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ソクラテスとソフィストの優しい関係について

08
 梅雨とは思えないほど晴れた日の放課後、智はカフェテラスで校庭を眺めながらアイスカフェオレを飲んでいた。遠くで、稜が部活に勤しんでいるのが見える。そのサッカー部のユニフォームの中、ジャージ姿で一緒になって走っているのは雅道だ。何かの賭けに負けたとかで、今日一日部活に付き合うのだと言っていた。図書委員長で本を読んでばかりいる印象がある雅道だが、小中学校とサッカーをしていたのだと言う。それでときどき、稜が面白がって雅道を部活に連れ出していた。まともにやれば、結構いい線まで行くと思うのに、とは稜の言葉だ。
 四百メートルトラックを挟んだ向こう側のサッカーコートは遠すぎて、はっきり顔まで見ることは叶わない。それでも、智はずっとそのジャージを目で追っていた。
 修学旅行から帰ってきてから、雅道はやはり友達というスタンスを守り通していた。それは前よりも自然で、でもだからこそ、智は雅道と接するたびにずきりと心臓が痛むのがわかった。
 この痛みはなんだろう、と思う。
「へえ。マサがサッカーしてる。珍しいね」
 ふいに現れたのは圭だった。圭は料理研究会ということもあって、よくこのカフェテリアに来ている。厨房の料理人たちとも仲が良いようだ。そこでおこぼれを貰うこともあり、今日も何やらお皿を持っている。
「林檎のケーキを教わったんだ。食べる?」
 大ぶりの林檎の欠片の入ったケーキは、シナモンの良い香りがしている。智はぱっと笑って頷いた。実は智も料理研究会の会員なのだ。それは圭にほとんど脅される形で名前を貸しただけだとしても。
「ブランクあるのに、結構ついていってるな」
 自分は紅茶を飲みながら、圭がコートを見ながら感心したように言う。
「そっか。圭って雅道と長いんだっけ」
「ん?ああ。小中一緒だからな。俺は運動嫌いでやらなかったけど、あいつは結構真剣だったな。なんでやめたんだろう」
 どうせ興味がなくなった、とかだろう、と思いながら圭はコートからケーキにと視線を移した。そこでふと、智が自分をじっと見ているのに気付いて、顔を上げた。
「何?智?」
 首を傾げると、智がうっすらと赤くなって視線を彷徨わせて、なんでもない、と呟く。それに圭は目を眇めた。
「俺に見惚れた?」
 からかうように言うと、智が更に赤くなる。もう一年もここにいて、すれないのはすごいな、と圭は思った。
「圭って、そんなに長く想ってるのかなあ、って思って」
 ぼそぼそとそんなことを言う智に、圭は苦笑を隠せない。どうやら修学旅行中の荒療治はあまり効果がなかったのだと知っていて、稜と二人、ため息をついたのはついこの間だ。
「気付いたのは中学に入ってからだよ。それまでは、友達の域を越えるもんじゃなかった」
 ある日突然だった。それは圭もよく覚えている。ある日突然、ああ好きだな、としみじみ思ったのだ。
「どうして好きだってわかったの?」
 智にとっての最大の関心ごとだった。友情が愛情に変わったのは、どうしてなんだろう。それを知ることが出来れば、自分の感情にも名前が付けられる気がした。
「さあねえ。ただそう思ったんだよ」
「そう思ったって……」
「あのね、こういうのは理屈じゃないんだよ」
 圭がにっこりと笑う。そんなのは全然答えになっていない、と智は思いながらまたコートに視線を移した。がっしりと稜に頭を抱かれている雅道が見える。
「理屈じゃないんだよ、智」
 圭が、もう一度確かめるように言う。智はそれに視線を前に戻した。
「たまには何も考えないで、素直に気持ちにだけ従って行動してみなよ。そうすることで得られる答えだってある。智は素直なところだけが取り柄なんだから」
 圭はそう笑った。その言い草に智が「だけって」とむくれる。
「俺のことは、気にするなよ。もう大丈夫だから」
「圭……?」
「ちょっと意地みたいなところもあったんだ。それもわかったし」
 圭はそれだけ言うと、後は何も言わずにケーキを食べ始めた。智はアイスカフェオレの氷を一つ口に含むと、それをしゃりっと噛んだ。気持ちに素直になるのなら―――
 雅道に会いに行こう。
 ぐちゃぐちゃなままの気持ちでも、それを言ってしまいたい。ずっとそう思っていた。そして何より、雅道に会いたかった。


