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満ちてゆく月欠けてゆく月
08
フィレンチェに帰ってきてから、レオーネはルチアーノを抱くことはなかった。何故なのか、ルチアーノは理由を問うてはいない。それでもと誘う間もなく、レオーネはどこかに消えてしまうことが多かった。または、工房に篭って仕事をしている。
抱けるはずがなかった。
レオーネは常に、罪悪感を抱えている。それがフィレンチェに帰ってきて、もっと正確に言えば、ルカに会ってから、途方もなく膨れ上がっていた。自分は、二人を冒涜しているのだと、思った。
「少し休憩にしないか、レオーネ」
じっと動かずにいたジュリアーノがふいにそう言って、レオーネははっとして紙から顔を上げた。デッサンは、もうほとんど出来上がっている。いつもより細かく描かれているのは、無意識だった。
「悪いな。熱中したみたいだ」
木炭を置いて、伸びをする。ジュリアーノもほっと肩の力を抜いて苦笑した。
「いつもよりずい分集中していたな。考えごとでもしていたか?何だ?女のことか?それとも男か?」
からかい口調の、決して外れていないジュリアーノの言葉に、今度はレオーネが苦笑する番だった。確かに、考えていたのはルカのことばかりだ。
「また派手にやってるみたいじゃないか」
「いや。前よりは大人しいだろ?」
「ああ……あなたの弟子だな。可愛いんだろ?彼を引き取ってからはずい分形を顰めてるみたいだな」
「それは関係ない」
レオーネは木炭を仕舞って、布で汚れた指を拭いた。実際、ルチアーノは関係がない。残酷なことに、レオーネはそう思っていた。
「いいさ。俺は男同士だろうがとやかく言う気はないよ。まあでも、教皇なんかはうるさいから、気を付けたほうがいい」
ついでに、あなたの父上もね、とジュリアーノは笑った。本当は、笑い事ではない。レオーネの父親は敬虔なキリスト教信者で、同性愛など知られたら、どうなるかわかったものではなかった。自分も、そして、相手も。
それでも上手く遊んでいるレオーネに、ジュリアーノは密かに感心していた。女も男もすらりとスマートに落としていくその手管を、是非とも習いたいと思うほどに。
「神への冒涜、か……」
自分は、それよりももっとひどい、人間として、犯してはならない罪を犯したのだと、レオーネは思っていた。これは、神に許しを請うことも出来ない、愚かな罪だ。
「あなたの口から神と言う言葉がでるとはね」
「何を言う。今までどれだけの聖母様や天使様たちを描いてきたと思っている?」
聖書に題材を取った絵を、レオーネは嫌ってはいなかった。それこそ、画家なら一度は描くのではないかと思われる聖母マリアを自分なりに描く楽しさもあるし、美しい女性を描くことも好きだった。
慈悲深い、柔らかく温かい眼差しの聖母がレオーネの脳裏に浮かんだ。自分が描くもとのは違う、慎み深い静かな聖母。
そのマリアを描いたルカもまた、慎み深い静かな青年になった、とレオーネは最後に会った宴会のときのことを思い出した。みんなが騒ぐのを、どこか一歩引いた感じに微笑んで見ていたルカ。でも、工房の仲間たちは決してルカを蔑ろにしているわけでもなく、そうして微笑んでいるルカがいることに、安心している感じだった。事実、宴も終焉に近い頃、ふいに消えたルカを誰もが気にして目で探していた。
本当は、気の強いところもある。
それを良く知っているレオーネは、出会ったばかりの頃のルカを思い出して、知らず口を綻ばせた。ちびじゃない、と何度も噛み付いてきた、元気で威勢の良いルカ。その性質を、完全に失ったわけではないだろう。ただ、少しばかり、大人になっただけで。
「レオーネ……何思い出し笑いしてるの?やだなあ。なんて顔」
ジュリアーノの呆れた声に、レオーネは慌てて顔を引き締めた。思わず、掌で顔を撫でる。
「さては、とうとう誰か意中の人ができたんだね?今までのお遊びとは違う、誰か」
「違うよ」
「いやあ、これは兄様に報告しないとな」
ジュリアーノはレオーネの否定など聞いていない。これでまたこの兄弟に遊ばれるのだと思うと、レオーネはため息をつきたくなった。
「いつも遊びで、誰も決して踏み込ませなかったレオーネについに思い人か。それとももう、恋人?」
「そういう人がいるわけじゃない」
「ふーん。まだかあ。ますます興味深いね。大切だからこそ、手が出せない、ってところだね。あの、手の速さでは随一のあなたが」
ジュリアーノは兄のロレンツォに比べれば素直で可愛らしいのだが、こうなると血の繋がりを実感せざるを得ない、とレオーネは思った。誤魔化そうと思ったが最後、本人達が納得するまで、徹底的に言われてしまう。
「お相手を是非とも見てみたいなあ」
冗談じゃない、とレオーネは内心悪態をついた。仮に自分がルカと上手く行ったとしても、この二人には見せたくない。絶対にちょっかいを出され、やきもきさせられ、挙句の果てに二人が最も望むであろうこと―――嫉妬とか独占欲を見せるとか―――を披露する羽目になるのだ。それだけは、嫌だった。
「まあ、俺はどんな相手だろうと応援するから。何か力になれることがあったら、遠慮なく言ってよ?」
ジュリアーノはそう楽しそうに笑った。
力になってくれるというのなら。
このままそっとしておいて欲しい、とレオーネは切実に思った。
