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風の匂い
08
 窓から入ってくる風が気持ちが良かった。さすが山奥なだけあるなあ、と思う。下界とは温度が違う。
 それに、緑がたくさんある深山の部屋は清々しい。
「鬱陶しいなあおまえ。休み前はしょっちゅう家帰ってて、なんで夏休みに寮に居るんだよ」
 それもそんな顔して。
 隣でそうめんを啜る宮古が呆れたような声を出す。俺はナスの天ぷらに箸を伸ばして、さくりとそれを噛んだ。
 深山の畑で取れたナスだ。上手い。
「珍しいよな、春日がそう言う顔してるの」
 深山がああ食べた、と満足そうな顔をして笑った。そう言う顔……どんな顔だって言うのか。
 あの日、俺は気を失った真己を抱えて後始末だけして、眠るのをそのままに家に帰った。それから、翌朝には寮に戻った。
 居られるわけがなかった。
 どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。
「あれ?樹先輩もう食べないんですか?」
 一年後輩の坂城が茹でたばかりのそうめんを持ってきた。それを、テーブルの中央にあるほとんど空になっているザルと取り替える。
「結構一杯。それより、おまえ食べてないだろ。もういいから、坐って食べろよ」
 深山がくいっと腕を引っ張って、坂城を坐らせる。それに大人しく、坂城も従った。
 こいつらも、付き合ってるんだよな……。
 深山は坂城の前では表情が変わる。本人自覚があるのかわからないが、少し甘えたような、顔をする。素直に、そう言う相手がいることを羨ましくは思う。
 はあっとため息を吐くと、ちらりと宮古に見られた。坂城も、食べながら少し上目遣いに様子を伺ってくる。
 鬱陶しい顔をしてるのは、わかってるよ。
「春日ちゃんは何を悩んでるのでしょう?恋煩い?」
 宮古がにこやかに聞いてくるのは無視だ。こいつに言ったら最後、どう遊ばれるかわからない。
 深山はそんな俺たちに肩を竦めて、さり気なく坂城の世話をしている。
 夏休み中、寮の食堂は閉鎖される。でも、寮に残る生徒はかなり居るのだ。運動部は合宿状態で休みのほとんどをここで過ごすし、全寮制の高校に入学した生徒たちには、少なからず事情があるものもいる。宮古は多分、その口だ。俺はこいつが家に帰ったのを見たことがない。人それぞれ事情なんてあるだろうから、宮古が言わない限り突っ込んだことは聞こうとも思っていないが。
 だから、残った生徒たちは自炊をしなければならない。もともとミニキッチンまで部屋に付いているのはそのためもあるんだろう。でも、男子高校生の俺たち。そうそうまともな料理が毎日作れるわけじゃない。そこで、食事時には仲が良い友人達が集まって、持ち寄りで食事をしたり、食事当番を決めたりするようになる。
 今日は深山が畑の野菜をご馳走してくれるということだった。深山は園芸部の部長で、畑仕事なんてしている珍しい奴だった。
「春日、別にこれといってやることないんだったら、午後は俺のところ手伝わない?」
「いいけど」
 ちらりと、坂城を見る。二人の時間を邪魔して良いものか。
 正直言えば、魅力的な誘いだった。無心に畑仕事をしたりしていると、少し心が落ち着くのだ。俺たち深山の周りの連中が勝手に呼んでいる、土いじりテラピー。いいタイミングだ。というより、深山はわかって誘っているのだろう。
「春日先輩手伝ってくれるなら、助かりますけど……先輩、いいんですか?」
「何が?」
「草むしりですよ?」
 ああ、それはなかなか辛い作業だ。でも、それこそ無心に出来るからいいだろう。
 俺が頷くと、坂城が助かったあ、と大げさなほど安堵した。可愛い後輩だ。
 そんなことを俺が思っていると、にっこりと笑顔を浮かべた坂城のおでこを、深山がぺしりと叩いた。
「いてっ。何ですか、先輩」
「……俺には先輩で、何で春日は名前なんだ?」
 深山って、ときどき可愛いよな。坂城に関すること限定だけど。
「俺が名前で呼べって言ってもなかなか言わなかったくせに」
「だって、春日先輩はみんな言っているから」
 そうなのだ。なぜか俺は苗字で呼ばれることが少ない。
「なんでだろうな」
 深山が坂城を睨んでいるのもお構いなしに呑気に言うと、宮古も首を傾げていた。
「春日は春日って感じなんだよな」
「説明になってないぞ、それ」
「うーん、でも不破って言うより春日、だよなやっぱり」
 宮古の呟きに、へえ、春日先輩って不破って苗字だったんですね、なんて坂城は感心している。隣で深山が、かなり低気圧を発しているというのに。
「坂城……なんか俺が怖いから、おまえ、名前で呼ぶのやめろよ」
 思わずそう言うと、坂城がにやりと笑う。その顔に、俺は目を眇めた。
 こいつ、思ったより強かなのかも知れない。
「だって今更不破先輩なんて言っても、誰もわかってくれないですよ?」
 ねえ先輩?と隣の深山に笑いかける。深山は深山で、不機嫌に睨んだままだ。
 そう言う顔も珍しい。
「別に名前ぐらい」
 妬いてます?と坂城が言った言葉はほとんど音にはなっていなかった。でも、嬉しそうな坂城の目に、深山が負けて目を逸らす。
 俺は宮古と目を合わせて、どちらともなくため息をついた。


