、その姿に。
 顔を上げると、水滴が窓をゆっくり落ちていった。滲む窓の向こうに、椿の木が見える。
「まあ、中ノ瀬は、格別恋愛には不器用に見えるよな」
「……なんだよそれ」
「そのまんま。だいたい、相手に何も言わない、始めようとしない片想いって言うのは、それこそ大人の片想いだと思うぞ。臆病で、先回りして、色々考えて自分の思いを閉じ込めるなんて言うのは」
 安里は愕然とした。これではまるで、守谷は安里の思いも、その相手さえも、みんなわかっている見たいじゃないか。
「あー、これは、推論。中ノ瀬を見て、中ノ瀬ならこんな風に恋愛しそうだよなあ、って勝手に考えた推測だから」
 取り繕うように、守谷が困った顔で手をひらひらとさせた。もちろん、安里はそんな言葉を信じるほど馬鹿じゃなかった。守谷の頭の中には、きちんと確かな人物がいる。
「なんでバレてんの……」
 はあ、と大きな溜息をつくと、守谷が苦笑した。
「まあ、中ノ瀬さ。俺たちは幸いなことに、まだ大人になりきってはいないと思うから、子供なりの、恋愛をした方がいいと思うよ? 猪突猛進、後先考えない、玉砕覚悟の、高校生らしい奴をさ。俺もかなり回り道をしたから、他人の事言えないんだけど」
 慰めるように、肩を叩かれる。
 猪突猛進、玉砕覚悟――。それが本当に高校生らしい恋だと言うのなら、確かに自分は、臆病なほど反対のことをしている。でも、あまり好かれていないらしい身では、突き進むこともできない。例え玉砕覚悟でも、相手にはいい迷惑だろう。
 全部で七十二冊分のPOPと本を、なんとか並べ終える。ところどころ空いているのは、既に借りられているからだ。
 雨は降り続いている。まだ当分、梅雨が明ける気配はなかった。


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