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父親について水の旅をしていたとき、親父は何も聞かなかった。ただ、話す時間はたくさんあって、親父が行った色々な国の話を聞いた。
北欧の深い森や、ホテルもないような小さなヨーロッパの街や、広大な砂漠の話。イタリアの田舎町で食べた、レストランとも言えないような、ワインと一種類のピザしかないようなところの、そのピザの美味しかったこと。どうしても森の奥の滝を見たくて、結局熱意に負けて一緒に来てくれた地元のレンジャーのこと。彼とは、今回も会いたいのだと言っていた。剛毅な人物で、一緒に森の奥まで歩いていくときに、やれやれと言いながらウイスキーの壜をリュックに詰め込んでいったらしい。それも一本なんて物ではなく、三本ぐらいはあったと言う。三日ぐらいのために。確かに酒は強く、夜通し付き合わされ、親父は起きたときに鹿と対面して、息が止まる思いをしたという。その横で、その男はぐーぐー寝ていて、起きたときにも「見逃すなんてもったいないことをしたもんだ」と笑ったらしい。
ぽつりぽつりと喋る話は、なぜ親父が写真家なんてものをしているのかを改めて教えてくれた気がする。人を撮るときも自然を撮るときもあるが、まず、何かを探しに行きたいのだろう。
さらさらと流れる川の音を聞きながら、その日は二人で寝袋にくるまって星を見ていた。こう言う音は写真には撮れないけれど、見たときに聞こえてくるように閉じ込めたいのだと、そんなことをぼそりと話していた。
夏でも、割と高い山に登って来たために、夜の空気は冷たい。親父はいつも寝袋で寝るわけでもないらしく、車を近くまで入れているときは車で寝ることもあるらしい。簡易ベッドのように、後部座席がかなり綺麗に倒れるのだ。でも、こんな星の綺麗な夜ならば、外に寝なければもったいないと二人で外に寝転がっていた。
「本当は、こういうものにおまえや実に生で触れて欲しかったんだ」
だから連れて歩きたかったらしいが、母親から取り上げることになるのが心苦しくてできなかったと苦笑する。
「こんな風に同じものを見たり聞いたりできることは、幸せなことだろう?」
じっと真上の星を見ている親父は、母親とも、何度も旅をしたことを思い出しているのかもしれなかった。その話を聞いたことはないが、アルバムに写真が残っていることは知っている。そのアルバムを、母親が持っていったことは、親父は知っているのだろうか。
俺は、東と行った花見のことを思い出していた。あのときは星ではなく、花びらが降っていた。とても静かで、穏やかな午後だった。
「東と、花見に行ったんだ」
「……あれは、やっぱり藤原だったのか」
ごそりと親父が寝袋の中で動いた。
「静かで、綺麗だった。思ったより変わってない気がした」
「何年ぶりだった?十年以上か?」
「たぶん」
小学校に上がってから、あそこに行っただろうか、と思い出そうとしたがわからなかった。あの場所で覚えているのは、ふわりと舞う桜のことばかりだ。目を閉じたら、その桜を見上げて、目を細めた母親の顔が浮かんできた。
綺麗な、人だった。
「東も気に入ってた」
そうか、と穏やかな親父の声がした。
今と同じように、二人で空を見上げるように寝転がっていた。ときどき、髪につく花びらを取るように、さらりと髪を撫でられた。東が頼んでいた料亭の弁当は本当に美味しくて、日本酒がないことを二人で心底残念がった。
ときどき、キスをした。
「どこであいつと知り合ったんだ?鷲見のところじゃないんだろう?」
鷲見さんから話を聞いているのだろう。でも、バイト先には鷲見さんはそれほど頻繁には来ないのに、と思う。
俺は実の家出のことを、包み隠さず話した。親父も、その小さい実の行動に心を痛めたらしい。しばらく、黙っていた。
「おまえと実には、俺はやっぱり何もしてやれなかったんだな」
静かな夜に、溶かすような声だった。それで、俺は何も言えなかった。
ごそりと寝返りをうつと、親父もじっとこっちを見ていた。
「仕方ないよ。親父は、写真を撮ってなかったら親父じゃないんだろ」
母さんも、それはわかっていたのだと思う。そう言うと、親父は照れたような苦笑したような顔をした。
もしかしたら、俺も結構なファザコンなのだろうか。ふと、東と親父が似ているような気がしてしまった。
「母さんも、俺も、どうして厄介な人間に惚れたんだろう」
「なんだそれは」
「うん、なんか、似てる気がした」
誰と誰が?と親父が眉根を寄せる。それから、嫌そうな顔をした。
「……可愛い息子を泣かせるような奴に似てるなんて心外だ」
泣いてないよ、と俺は笑ったが、親父は顰めた顔を直さなかった。
「だいたい、どうして藤原なんだ?そんな厄介っていう位なら」
「どうして?」
言われてみると、理由なんてない気がした。あれだけ悩んだのに、ここのこういうところ、とはっきり言える何かなんてない。
「東が、東だから――」
そうとしか言えなくて、でも、だからこそ、突然母親の気持ちがわかったと思った。
怖かったのだ。親父を親父たらしめている、その写真を取り上げてしまいたいと思っている自分が。そんな親父が好きだったのに、そうじゃない親父を求める気持ちの板ばさみのようになって、あの一時期、狂ったのだ。
