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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た 第二話
07
ご褒美と言って、本当はキスの一つでもしてやろうと樹は思っていた。哲平でさえ、あいつは鈍いからはっきり言わないとわからないですよ?と言っていた。
知らずため息が漏れて、樹は静かな植物館の床を見た。いつもなら上を向いて、周りの緑ばかり見ているというのに、今日はこの静かな空間が息苦しかった。
静かだから、和高が言った「生きている音がする」という言葉を思い出してしまう。植物が水を吸い上げる音も、密やかに、緩やかに成長する音さえ、聞こえるような気がしてくる。
聞こえるはずのないその音を、感じることができる人間が他にいるとは樹は思っていなかった。それなのに、和高はそれをあんな言葉で表わしたのだ。
その和高を、どうして求めてはいけないのだろう。
日が暮れ初めて、植物館も薄闇に包まれる。樹はそろそろ和高が帰って来るだろうと、立ち上がった。寮で待っているといったのだから、部屋にいなくてはならない。でも、今は顔を合わせるのも辛いと、樹は名残惜しく思いながら植物館の扉をそっと閉めた。
「疲れました?」
平静さを保っても、樹の顔色の悪さを和高は見逃さなかった。それを笑いながら、樹は「それは自分の方だろう?」と言った。
「お疲れさま」
誤魔化すように微笑んで言うと、突然和高が肩口に頭を載せてきて、樹は身体を硬くした。和高の口から、深く長い息が吐き出される。
「坂城……?」
樹は途惑って、和高を呼んだ。名前で呼ぶことをやめようと決心したことを忘れなかった自分を、誉めたいくらいだった。
まだ捕まえきれていなかった和高を諦めようと思った矢先に、これはないと思う。
樹の戸惑いに、和高が謝ってきて、樹は困った顔をした。どう対応するべきか、困ってしまったのだ。
「やっぱり先輩、疲れてますね」
また来ます、と言いかけた和高を制して、とにかく坐るようにと樹は促した。それから、サボテンの鉢植えを取りに行った。
「俺からのご褒美は、やっぱりサボテンかな。もっと大きな植物が欲しかったら、それでもいいよ。ここにあるのだったら、坂城の好きなもの持っていって」
自分の分身のように思っている植物を委ねることを、未練がましいと樹は思ったが、それぐらいは許されたい、と思った。それに、それはきっと、ここに植物に会いに来ていた和高の役にも、少しは立つだろう。
「先輩。それは……もうここには来るなってことですか」
さらりと言ったつもりが、どうしてこういうときだけ鋭いのだ、と樹は和高を恨んだ。
「先輩……?」
何を言うべきか、樹にはわからなかった。来るな、と言えるわけもないが、違うと笑うことも、出来なかった。
「どうしたんですか?俺何か、しました?」
途惑ったような和高の声がした。樹はただ首を横に振ることしか出来なかった。もっと、上手くできると思ったのに、少しも余裕がなかった。
「坂城の言う通り、疲れたのかもしれない。ごめん。本当に、どれでもいいよ。好きなの持っていっていいから」
やっとのことで鉢植えを指差した。和高の顔は、見られなかった。
「俺のリクエストは、聞いてくれないんですか」
「ああ、ごめん。できたら今度に……」
「今度なんて、あるんですか?」
樹ははっとした。強い口調だった。今まで聞いたことがないほど、責めるような、きつい口調だった。でも、顔を上げて見えた和高の表情は、ひどく傷ついていた。
違うのに、と樹は軽く唇を噛んだ。
傷つけたかったわけではない。振り回したのは自分で、和高は振り回されただけだと自覚は合った。だから、もっと自然に距離を戻すつもりだった。
なんてざまだろう、と樹は頭を下げて帰っていった和高の背中を見ながら目を揺らした。
