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la vison 第二話
08
指月のパートナーになることが決まっても、周の仕事はあまり変わらなかった。もともと、ギャラリーを任せられるような人材が欲しかった指月は、まずはその仕事を覚えるのが先だと思っていたからだ。
写真の一枚を欲しいと言う客に対応している周は、穏やかな物腰で笑っていた。客と対峙するとき、周はいつもそんな感じだ。でも、このところひどく危うげな雰囲気を滲ませていることがある。
にっこりと、ありがとうございました、と頭を下げたあと、一瞬見えるため息のようなもの。思いつめたようなその目は、あの穂積を語る目と一緒だ。
そして、それが切なげに幾度となく揺れる。
「目に毒なんだけどな」
どうにも苛々して、指月は穂積を呼び出した。もう手出しはしないと、あの夜に誓じみた約束を交わしたのだ。それなのに、あんな姿を見せられるのは堪らなかった。
「そんなこと、おまえがわざわざ知らせるとはね」
いつものバーで、穂積はウイスキーを舐めた。隙あらば人のものを取るなど、微塵も罪悪を感じない指月を穂積は知っている。
「あれで頑固だろう?そんなのおまえの方が知ってるんじゃないのか。大体、取り引きしてるからな」
「取り引き?」
「仕事のパートナーの座に仮にでも坐る代わり、もう手出しはなし」
「なんだそれは」
「聞いてないのか?」
「知らないな」
まずったかな、というような指月を気にせず、穂積はため息を隠そうとグラスに手を伸ばした。それで急にパートナーになる、などと言い出したのか、と少しばかり納得する。
「気に入らないのか?」
少しピッチの速い飲み方をする穂積を見ながら、指月はぼそりと呟いた。
「嫉妬をするかといわれれば、するというだろうよ。でも、そうじゃない。そんな小さなことなら、なんとかなる」
「じゃあ、何があったんだ?」
まだ店を締め切っていない指月は、ビールを飲んでいた。今日も外村に鍵は預けてある。
穂積は何も言わずに、またグラスを傾けた。
「こうやって口出しするのは、俺の性に合わない。おまえが言った通りだ。でも、見てられないんだよ。あんなに強かったのに、今はすごい頼りない目をする。誰にでも縋りつきそうな感じで、危なっかしくてひやひやするんだ」
約束さえなければ、いくらでも落としてやった、と指月はため息を吐いた。
「おまえ、周をそうさせている自覚がないだろ?」
指月の言葉に、穂積はグラスの中の氷を見ながら小さく息を吐いた。
「怖いんだよ」
「何が」
「あれの、未来を潰しそうで怖い。何もかも奪いそうで―――怖い」
今でさえ、周の未来を削って、狭めていると思うのだ。もっと、もっと自由に羽ばたけるはずなのに。
「穂積……」
指月は、どこか呆然と呟いた。あまりにも変わってしまった友人に、ひどく驚いた。
でも、それが微かに、羨ましかった。
「穂積さん……」
指月と一緒にショップに入ってきた男を見て、周はらしくなく立ち尽くした。穂積の前になると、周は本当に脆くなると指月は思う。だから、少しだけ、穂積が怖いと言った意味もわかった気がした。
でも、それぐらいの覚悟はするべきなのだ、と指月は思う。肝心の中心部分で、周は決して弱いわけではない。だから、自分の前でだけ弱くなることに、穂積が惚気るぐらいには。
「今日はもうあがっていいぞ」
「でも」
「俺の一生に一度のお節介だ。ありがたく受け取れ」
そう言った指月の後ろで、穂積がありがた迷惑だ、と吐き捨てる。
「おまえね……じゃあ、俺が掻っ攫っても言いか?」
「そうは言ってない」
穂積はそうため息を吐きつつ、周をふいっと見た。ひどく、不安げで頼りなさそうにその瞳が揺れているのがわかった。
そんな目を、させたいわけではない。
「周、帰ろう」
