home モドル 01 02 03 04 05 06 * 08
風の匂い
07
夏になった。
双葉保育園は、お盆の一週間が休みだが、子供の数は毎日多少は減る。ただ、夏場は夏場で、子供たちの世話が大変だ。外でこれでもかというほど汗を掻いたかと思えば、ごく弱くクーラーの効いた部屋でそのまま眠られたりしてしまう。それでは風邪をひくに決まっているから、その汗を拭いて着替えさせて、と忙しいのだ。
「ねえ、春日兄ちゃん、お休みになった?」
笙太はすっかり春日を気に入って、一度しか会っていないのにまた来てくれるかと心待ちにしている。本当は近くには住んでいなくて、ときどきしか帰ってこないのだと言ったから、夏休みには来てくれるかもしれない、と期待しているのだ。
あれから、春日には会っていない。夏休み前ともなれば試験もあるだろうし、そのまま附属大学に行くとしても、大学の講義を一つ取らなければならないはずだ。その講義のことを決めるのも、ちょうどこの時期のはずだ。
社会学部に行く、と言っていた。
男として、親父の力の下は悔しいと言った。
その、凛とした表情を思い出す。春日はいつだって、真っ直ぐだ。
ふいに泣きたくなって、笙太を抱きしめた。小さな、身体。
「真己せんせ?どうしたの?」
―――真己ちゃん。どうしたの?泣いてるの?
俺が見たこともない母親を恋しく想っていると、春日はいつもそう言って、あの小さな身体で俺を抱きしめてくれた。それから、いい子ね、と頭を撫でてくれた。
―――大丈夫だよ。僕はいっつも一緒にいるから。ずっといるからね?
あの、大きな瞳に真剣さを込めて。
―――ずっとだよ。約束する。
夏休みに入っても、春日は部活に忙しいようだった。ときどき家には帰ってきているようだったが、朝早くに出かけたりしている。どこかの部が、インターハイで残っているのだろう。
俺はクーラーがどうも苦手で、暑いさなか窓を開けて眠ることが多かった。部屋の窓から廊下の窓まで開けて眠ると、風通しのいい俺の部屋はわりと涼しくなる。だから、外の物音は結構耳に入ってきていた。住宅街だから、それほど気になる音ではない。
でもその夜は、かしゃんっと言う音で目が覚めてしまった。と言っても、まだ完全に眠り込んでいたわけではない。だから余計にその音に気付いたのかもしれない。
「何やってんだあいつ」
窓から外を見ると、春日が自分の家の門を乗り越えようとしているところだった。春日の胸ほどの高さのそれは、あまり足が引っかかる場所がない。何度か挑戦しているが、なかなか乗り越えられないようだった。
「春日」
俺は身を乗り出して、なるべく声を抑えて春日を呼んだ。ふっと息をついた間に出した声は、なんとか春日に届いたようで、きょろきょろと周りを見ている。
「春日」
もう一度呼ぶと、ようやく春日は俺を見つけた。そのまま、手でおいでおいでをする。
「泥棒かおまえは」
玄関を開けてやると、ちょっと照れたような、でも安心したような春日が立っていた。
「いや、今日は帰るって言うの忘れてさ。玄関の鍵は持ってるけど、門のことは考えてなかったんだよなあ」
時計を見ると、夜中の一時だった。この不良少年め。
「いいから入れ。ったく。通報されるぞ、あんなことしてたら」
ぺろり、と春日は舌を出した。それから、恩に着ます、と言ってそそくさと家に入る。
「俺の担当してたバスケ部が全国で優勝してさ。祝賀会してたらすっかり遅くなったんだ」
客間に布団を出して敷く。春日は俺の後からシーツや薄い掛け布団を出してきて、自分で布団を整えた。こういうところは、不破家の躾のよさが伺える。
「ほんと、真己が気付いてくれてよかったよ」
春日が少し照れ臭そうに笑った。俺はそれに、仕方がないなあ、と苦笑した。
布団を敷き終わったところで、春日はそこに坐って、なあ、と俺を見上げた。
「真己、明日休みだよな」
「……日曜だからな」
「飲みません?」
くいっと、高校生のくせに親父くさい仕草で、コップを煽る真似をする。俺は深々とため息をついた。
「寝てたんだけど、俺」
「だってさあ、優勝だよ?全国だよ?俺、ずっと追いかけてたから、自分のことみたいに嬉しくってさ」