これからずっと、こんな風に、和高の背中しか見ることが出来ないのかもしれない。
樹が明らかに和高から距離を置き始めると、それまで面白くなさそうに見ていた東寮の生徒たちが、その樹にひどく協力的に動いた。だから樹は、思ったより色々と気を回して過ごさずとも良かった。
始めから、手に入るかどうかわからなかったものだ。ただ、自分が欲しかっただけで。
「絶対落とすと思ったのにな」
花壇に水を遣っていた樹に、高居が声をかけた。何を、と聞かなくてもわかる。
「反対してると思ったけど?」
「別に」
樹はさあっと水を花にかける。これも和高と植えたものだ、と思い出した。
そう。高居は別に反対していない。いっそうのこと反対してくれたらいいのに、と思う。
「なんで?」
ふと、どうして反対しないのだろう、と樹は思った。和高の走りのことだけを考えるなら、高居が反対してもおかしくはない。
「俺と付き合うことがいいとは思わないけど。……あいつの将来を考えても」
樹がそう言うと、高居は俯いて微かに笑った。
「全部わかって、それでも近づいてると思ったけど」
「覚悟は、してたつもりだったんだけどね。実際は厳しいな」
如雨露の水がなくなって、樹は顔を上げた。自嘲気味の笑いが、その顔に浮かんでいた。
「覚悟が足りなかったのかもな」
高居はどう言ったものかと困ったようにその樹から視線を逸らした。樹が、そんなに簡単に覚悟なんて言葉を口にしたとは思えなかった。
「あいつは」
高居がふっとグラウンドを眺めながら呟いた。部対抗マラソンの日で、今はグラウンドに人はいなかった。
「あいつは表情は変わらないが、走らせればすぐにわかる。調子がいいとか、悪いとか。悩んでいるとか、不安とか、そういう感情全部、走りを見ればわかる」
感情に左右されるその精神力の弱さを高居は苦々しくも思っていたが、それが和高にとって必要だともわかっていた。本人もわかっていないだろうが、多分、だから和高は走るのだ。現れない、感情を、そこに映すために。
だいたい、プレッシャーなどの外からの揺さぶりには左右されない強さはあるのだ。他人のことで和高の走りが不安定になったのは、高居の知る限り、今回の樹のときだけだ。
「今はぼろぼろだ。吹っ切って走ってるかと思えば、何か他のことを考えて鈍るときもある」
高居の言葉を、樹は足元の花々を見ながら聞いていた。ここしばらく、和高の走りを見ていないな、と思った。本当は、諦めきれてなどいないのだ。だから、和高を見ることが出来ない。
「あいつの将来のことを、おまえ一人が心配しても仕方がない。それはきちんと二人で話せよ」
「珍しいね、高居がアドバイス?」
「深山には随分世話になってるし、坂城も可愛い後輩だからな。それに、俺は坂城の立場もわかるだろ?」
今は、異なるとしても。
樹は高居の横顔をじっと見た。他人にはわからない辛さを、高居は知っている。
「短距離に限らないが、陸上競技は孤独だ。だから、俺は坂城の気持ちもわかる」
「おまえがいるだろう?」
「本気で言ってるのか?」
思わず呟いた樹を、高居は呆れたような目で見た。
「違うんだよ。グラウンドの外にしかないものだってある。そしてそれは、時には何より大切だ」
樹ははっとして高居を見た。
走れなくなった高居を、支えた人物がいる。でも、感情を表わすことが和高とは別の意味で下手だった高居は、その大切なものを失いかけた。
「あいつがいて良かったと、俺は心から思うよ」
高居の言葉に、樹は泣きそうになりながら微笑んだ。辛い辛い二人の過去を、樹は知りすぎている。でも、高居が今そう言うのならば、きっと幸せなのだろう。
「短距離走者の選手生命なんて短い。あいつが走れなくなったとき、他の誰かがあいつを支えてもいいのか?」
高居がそうにやりと笑う。
そんなのは、許せない。
樹は今でも、自分はそんなことを思うのだとおかしかった。
諦めなどついていない。
まだ手に入れていなくても、もう、とっくに手離せなくなっているのだ。