微笑むことはしなかった。ただ、じっと見つめた。たぶんそれは、少しだけ縋るような視線だろう、と穂積は自嘲する。
「穂積さん」
「帰ろう」
もう一度そう言われて、周はふらりと穂積に近寄った。その肩をそっと掴んで促すと、周は素直に歩き出した。
ショップを出てから、歩いて周の部屋まで行く。ショップから周のアパートまでは歩いて十分ほどで、二人は暗い夜道を並んで歩いていた。
こんな風に、ただ並ぶことが出来たら、と周はいつも思う。背中ではなく、ふいっと見上げる横に、その目があったら、と。
「臆病だと、尋由には言われたよ」
穂積がぽつりとそんな風に言う。
「穂積さんが?」
驚いたように言う周に、穂積は苦笑を返した。
「おまえの兄貴は容赦がないよ。確かに俺は怖がってるけどな」
「この間も言ってたね。……怖いのなんて、俺のほうだ」
二人の視線は合わされずに、ただゆっくりと規則的に交互に出る足を見ていた。
ぼんやりとした街灯が、周の横顔を照らしていた。こんな夜道に、こうやって確実にその先を照らし出せる光のようになれたら、とふと穂積は思った。
周はそっと穂積に触れた。その細い指で、まるで縋るようにそっと穂積の腕を掴んだ。
「あなたを、失いたくない。その俺の気持ちは、重い?」
それが、一番大切なのに。
色々並べ立てられても、きっと最後に取るのはこの手だろう、と周は思っている。それはもう、自分でも仕方がないことなのだ。
「周……」
「あなたがいなかったら、それこそ未来なんて俺には見えない。そんなのは……重たい?」
掴まれた腕に、指の感触は弱々しい。まるで震えるように、そして途惑うようにその手はわずかにしか穂積の腕に触れていなかった。
知らなかった、と穂積は目の前の周を見ながら思った。こんな周の激情を、穂積は知らない。自分ばかりが溺れて、どうしようもなくなっていると思っていた。周は前を向いて、ただ歩いているのだと。あのドイツへの留学でさえ、周は一人で決めたのだ。決めてから、穂積には報告だけをした。そんな風に真っ直ぐに強かに歩く周を、邪魔したくないと、そう願ったのに。
不安だというのだ。そこに穂積がいなければ。
覚悟を決めろ、と指月が言ったのを穂積は思い出した。尋由には、とっくに覚悟は出来ていると思っていた、と責められた。
そこにあったのは、ただの弱さだ。周の未来のためなんて言って、見捨てられたくなかっただけなのだ。穂積はふっと笑って空を見上げた。それでも、確かに大切なことには変わりない、と穂積は思う。
「そうじゃない。俺はおまえの未来と自由を奪うのが怖いと言っただろう?おまえは自分の価値をわからないから、俺の言っていることもわからないのかもしれない」
その未来が、どれだけ大切なものなのか。穂積にとっても、尋由にとっても―――そして多分、指月にとってさえ。
若手だと言われてただ必死な自分達にとって、周たちの世代がその後を追ってくれるのは、とても安心できるものだ。そして、だからこそ、それを潰したいとは思わない。
「俺の未来なんて……そうだね。多分穂積さん次第でいくらでも変わるかもしれない。でも、そこにあなたがいないことほど最悪なことはないんだ」
そうだな、と穂積は一人ごちた。あのときと、周は違う。こんな言葉を吐きながらも、きっと間違わずに、自分の隣に来ることができる。周自身の、力で。
潰すことなど、奪うことなど、自分ごときに出来るはずがないのだ。
穂積はそう自嘲して、ことりと周の肩に頭を預けた。
「おまえがいなくなることなど、考えられないな」
小さな声はでも、確実に周の耳に届く。預けられた重みが、周には心地よかった。
少しは、支えられているだろうか、と思う。
静かな、月のない空を見上げて、周はそっと穂積の髪を撫でた。
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