春の夜を疾走し 08
 01 02 03 04 05 06 07 * 09




春の夜を疾走し

08
 一瞬、辺りが静まり返った。だがすぐに、ドアを叩く音が聞こえた。騒ぎを聞きつけた寮生が、寮長を呼んだのだろう。深山の声がした。
 高居ははあっと息を吐き出した。
 ずっと黙ってきた。校医の原澤には隠しきれないとわかっていたから話をしたが、陸上部顧問の石神にも、部長の名倉にも、言わなかった。――言えなかった。
 走れなくなったのだ、と。
 病気と言うことを考えれば、走れなくなったと言う言葉が正しい。でも、高居本人にしてみれば、走ることを止めたのだ、という思いが強かった。足は動く。ただ、心臓がもたないだけだ。いっそ足が動かなかったら、諦められたのに、と思う。
「だからって」
 さっきから、梅野は高居の腕を痛いほど強く握っている。細い指が、食い込むほど。
「だからって、こんなことで過去まで壊す必要ない」
 ひどく静かな声だった。高居は、ものすごく久しぶりに、誰かの言葉を聞いたような気がした。
 掴んでいた古柴の襟首を離す。ゆっくりと右手も下ろすと、梅野の細い指も離れていった。
 高居が傍らを見ると、梅野が泣きそうな目で自分を睨んでいた。怒っている、と高居は思った。梅野がこんな風に怒るのを見たのは、初めてかもしれない。
 古柴が自分の襟元を掴んで、緩めるように何度か頭を振った。
「そういうことかよ」
 吐き出すように、言う。高居が古柴を見ると、自嘲の笑みを浮かべていた。それからふうっと何かを諦めるように息を吐き出すと、「梅野」と静かな声で言った。
 梅野が顔を上げる。
「歯、食いしばれ」
 高居がその言葉に目を眇めたとき、古柴の拳が梅野の顔を殴っていた。容赦のない殴り方だった。
 高居はかっとして、その古柴に再び殴りかかろうとした。
「古柴あ」
「高居っ。いいから」
 梅野が、今度は正面から腕を押さえてきた。高居は荒い息を何度か吐いた。目の前の古柴にはもう、戦意はないようだった。それを見て、高居も昂ぶった気持ちがゆっくり押さえられていく。
 古柴は、ゆっくりと息を吐き出して、梅野を真っ直ぐに見た。
「これで、許してやる」
 その言葉を聞いて、高居を押さえていた梅野の目から、涙が零れ落ちた。同時に「ごめん――」と言う言葉が小さく聞こえた。古柴はそれには何も言わずに、ドアの方角に顔を向けた。
「深山たちが煩せえな。ちょっと説明してくる。ついでに、今日は戻らないから」
「戻らないって……」
「さすがにどっかで憂さ晴らししねえと、やってらんねえ」
 古柴はそう言いながら、部屋を出て行った。
 