今日の春日が、いつもより少しテンションが高いのはわかっていた。興奮気味に話す様子は年相応で、思わず苦笑する。こういう春日に、俺は甘い。
「わかったよ。少しだけな」
俺はそう言って、キッチンに向かった。後ろで春日が、さすが真己ちゃん、などと言っている。
春日にはビールを、俺は炭酸飲料を飲む気が起きなくて、ウイスキーのロックを作った。
親父の残した、ウイスキー。
「うわ、大人だ……」
春日が羨ましそうに見ている。
「子供はビールで我慢しろ……って言うのも変だけどな」
からり、と氷が揺れた。春日はいただきます、と言って、プルトップを引き上げる。適当に出したナッツを俺は一つ、口に入れた。春日が、リビングのソファーにふっと息をつきながら沈み込んだ。
「疲れてるんじゃないのか?ったく、それで飲もうって言うなよ」
「うーん、身体はね。でも気持ちは寝たくないの」
いい試合だったのだろう。思い出しているのか、目が輝いている。
「スポーツ記者もいいかもなあなんて思ったよ」
「希望は?」
「……社会部」
答えを少し途惑ったのは、たぶん不破のおじさんがばりばりの社会部の記者だからだ。親の影響だと、素直に言える年ではないらしい。
ふーん、と言った俺を、少し睨む。顔がにやけているのはわかっている。
それから、取り留めのない話をした。今日の試合のことは、実況中継のように話してくれて、アナウンサーもいけるんじゃないか、などと冗談を言ったりした。
ビールがなくなると、春日は自分で勝手に冷蔵庫に取りにいった。ついでに、適当なつまみまで持ってくる。俺もその頃にはまあ今日ぐらいはいいか、などと思っていて、止めもしなかった。俺自身、ウイスキーのロックをいつもより飲んでいる。
これは、一人では飲めないのだ。
親父が好んで飲んだ、このウイスキー。
「その海田っていうのがさ、すげーいい男なわけ。外見だけじゃなくて、中身もこっちが羨ましいっていうか妬みたくなるぐらい」
春日はバスケ部の部長のことをやたらと持ち上げている。俺はふーん、と聞きながらも内心穏やかではなかった。運動部の統括をしているというのだから、確かにいい奴なんだろう。九重の四神と言われる役職が、どれだけ大変なことか、卒業生の俺は一応知っている。
「惚れてるねえ」
冗談交じりに言ってみる。話し振りから、春日が恋愛感情を持っているわけではないのはわかっていた。それでも、俺は心中渦巻く嫉妬みたいなものを持て余した。
「ああ?冗談。まあ、男が男に惚れるって感じではあるけどな。でも、あそこに居るとそれが違う意味になるからなあ……海田も彼氏いるし」
「相変わらずだな、山奥は」
ふっと笑う。春日がはあっとため息をついて、どさりとソファーに背を預けて天上を仰ぎ見た。
「……真己のときもやっぱりそうだったんだ」
片足を持ち上げて、膝を立てている。そこに乗った片腕の先で、ビールの缶がゆらゆらと揺れた。
「昔からだろ。報道部じゃ、嫌だとか言ってられないな」
春日は天井を見つめたままだ。俺はウイスキーを喉に流し込んだ。
正体のわからない不安が押し寄せる。踏み込んではいけない場所に、向かっている気分だ。
「別に嫌だとか思ってない。最初は途惑ったけどな。海田たち見てるうちにそいういうのもありだって思ったし」
ふーん、と俺はまたウイスキーを煽る。
「それで?彼氏でもできたか?」
声が震えそうになる。素面で聞けることじゃなかった。
「……できるわけないだろ」
男には興味ない。
この間、確かに春日はそう言った。でも、春日に興味を持つ人間がいても、おかしくないだろう。あの、閉ざされた空間の中で。
からり、と氷が揺れた。
「だいたい、俺は男に惚れられるほどの男じゃない」
春日の呟きに、俺は目を眇めた。
誰か、好きな人間でもいるのか。
それとも、好きだと、言われたのか。
「そう言う相手が、いるんだな」
冗談じゃない。
今更、誰かに取られるなんて―――冗談じゃない。
「そう言う相手?」
「おまえを好きだという奴か……おまえが、好きな奴か」
春日は誤魔化すようにビールを煽る。
それがひどく、気に触った。
「男同士もありって思うなら、構わないじゃないか。別に悩まなくても」
「真己……?」
「あそこに居る間なら、許される」
そう、あの空間の中なら。