 春日は春日、か。
 あの夜、真己に俺の名を呼ぶように何度も強請った。ぼんやりとした顔で、不安そうに俺の名を紡ぐその声を宥めるように、俺は何度もその唇にキスをした。
 そのうち極まった真己が、俺を「ハル」と呼んだ。
 正直、あれは参った。
 同じ名前だと思うのに、真己にそう呼ばれて、何かが爆発しそうだった。
 馬鹿なことに、あの瞬間に俺は悟ったのだ。
 自分の気持ちを。
 どんなつもりで、真己があんなことを仕掛けてきたのか、わからなかった。
 飲もうと誘ったのは俺だ。あの日、気分が酷く昂揚していて、すぐに眠れるとは思わなくて。
 あのウイスキーを出させたのは、間違いだった。
 おじさんが好きだった、あのウイスキー。
 それを見ながら、淋しそうに揺れる瞳。
―――あそこに居る間なら、許される。
 そう言った真己の顔があまりに切なくて、俺はまともに見られなかった。真己にも、誰か好きな人が居るのだろうと、思った。それも、どこか「許されない」恋なのだろうと。
 一人になってしまって、真己はきっと淋しかったのだ。
 歪んだ、あの顔。
 傍にいて欲しい人間は、その許されない何かのために、傍にはいなくて。
 淋しいと、全身が訴えているようだった。
 二人とも、酔っていたのは確かだろう。最初は、むせ返るようなウイスキーの芳香に、頭が全く働かなかった。気付いたときには真己が俺のものを舐め上げていた。
 戸惑いのなさに、真己は初めてではないと知った。
 許されないのは、男同士だからだろうと、理解した。
 誰かなんて、全くわからなかった。真己の友達など、俺は知らない。
 代わりでも、いいと思った。
 誰かの代わりでも、温もりが欲しいなら、与えようと。
 ぼろぼろと泣く真己が、あまりに切なそうで。いつも余裕たっぷりの顔をして、冷ややかなその顔が崩れているのが、哀しくて。
 温もりを、与えたかった。
 でも、快楽に溺れていく真己を見ていたら、俺の中で生まれた見知らぬ男への嫉妬は膨らんで弾けた。
 だから、名前を呼んでと、何度も懇願するように言ったのだ。
 代わりでもいいと、思いながら。
 抱いているのは俺なのだと、わかって欲しかった。


 寮に逃げ帰ってきたものの、俺はすぐに家に戻らなければならなかった。親父の会社でアルバイトをさせてもらう約束だったのだ。
 まったく、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。
 駅から家までの足取りはものすごく重かった。会わないようにすることも出来るだろうが、それでは露骨に避けることになる。それに、俺が帰れば母親辺りが真己への伝言やら配達やらに俺をこき使うことはわかりきっていた。
 たぶん、聞いてしまえばいいのだ。
 どう言うつもりなのか、―――誰かの、代わりだったのか。
 それが簡単に出来るなら、悩んだりしないんだけど。
 俺はすっきりしない頭のまま、親父と家を出た。とりあえず初日は一応一緒に挨拶をするらしい。俺は雑用係だから、実際親父と接触することはないし、部署も違う。でもだからこそ、顔を出しておくのだろう。
「おはよう」
 親父がふいに言って、俺は知らず俯いていた顔を上げた。垣根の向こうに、真己がいた。
「おはようございます」
 にっこりと、まるで変わらない笑顔で真己が挨拶を返す。俺はふいっと、本当に無意識に、視線を逸らしてしまった。
 まるで、何もなかったかのような、真己の顔。
「庭に水やりか。夏になると大変だね」
「ええ。親父はマメじゃなかったのに、良くやってたなあって思いますよ」
 にこやかに笑いながら、さあっとホースから出る水で木々を撫でる。
「おじさん、出勤ですよね?春日も?」
「ああ、こいつ、今日から少しウチでアルバイトに……おい、おまえ挨拶ぐらいしろよ。言われなきゃ出来ないなんて先が思いやられる」
 何も知らない親父が呆れたような声を出した。俺は小さく吐息を吐いて、覚悟を決めて顔を上げた。
 向こうがそのつもりなら、それに答えるしかない。
「おはよう」
 上手く笑えたか、わからない。でも、いつも通り、を心がけた。
「おはよう。おじさんに迷惑かけるようなことするなよ?」
 減らない口も変わらない。
 俺をガキ扱いするのも、変わらない。
「不破家の息子にしては出来てるって言われてるんだぜ?外面はいいんだよ、俺は」
「自分で言ってたら世話ないな」
 親父が俺の頭をこつりと叩いた。それから、行くぞ、と歩き出す。
「いってらっしゃい」
 見なくてもわかる、にこやかに笑っているであろう真己の声が聞こえた。


 あれが。
 一夜限りの遊びだったというのなら。
 そんな、大人の関係を真己が望むなら。
 俺はそれに従うしかない。
 あの夜、流されたのは俺だ。代わりでもいいと、思ったのは俺だ。
 今更、真己を責める理由など、何もありはしないと、俺は思った。


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