だからと言って、樹はまた振り回すように和高を追うことは出来なかった。和高も、そのうち落ち着くかもしれない。それならそれが、やはり一番良いのではないかと樹は思った。
和高のためにも、そして、臆病な自分のためにも。
そんな風に悩んでばかりのとき、千速がふいに部屋を訪れてきて、樹は変わらぬ顔でその友人を迎え入れた。五月の連休明けに、しばらく塞ぎこんで植物園に入り浸っていた千速が、また何か悩みでも持ったのかと思ったのだ。
「どういうことだよっ」
ところが、その千速の後ろに和高の姿を認めた樹は、思わず怒鳴っていた。気持ちの整理がつかないうちにこうして会うのはきつかった。
「おまえがこんなに友達甲斐のない奴だとは思わなかった。恩を仇で返すんだな」
「仇かどうかはまだわからないだろ?」
「仇だよ。少なくとも、今俺にはそれは仇だ。お節介とか、いらぬ親切とか言う言葉をおまえは知らないんだろ」
普段は隠している冷たい表情で樹が文句を言っても、千速は堪えた風ではなかった。内心、自分を見失うような樹は珍しいとにやにやしていたとは、樹も思わなかった。
「あいかわらずきついよ、深山は」
肩を竦めてそう言った千速に、樹はようやく我に返った。ふっと視線を逸らせて、ごめん、と呟く。情けないにも程があると思った。
「そんな取り繕うのも忘れるぐらいなのに、諦めようとするんだからな。ちゃんと話せよ。俺たちには言葉がある、っていつも言うのは深山だろ?」
千速の言葉に、樹は落ち着くようにと小さく息を吐いた。千速の真っ直ぐな視線が痛かった。軽くいなしてくれたとしても、言葉は簡単に人を傷つける。
樹はふと目を閉じて何度か呼吸を整えるように息をすると、ゆっくりと鉢植えの緑のある場所に向かった。その中で、落ち着こうと外を見ながら何度も息を吸う。
「俺のリクエスト、言っていいですか?」
和高がそっと近づいてきた。
「大人しくサボテン持って帰ったから、終わったと思ったのに」
結局あの日、リクエストを言わずに、和高は小さなサボテンを大切そうに持って、部屋を出て行った。だからもう二度と、ここには来ないだろうと思っていた。
「終わったって……始まってもいないのに、何言ってるんです?」
「坂城……?」
始まってもいない。それは、始めてもいいということなのだろうか。和高は、それを望んでくれるのだろうか。
「樹先輩」
いつもは執拗なほど言わないと下の名前で呼ばないのに、こんなときにきちんと呼ぶ和高が恨めしいと樹は思った。
「俺は、樹先輩の隣にいたい。その権利が欲しい。それがリクエストです」
まっすぐな、和高の視線だった。逃げることを許さない、何かを捕らえる目だった。ああこうして、和高はゴールを目指すのかもしれないと樹はその目に思った。
「樹先輩は……そうやって、植物があればいいですか?言葉を話す人間は傍にはいらないですか?俺は、駄目でした。緑だけじゃ、苛々も悩みも、全部はなくならなかった。樹先輩がいないと」
植物は、人の代わりにはならない。それと和高は全く別のもので、樹には、どちらもなければならないものだった。
でも、二つあるからこそ、どちらか一方だけでも大丈夫かもしれないと思ったのだ。
違うからこそ、和高を求めたと言うのに。
「和高……」
「やっと呼んでくれた」
和高が、そう笑う。樹は思わず漏らした言葉に、口を押さえた。それを和高は小さく笑ったまま見ながら、そっと近づいてきて、樹の肩に額をこてりとのせた。あの、ときのように。
「俺が、何のためにあのとき、走ったと思ってます?」
知らない、と樹は思ったが、微かに伝わる熱にばかり気を取られて言葉にしなかった。
「先輩に前みたいに会いたくて。話をしたくて、名前を呼んで欲しくて……それで、ゴールを目指したんです。そこに、樹先輩がいたから」
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