 残された高居と梅野は、とりあえずキッチン前のスペースに移動した。高居は梅野をソファーに坐らせ、氷とタオルを用意した。それで殴られた頬を冷やすようにと梅野に渡し、薬缶を火にかける。無関心を通していたと言っても、一年も同じ部屋で暮らしたから、梅野が紅茶には凝っていることは知っていた。と言うより、母親の仕事の関係で、質の良い茶葉が手に入るようだった。
 高居はもちろん、そんな茶葉は持っていない。コーヒーならインスタントでも飲むのを知っていたから、カップに二つ、コーヒーを用意した。
 湯が沸くのを待ちながら、高居は気になっていたことを訊いてみた。
「梅野、知っていたのか」
 ちらりと見た梅野の目は、すっかり乾いていた。たった一筋の、涙だった。だがそれが、高居の脳裏にくっきりと刻まれている。
 梅野が片手でタオルを押さえながら、「わからない」と言う顔をしている。高居は視線を逸らして、薬缶を見つめながら、もう一度訊いた。
「俺が走れなくなったってこと、知ってたのか」
 言うと、ああ、という顔をした。
「うん。知ってた。たまたま、原澤さんと話してるところ、聞いたんだ。ごめん」
 あのときか、と高居は思った。体育教師の日下に授業態度の不真面目さを咎められ、体調が悪いと言ったら原澤のところへいけ、と言われた。原澤は誤魔化せない。それは運動部なら誰でも知っていることで、高居はいつかは提出しなければならないと思っていた診断書を持っていった。
「別に、謝らなくてもいい」
 コーヒーをいれて、ローテーブルに置く。そのまま手を伸ばして、タオルを押さえている梅野の手をそっと外させる。気になっていたそこは、やはり赤く腫れていた。
「痣になるかもな……口の中は? 切ってないのか?」
 困ったような表情で、大丈夫、と梅野は言って、またそこにタオルを当てた。
「これは俺が悪いんだ。これだけで古柴が許してくれるなら、あいつも心が広い」
 高居には意味がわからなかった。だが、どこか痛々しい梅野に、それ以上のことは訊けなかった。
 二人でしばらく、コーヒーを啜った。ソファーに隣り合っているその僅かな距離に、どことなく緊張する。梅野はじっと、何か考えているようだった。
「もう走れないって、本当なのか」
 長い逡巡の末に、梅野が訊いてきた。高居はそれに、素直に頷いた。
「ああ。体調がよければ、多少は運動できるとは言われた。でも、前みたいに思い切り走ることはできない。心臓がもたない」
「心臓……。お兄さんも、同じ病気だって言ってたな」
 高居はコーヒーを飲んで、頷いた。思ったより、平気で話している自分が不思議だった。
 そう、もう走れないのだ。
「兄貴は、野球馬鹿だったんだよな。ピッチャーでさ。野球に命賭けてるような奴で――実際、マウンドで死んだ」
 今もまだ、覚えている。甲子園の地区予選の決勝で、暑い日だった。高居の兄は、いつもの綺麗なフォームで投げた後、マウンドで倒れた。そしてそのまま、帰らぬ人となった。
「それから、親は俺にも陸上止めろって煩くて。でも、まだ走れるのに、止めることなんて出来なかった」
 高居の心臓が弱まりだしたのは、去年の夏を過ぎてからだった。インハイで、準優勝という悔しい思いをした、その後。それでも、なんとか冬までは誤魔化してきた。
「兄貴を、羨ましいと思ったこともある。病気のこと、誰にも言わないでさ。好きなことやるだけやって、そのマウンドで倒れて――。俺も、走って死ぬならそれでもいいと思った。足が動く限りは、走れるんだから」
 だがもう、両親を悲しませることはできない。ずっと心配してきた母親のためにも、今まで好きにさせてくれた父親のためにも、親不孝な子供を二人も持たせてはいけないと思った。
 だが、気持ちはそれほど簡単には納得しない。だから冬以降、高居は自分の気持ちがなかなか制御できなくなってしまった。
 過去を壊すな、と言う梅野の言葉は、その高居の胸に、すとんと落ちてきた。そう、もう過去なのだ。そして、今まで精一杯走ったことは、確かなのだ。
 急に感謝の気持ちが湧いてきて横を見た高居は、ぎょっとした。梅野が声を殺して泣いていた。
「なにまた泣いてるんだよ」
 頬を冷やしていたタオルを口元に当てて、梅野は嗚咽を堪えていた。それから何度か深呼吸をして、きっと高居を睨んだ。
「高居が、死ぬとか言うからっ」
 死ぬならそれでもいいとか、言うなよ。
 梅野は怒ったようにそう言った。梅野のお蔭でずいぶん落ち着いた気持ちになっていた高居は、少々呆気にとられてしまった。
「死ぬかよ、馬鹿」
「おまえが言ったんだろ」
「死なないために、走るの止めたんだから」
 思わず涙の流れる頬を親指で拭ってやる。それでも梅野は、まだ高居を睨んでいた。
 愛しい、と思った。この泣いている梅野を抱き締めたいと思った。だが、以前自分が梅野相手にしたことが、高居を戸惑わせた。
 春休み中、どうしても静まらない気持ちを持て余して、梅野をその気持ちの捌け口のようにして抱いたことがある。初めて抱いたときも、薬を使った古柴が悪かったとはいえ、自分に言い訳をしながら抱いた。高居は、梅野を傷つけるようにしか、抱いたことがない。
 梅野はこんな風に、自分のために泣いてくれているのに――。
 高居は、伸ばしかけた手を戻した。真っ赤な梅野の目が、自分を責めているような気がした。