俺も、東が東だから好きで、それはあの俳優業も大切な要素の一つだと思っている。でも、だからこそ、俺たちはものすごく危うい関係なのだ。男同士というだけではなく、プライバシーを探られてしまう、東との関係だから。
東が、東だから。
なんて理由だろう。そんな理由で好きなんて、どうしたら嫌いになれるんだろう。好きなところ一つを否定するのでは足りなくて、東全部を否定するなんて、出来るはずがないのだ。
「イズル」
親父の声が静かな空間に響いた。こういうとき、この人は確かに親なのだと思う。子を持つ人間が出す声というのが、ある。そして、同じように、視線というものが。
「人は、決して完全じゃない。……例えば、俺が俺でいられたのは、母さんと出会えたからだ。今更そんなことを言える立場じゃないがな。でも、誰かと誰かが惹かれ合うというのは、そういうこと何じゃないかと思う。どちらか一方ということは、ないんだ」
母さんは、親父は写真が一番大事で、家族のことなどどうでもいいのだろう、と泣いていたことがあった。それはいつも堪えるような涙で、泣くことを悔しがっているような、恥じているような感じだった。きっと、わかっていたのだ。でも、だからと言って母さんは待つことは出来なかった。
惹かれあって、二人はこんなに分かり合っていた。それなのに、別れたじゃないか、と思う。
わからなかった。どうすることが一番いいのか、わからなくなっていた。逃げ出してしまえば、傷つかないと思っていたのに。
わからないまま帰ってきて、東を見たとき、怖さと混乱に逆上した。ぜったい、駄目だと思った。あんなに近くにいたら、手を伸ばしてしまうと思った。
切り離すな、と東は言った。
わかっている。東は、俺が恐れていることをわかっている。そして、その俺を、ただ抱き締めた。
名瀬さんは、と訊かれて、俺は「鷲見さんと飲んでる」と掠れた声で答えた。懸命に涙を堪えていたら、喉が少しおかしくなったようだった。努力空しく、俺の顔はぐちゃぐちゃになっていたけれど。
そっと、頬を親指で撫でられる。東は優しい目で、俺を見ていた。
「舞台、来てくれてありがとう」
東はそう言いながら俺の腕を取って、立ち上がるように促した。俺はふらりと立って、東を見た。ひどく、心細い目をしていたと思う。東は困ったように、微笑んだ。
「舞台の最後で、俺はどうしたらいいか本気でわからなくなって、立ち竦んだ。怖かった。俺は一体誰なのか、わからなくなった」
ゆっくりと歩きながら、東は言った。俺を座布団の上に坐らせて、東自身は立ち上がろうとする。俺は思わず、その腕を掴んだ。
「イズル……」
どうしたらいいのか、わからなかった。ただ無意識に、手が伸びた。
東は俺の隣にあぐらをかいて坐って、俺が掴んでいない方の手で俺の頭を撫でた。
「イズルに、会いたかった。会って、俺は自分が誰なのか確かめたかった」
「俺は……」
東に会いたかった。でも、怖かった。怖くて、だから会いたくなかった。
「怖かった?」
東の親指が、ゆっくりと俺の目の下をなぞった。まだ、濡れているようだった。俺は頷きもせず、ただその東を見つめた。
「イズルが何をそんなに怖がったのか、俺は今日実感した。あの舞台の上で、誰もいなくなった俺は、すごく怖かった。……イズルも、いなかった」
「俺は、逃げたんだ」
「……」
「東は、東だ。ああやって舞台に立ってるのも、テレビに出てるのも、写真に写るのも、みんな東だ。俺は、その東も好きなんだ」
芸能人としての「藤原東」についての話題は避けたことが多かったから、俺はそのことを東に言うことは滅多になかった。どれも東じゃないか、と言うことはあったが。
「その東にも、親父にも、鷲見さんにも、誰にも傷ついて欲しくなかった」
でも何より、自分が傷つきたくなかった――。
そう呟いて俺は俯いた。掴んでいた東の腕から、ずるりと手が離れた。
「ごめん」
ふいに頭上から聞こえた言葉に、俺は驚いて顔を上げた。
「東が謝ることじゃないだろ」
「いや、もっと考えるべきだった。そうやって悩んでいても、イズルは誰にも相談できなかっただろ?誰に話すことも出来なかったはずだ」
それとも誰かに話せた?と訊かれて、俺は首を横に振った。
「東は、誰かいたのか」
「話してはいないけどな。鷲見さんも知ってて、社長もマネージャーの矢野も知ってるはずだ。事務所関係は味方になるとは限らないけど……でも、矢野をもう少し信頼しても良かったと思ってる」
「知ってるって……」
「俺は商品だからな。矢野は商品管理にはうるさいんだ。俺が変わったと思ったら、身辺を調べるくらいのことはする」
俺は矢野さんを知らない。でも、少なくとも仕事の面では、東は彼を信頼していたと思う。それを言ったら、仕事についてはな、と苦笑した。
「元々プライベートには干渉させてこなかったんだけど。イズルのことは、ちゃんと紹介しておくべきだったと思ってる」
「反対されても何も言えないよ」
それは仕方がないと思う。そう言ったら、東は「でも諦めちゃいけない」と言った。
「諦めちゃ駄目なことはあるんだよ、イズル」
東の声は低く響いた。低く、でもはっきりと。
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