 雅道の部屋に行くのは、とても久しぶりだった。ほとんど学校で会うことが多く、静かでどこか敷居の高い南寮は、智は苦手だった。
 インターホンを鳴らすと、雅道の低くて穏やかな声が聞こえる。名前を言ったら、ひどく驚かれた。
「智……どうしたんだ?」
 時刻は九時近く。夕食のことを考えれば、確実に雅道を捕まえられる時間は、この時間しかなかった。
 まさか突然「会いたかった」と言うのもどうかと思って、智は一瞬言葉に詰まった。理由は考えていなかったのだ。
 とにかく入って、と雅道に促されて、智は俯きがちに部屋に入る。きちんと整えられた部屋は、壁のほとんどの空間を本が占めていて、圧巻だ。これのために、雅道は強制的に一階に住まわされている。
 コーヒーでいいか、という雅道に、智はこくりと頷いただけだった。その智に途惑いながら、雅道はとりあえずとキッチンに行く。智はぼんやりと壁の本棚を眺めていた。
「智?坐ったら?」
 雅道に促されて、智は窓際のラグマットの上に坐った。なんだか緊張している、と智は自分に驚いていた。
「何か気になる本があったら持って行っていいよ。本を借りに来たのか?」
 雅道の問いかけに、智は首を横に振った。
「宿題でわからないことでもあった?って、今日は大したの出てないよな」
 その日の授業のことを思い出して、雅道が首を傾げる。
「違う」
 ふいに呟かれた言葉は、あまりに小さくて雅道には聞こえなかった。聞き直すと、智がうっすらと赤くなった。
「会いたくて。雅道に、会いたかったから」
 俯いてそう言った智に、雅道は呆然とした。それは、どう捉えていいのだろう。
「智……それは心臓に悪い」
「え?」
「突き放すなら智からしてくれって、言っただろう?それなのに、期待をもたせるようなこと言わないでくれ。だいたい、夜に自分のことを好きだって言った人間のところに、一人で来ること自体、危ないよ」
 雅道は苦笑をして見せたが、内心は大きなため息をついていた。これはずるいなんてものじゃない。拷問だ、と思う。
 はっとしたように顔を上げた智に、雅道はなるべく平静に、そして優しく続ける。
「わかったら、智の部屋に帰りな。何か話があるなら明日学校で聞くから」
「雅道……?」
 そんな頼りなさそうな、捨てられた子犬のような目で見ないで欲しい、と雅道は今度は隠さずため息を吐いた。手の中のカップが揺れる。
「それとも襲われたい?」
 少し意地悪にそう言うと、智は真っ赤になった。
「キスだって嫌がるのに、それ以上何て智にしたら俺は完全に嫌われる。それを支えに自制心で押さえてるうちに、頼むから帰って」
 少しも立ち上がろうとしない智に、今度は少しきつめに言うと、智がふるふると首を振った。
「違う」
「智?」
「違う。あのとき、俺はキスが嫌だったんじゃない」
 そう、智はあのとき、恥ずかしかったのと同時に、そのキスを受けてはいけない、と思ったのだ。今は、それがはっきりわかる。
「諦めるって言うから……雅道が、一回だけって、最後って言うから」
 だから嫌だと思ったのだ。あのときキスをしたら最後、雅道は完全に自分から離れてしまうとわかったから。
 雅道が呆然としている。どうも上手く話を理解できていない様子だった。
「そんなの嫌だった。あとは、どうしてなのか雅道だと恥ずかしくて。触れられるのも、キスされるのも、すごく恥ずかしかった。圭なら別になんとも思わなかったのに……」
 混乱して、でもただ思うままに言葉を重ねた智は、自分の言っていることをあまり理解していなかった。ただただ吐き出してしまいたくて、だから、雅道がすごく厳しい目つきをしたのもわからなかった。
「圭ならって……」
 あっ、と声を上げたときにはもう遅い。ご丁寧に口まで押さえてしまった智の腕を、雅道が思い切り掴んだ。智の持っていたコップから、コーヒーがぱしゃりと揺れて零れた。青いラグマットに、濃い染みを作る。
「雅道……っ」
「圭とキスしたのか?」
「雅道、痛いって」
「まさかそれ以上……」
「雅道っ」
 声を張り上げた智にようやく気付いたのか、はっとして雅道はその腕の力を緩めた。
「ごめん」
 なんだか雅道に謝られてばかりだ、と智は思った。半分以上、謝罪など必要ないときが多かったが。
「キスはした。その、雅道みたいに抱けるって言われて……。圭がなんだかすごく辛そうで、どうしていいのかわかんなくて」
 雅道の手がするりと外されて、智はふいに消えた温もりを淋しく思った。
「智、俺とするのは恥ずかしかっただけ?」
 雅道はゆっくりと深呼吸をした。とりあえず、圭のことは後に置いておくことにした。これは智ではなく、圭を責めるべきだ。
 智がこくりと頷く。そのまだ赤味の残る顔は、確かに恥ずかしがっているように見えた。
「嫌じゃなかったんだ?」
 また、智がこくりと頷く。その仕草に耐えかねて、雅道はそっとその手からコップを取り上げる。
「雅道……?」
 それから、坐ったままの智をぎゅっと抱き締めた。
「え、ちょっ、雅道っ」
「一回だけ、が嫌だったんだ?最後って言うのが」
 暴れる智を押さえつけながら耳元で言うと、かあっと智の体温が上がったのがわかる。心臓がそれこそ狂ったように動いている。
「智がいいなら、何回でもするよ?」
 雅道の甘い声に、智はやっぱり恥ずかしくて恥ずかしくて、首をふるふると振った。でも、雅道はそんなことはお構いなしに、そっと抱いている腕を緩めて、その智の唇に自分の唇を落とす。
「ん……っ」
 恥ずかしがる間も与えず、何度も何度も啄ばむようにキスをする。心臓の爆走も、真っ赤になるのも止められなかったが、智はどこか頭の芯がぼうっとしてきたのがわかった。
 それを、気持ちがいい、と智は思った。抱かれる体温も、柔らかい唇も、なんだかとてもほっとした。
「智……好きだよ」
 雅道の穏やかな声に、智は「ああそうか」と思う。なんだかわからない、胸の中で膨れ上がるこの気持ちが、好きってことなのかもしれない、と。それは言いようもない幸福感であり、愛しさであり、切なさだった。
 言葉になんか出来ないのだ。
 でも、それをどうにか伝えようとしたら、この一言しかなくて。
「俺も好きだよ」
 言った途端、雅道がまじまじと智を見た。それがあまりに驚いた顔で、智は思わず声を上げて笑ってしまった。




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