 高居は翌日、石神や名倉に、事情を説明したらしい。迷惑をかけたから、と梅野のもとに報告をしに来てくれたのだ。
 高居の退部届は当然のように保留されており、結局、今後は後輩指導に回ることにした、と高居は言った。
 その穏やかで晴れ晴れとした表情を見て、梅野は心底良かった、と思った。
 春の暖かい陽射しの中、高居は以前のようにジャージを着て、トラックに立っている。後輩のスタートの姿勢や走り方の指導を、笑いながらやっていた。
 ときどき、ふっと遠くを見ることがある。走り去って行く仲間を見ながら、遣り切れないような目で、そのまま遠くを眺めている。梅野はその高居を見ると、胸を衝かれるような気持ちになった。あれだけ走れていたのだ。吹っ切れた、と口では言っても、実際の気持ちはついていかないだろうと思った。
 ふいに高居が顔を向けてきて、じっと見つめていた梅野は慌てて視線を逸らした。それから誤魔化すように歩き始めたが、視界の隅に小走りに近寄る高居が見えて、立ち止まる。同室だったのに今更馬鹿みたいなことだが、好きな人間と話せるのは、嬉しい。
「やっと解放されたのか」
 軽い足取りでやって来た高居は、着いた途端にそう笑った。
「ああ。なんとか」
「なんて言ったんだ、それ」
 それ、と指したのは腫れた頬のことで、今日は朝からみんなにぎょっとされていた梅野だった。高居は朝一番、梅野の顔を見て、やっぱり結構腫れたな、と痛々しそうな顔をした。
「あー、うん。転んだって」
「……真実性に欠け過ぎるだろ、それは」
 高居が呆れた顔をする。梅野は少々むっとして、
「高居たちだって、喧嘩したときそう言ったくせに」
 と呟いた。
「まあ、一回目は、先生たちも見逃してくれるからな。特に梅野なんて、今までこんなことで先生に呼び出されたことなかっただろ」
 確かに、先生たちも驚いていた。だが、梅野は最初から絶対に昨日のことは言わないと決めていたから、ただ頑なに「転びました。本当です」を繰り返した。
「原澤さんには、箔がついたなって言われたけどね」
 その言葉に、高居が笑う。自分と話していて、高居がこう言う明るい笑顔を見せたのは初めてかもしれない、と梅野の心臓が高鳴った。赤くなりそうな顔を誤魔化すように、むっとしてみせる。
「何? そんなことないとか思ってる?」
「というより、そんな怖い顔になってなくても、梅野は十分怖いよなあと思って。特に睨んでるときとか」
 揶揄するように言われて、梅野はどことなく決まりの悪い顔をした。高居が昨日のことを言っているのは、すぐにわかった。
 あれからずっと、高居が呆れ果ててヤケクソのように謝ってもなお、梅野はずっと怒っていた。夕食の時間になって、どうやったのか高居が二人分の食事を部屋まで持ってきてようやく、梅野は口を開いた。
 ただ、あれに関しては、自分は悪くない、と梅野は思っていた。「死んでもいい」と言った高居の声は、多分本人が自覚しているのよりもずっと、真剣に響いた。高居なら、本気でそうするかもしれない――そう思ったら、怖くて仕方がなかった。
 死んで欲しくない。だが、そう言ってしまうことは、自分の我侭なのだと思った。
 ふと黙り込んでしまった梅野の頬を、高居がそっと撫でた。まだ熱を持っている、腫れてしまった頬。
 その指に促されるように顔を上げると、穏やかな表情をした高居がいた。梅野はそれにほっとして、ようやく微かな笑みを浮かべた。


 梅野はあの夜以来、古柴とは話をしていなかった。たぶん、避けられている。それも仕方のないことだった。
 いつも、気付くのが遅い。古柴はずっと、身代わりにされることに傷ついていたのだ。思い返せば、最初の頃は不器用ながら大事に抱いてくれていた。
 梅野は久しぶりに天文部らしく、星を眺めようと小さな望遠鏡を組み立てた。最近は色々ありすぎて、新学年になってから、ゆっくり星を見ていない。
 梅野たちの部屋は寮の最上階である六階の角部屋で、エレベーターのすぐ近くにある。窓は校庭に面していて、眼下には常夜灯が灯っているために星を見るのにはあまり適していない。反対側だったなら、山に面していて理想的だったのに、と梅野は思った。
 それでも試してみようと窓を開ける。重藤は深山のところに行っていて、いないため、部屋の明かりも消した。
 新月には数日早いようだった。ほっそりとした三日月が浮かんでいる。それでもやはり、どことなく明かりが目に入ってくる気がする。梅野は少し恨めしい思いで、ぽつぽつとついている常夜灯を見下ろした。
 ふとそこに人影を見て、目を凝らす。薄明かりの上に六階から見たのでは、誰だか全くわからない。でも、高居だ、と梅野は思った。
 影はゆっくりと、校庭を横切っていく。やがて明かりの届かない暗闇に消えていった。
 梅野はどこか胸騒ぎを覚えて、部屋を飛び出した。
 高居じゃないかも知れない。夜に六階から見て、わかるはずがない。でも、確かめないではいられなかった。
 苛立つ気持ちを持て余しながら、エレベーターで一階まで降りる。点呼はもう終わっていて、ロビーも静まり返っていた。
 玄関に向かいかけて、梅野はそこはもう閉まっているはずだと思い出した。一瞬考えて、一階のコインランドリーまで走っていく。その窓を開けて、外に飛び降りた。
 下を大して確認せずに飛び降りたせいで、植え込みに突っ込んだ。どうやらあちこち擦ったようだが、気にしてはいられなかった。
 あれが高居なら、向かっているのはトラックだ。梅野には確信があった。
 ――足が動く限りは、走れるんだから。
 数日前、高居はそう言った。残酷だと思わないか、そう言っているような気がした。
 残酷だ。梅野もそう思う。動かないのではない。動かしてはならないと、自分で自分を止めるしかないのだから。
 でも、例えそれが残酷なことでも、高居にいなくなって欲しくなかった。生きていて、欲しかった。


 01 02 03 04 05 06 07 * 09