もし、俺が春日ともっと年齢が近くて、一緒にあの空間にいたなら。
俺もこれほど、途惑わなかったかもしれない。もっと簡単に、手を伸ばしていたかもしれない。
顔が、歪む。自嘲の笑みが、知らず零れた。
真己、と呟いた春日が何か言いたそうに口を動かした。でも、そこから発せられる言葉が怖くて、俺はくすりと笑って遮った。
「それとも、怖いのか?」
怖いのは、俺だ。春日が誰か他の人間のものになるかも知れない、恐怖。
ふらりと立ち上がる。向かいに坐る春日の方に移動しながら、残りのウイスキーを煽った。
そのままそれを、春日の喉に、流し込んだ。
正気の沙汰じゃない。そう思いながら、俺は春日の襟首を掴んで、溢れて流れるウイスキーも気にせず、その口を貪った。きついウイスキーの香りが漂って、頭がくらくらしてくる。
「男も女も、抱くのは変わらない。試してみるか?」
言いながら、シャツのボタンを外す。首筋に唇を這わせると、春日がくっと息を詰めた。
そのまま、手を下に下ろしていく。ベルトを外して、ズボンの前を寛がせる。まだ反応していないそれが、忌々しい。
それをすっと撫で上げると、春日が吐息を洩らした。俺はそれに笑って、手を動かす。若いそれはすぐさま反応を返してきて、俺はくくっと喉で笑った。
これを、誰が渡すものか。
「ま、き……」
「心配するな。気持ちいいことするだけだ。おまえに突っ込むわけじゃない」
春日はさっきのウイスキーで酔いがまわったのだろう。少し焦点の合わない目をしていた。
俺は春日のズボンを下着ごとずり下ろして、そのままそれを咥えた。頭上で、息を呑むのがわかった。ぐしゃりと、髪を掴まれる。
何度も舐め上げ、容赦なく攻め立てる。そうして一度吐き出させて、俺はそれを飲み込んだ。そんなことが出来るとは想像していなかったが、そのときが来たら割合簡単なことだった。
「真己っ。おまえ、何やって……」
春日が慌てている。俺はそれを宥めるように笑って、口付けた。苦い味に、春日が眉根を寄せる。
そのまま、俺は飲みきれなかった残滓を手にとって、自分の後ろを弄った。
必死だった。
春日は呆然と、俺を見ていた。
その目に耐えられそうになくて、俺はまだ早いだろうと思いながら、春日のそれを掴んだ。放ったばかりでも、さすがに若いだけあって、既に勃ち上がりかけていた。それを完全に勃たせて、俺はゆっくりと自分の後ろに宛がう。それから、ふっと息を吐いて、そっと押し込んだ。
引き攣れるような痛みが、背中を震わせた。でも、俺はそれが欲しかった。自分の中に、それを取り込んでしまいたかった。
春日を、俺の中に。
「……っ」
「真己……」
「動く、な。少し、このまま」
額に汗が滲んだ。でも、全てが収まったときには、俺はほっとして泣き出しそうだった。
すっと、春日の指が頬を掠めた。細められた目が優しくて、俺は堪えきれずにぼろぼろと涙を落とした。
泣くなんて、思いも寄らなかった。
「真己……泣くな。泣くなよ」
春日が何度も、頬を撫でてくれる。細くて、長い指。きちんと切られた、爪。
俺はそのまま、泣き崩れてしまいそうで、誰のものにもなるなと縋ってしまいそうで、それが嫌で腰を揺らした。痛みはまだあったが、それでいいと思った。
春日の手が、俺の腰を掴んだ。そう思ったら、くるりと視界が反転した。
「わかったから。真己、わかったから」
春日が、何度もそう呟く。何がわかったのか、俺にはわからない。
それからそのまま、俺は春日に翻弄された。
優しく、優しく、抱かれた。仕舞いには痛みなど忘れて、嬌声を上げていた。
途切れる意識の中で、春日が切ない目をしていたのだけが、瞼に残った。
目を覚ましたときには、誰も居なかった。夢かと一瞬思ったが、全身に走る痛みと、客間の布団で寝ていることが、現実だと告げていた。
昨晩は、酔っていた。
久しぶりに、ひどく酔った。
くすくすと、笑いが零れる。
誰にも渡したくないと思った。
繋ぎとめようと、必死だった。
それなのに、この様だ。
あんなことで、繋ぎ止るものなど、何もない。
つっと溢れた涙に、俺は両手で顔を覆った。
それでも、くすくすと零れる笑いは、止まらなかった。
home モドル 01 02 03 04 05 06 * 08