いくらロレンツォがフィレンチェを事実上手に入れているとしても、こうも簡単にわかるものではないだろう。偶然だ、とレオーネは自分にいい聞かせた。ジュリアーノと話をしてから、まだ一週間ほどしか経っていない。いるともいないともはっきり言っていなかった自分の思い人を探し出すことなど、不可能だと。
そうだとしても、目の前のことは少し信じがたかった。確かにパトロンとして芸術面にも力をいれているロレンツォの主催パーティーなら、幾人もの職人がいるのもわからなくはない。でも、まだ独立した工房も持っていない、ようやく名が知られ始めたルカを招いた意図は、わからなかった。
ロレンツォに聞いてみれば答えは簡単で、今ちょうどミラノに行っているフェルディナンドの代理なのだという。それに納得しながらも、よりにもよって、と舌打ちしたい気持ちもあった。
ヴェネチアからの客人をもてなす今日のパーティーには、好色で知られる人物も何人か見える。フェルディナンドがついているならまだしも、ルカ一人で来るところではない。まして新顔ならば、目立つことこの上ない。その上、あの容姿だ。
「ああ、レオーネは少しフェルディナンドの工房にいたのだったか。知っているんだな」
「まあな。半年もしないうちに俺は独立することになったけどな」
すらりとした体躯を、深い青色の長い丈のトーガで隠しているルカは、静謐で凛とした雰囲気を出していた。ただ酒を飲んだのか、ほんのりと赤い頬と潤んだような目が、色気を出している。その対比が、人目を惹いていた。先刻から、何人もの男や女が、そんなルカをちらりちらりと見ていた。
「噂では聞いていたんだ。何しろ、あのダヴィデのモデルだろう?だから代理なら彼を寄越せと俺が言ったのさ」
ロレンツォは楽しそうにそんなルカを見ている。本人さえその気があれば、いくらでも華やかな場所に出られるだろうルカは、大広間の隅でひっそりと立っていた。
「招いたのなら、責任持って相手をしてやって欲しいね」
ロレンツォの贔屓の職人だとわかれば、手を出す輩も少なくなるはずだ。それぐらいはして欲しいとレオーネは思った。
「なんだ、レオーネ。ずい分彼のことを気にしているようだな」
珍しい、と口の中で呟いたロレンツォはふと何かを思い出したのか、ゆっくりと口角を上げて笑った。それを他の客に見られぬよう、軽く俯く。
「ああいうのが好みだったんだな、おまえ。ルチアーノだったか、おまえの弟子。彼も少し似ている」
ロレンツォの言葉に、レオーネは呆れたように首を振った。どうやら、みながレオーネとルチアーノはそういう関係なのだと誤解しているが、それは決してない。ただ二人の関係は、それよりもっとひどいのかもしれないのだが。
華奢で綺麗な顔立ちという意味では、確かに二人は似ているかもしれない。だが、その実全く違うのだとレオーネは知っていた。ルチアーノは情熱をそのまま表わすが、ルカは静かに内に燃えさせる。どちらがいいというのではなく、ただ違うのだ。
「滅多なことを言わないでくれ。……親父も来てるだろう?」
それをわかっていたから、レオーネは今回の招きに答えるか、迷ったのだ。でも、お抱えの絵師と一応は言われているのだから、初お目見えとなる今回のパーティーに出席しないわけにはいかなかった。
「ああ。バッジオ殿には挨拶したのか?」
「俺はもう関係ない」
「でも父親ではないか。彼も会いたがっていた」
「会いたがって、ね。今度は何を企んでいるのやら」
レオーネは、もう銀行を営む名門バッジオ家とは縁が切れたと思っている。最後まで絵師になることを反対していた父親に逆らったのだ。当然と言えば当然だった。そのせいで、工房を持てなかった数年前のことも恨んでいない。父親のお金で独立しても仕方がないと言う、プライドもあった。
「企んでいるわけじゃないだろう。ただ、あのバッジオ殿もお年を召された……」
それは、レオーネも感じたことだった。啖呵をきってレオーネを追い出すようにしたというのに、今になって心細いのか、稼業を手伝えと言ってくる。少し気の弱いところのある長兄より、社交性もある種のずるさも持っているレオーネは、確かに銀行家に向いていた。
それでも、もう自分は決めたのだ。
「さぞかし俺は恨まれているだろうな。おまえに逃げ道を与えてしまって……」
だが、レオーネの繊細で美しい女性をロレンツォも気に入っていたのだ。あのまま埋もれるのは惜しい、と思ったのも事実だった。
「感謝こそすれ、恨むことはないだろう。おまえのおかげで、不肖の息子は路頭に迷うことも、どこかで惨めに暮らすことからも、逃れたんだ」
ロレンツォの協力がなくても、レオーネはあの家に戻る気はなかった。それこそ、今ごろどんな生活をしていたのかわからない。
「なぜ、それほどまでに厭がる?」
レオーネは、画家としての才能もあるが、銀行家としても十分大成できるだろうとロレンツォは思っていた。彼が後を継ぐなら―――それも心強いことだろう。バッジオ家は同じ銀行家でありながら、メディチに協力を惜しまない貴重な存在だった。
「俺は、美しいものが好きなだけだ」
美しく、尊い、宗教画の数々は、自分とは正反対のものだ。レオーネは、自分の穢れを正すために、それらのものを描いているのかもしれなかった。
そんな誤魔化しのような行為がまた、神を冒涜しているのだとしても。
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